2023年映画感想No.85:小説家の映画(原題『The Novelist's Film』) ※ネタバレあり
街の片隅で起きている小さな人生の更新
キネカ大森にて鑑賞。
ホン・サンスの映画らしく今作もとてもミニマルな形での「人生の更新」が描かれているように思う。抱えている人生の停滞に抗うように移動する主人公がいて、その結果として訪れる偶然が物語そのものになっていく。
新しい場所を訪れたり誰かと会ったりするところにある「何かが変わるかもしれない」という期待と、一方で人間関係や物事の流れが自分の意思だけでは全くコントロールできないという偶然というものの掴みどころのなさがあり、とてもシンプルな選択が結果としてなぜだか思いのほかややこしくなってしまうところにある豊かさを愛おしく切り取る。
人生が自分の想像の外側に少しだけ広がるような瞬間や自分の手から少しだけ離れるような瞬間を、街の片隅で起きているかのようなフラットな距離感で見つめる。動くこと、誰かと会うこと、話をすることで生まれる不確定さをこそ「一人では完結しない世界」として祝福するようなホン・サンスの映画がやっぱりとても好きだと思った。
会話に響き続けるニュアンス
今作もいつものホン・サンス作品のように主人公が訪れた場所で出会った誰かと話をする、という状況のバリエーションで進んでいく物語なのだけど、どの場面も絶妙に距離を測るような空気感の会話になっていてそれが何から来るものなのかを話す人物の様子や内容から類推しながら観るのが面白い。
冒頭の本屋さんの場面は最初に店内で店員が怒鳴っているところに鉢合わせる描写があることで、その後におそらく怒鳴ってた本人である昔の知り合いと再会する場面になんかずっと気まずい感じが続くのが面白いし、結局そこについては最後まで言及されないのも変にリアルで笑ってしまった。
微妙に状況も関係もよくわからないのだけど、冒頭の場面があることでなんとなく主人公側が後輩に対して「人としてあまり好きじゃない」と思ってるニュアンスが乗っかってる気がするし、その思うところありそうな感じが時折ケンとした瞬間に滲み出ているようにも見える。
主人公の人生の奥行きが見え隠れする瞬間
現在小説が書けていない主人公の「小説家」というアイデンティティに対する認識が会話の中で見え隠れする瞬間が面白い。話すことで何に向き合えていないのかや何に向き合いたくないのかが何となく伝わってような瞬間があって、なんなら彼女本人も会話することで無意識だった自己認識を明確にしていく部分がある気がする。
言葉にされない内心なのであくまでこちらの想像でしかないのだけど、誰かが内側に抱えている物語が醸し出すニュアンスすらも観客が受け取れることを信じているかのような作劇に心を揺さぶられる。
ある意味で自分の表現するべき物語を探して動き続けている主人公に対して、安定した自分の人生を生きている昔の知人たちがゆく先々に現れる。その人たちとの会話にはそこから生じる劣等感や焦りのようなものがそこはかとなくピリッとした態度に表れている気がするし、そうやってなんとなく自分を探しているような淡い放浪がキム・ミニという圧倒的な魅力の塊に着地するのもホン・サンス作品の因果律として説得力がある。
嫌いな人と話しているときのストレス描写
訪れた観光地のタワーで過去に一悶着あった映画監督と再会する場面も、絶妙に噛み合わない空気感が可笑しい。奥さんに声をかけられた時点から認識のズレがあるし、彼女が夫である映画監督を呼んでくると状況がよりややこしいことになる。遅れて登場する映画監督をクォン・ヘヒョが演じていて出てきた瞬間に笑ってしまった。彼が演じていることでろくなことにならない予感しかしないし、案の定鈍感でデリカシーのない映画監督にイライラし続ける主人公という状況が中々終わらないのが面白い。
過去にあった出来事に関して明らかに捉え方の違いがあるしそれによって結構お互いの印象に致命的な温度差があると思うのだけど、そもそもそのことに気づけない人だから再会して普通に話そうとか言ってくるわけで、「もはやこの状況自体にイライラしているので何を話しても悪く捉えてしまう」という嫌いな人との話す時のストレス値の上昇がめちゃめちゃリアルだった。客観的に見たら明らかに不穏な雰囲気なのに映画監督側がこれまた火に油を注ぐようなことを言ったりしていてハラハラするし、すごい手前からずっと抱えていたイライラを変なきっかけで爆発させたかのようなブチギレシーンも絶妙に不器用で良かった。僕もその瞬間にはあんまり上手く怒れない上に、自分のことなら我慢できるけれど他人への迷惑には言いたくなるタイプでもあるので、主人公の怒るタイミングの悪さには共感しかない。
「眼差し」という物語
タワーの場面でレンズを覗き込む主人公のクローズアップからホン・サンスらしからぬ超ロングショットの絵になる撮影の繋ぎが印象に残るのだけど、彼女の目から見える物語が見つかった瞬間だからこその演出なのかもしれないし、ひいては「物語とは誰かの眼差しである」という宣言のようにも思える。中盤の会話で主人公が自身の映画のアプローチを「ドキュメンタリ」と表現されるのを否定するのだけど、その似て非なるものの証明がこういう「眼差し」という映画的な瞬間に感じられる気がした。
ラスト出てくるある映像は劇中の主人公が撮った作品のようでも監督自身が撮った記録映像のようでもあり、そこにわかりやすい物語は無いからこそ「眼差し」をこそ「映画」として再提示しているようにも思える。ホン・サンスの映画が基本的に統一された客観の距離で会話劇を映すからこそそこから逸脱する瞬間がとてもマジカルに思えるし、それがあることで実は表面的な会話や出来事の向こう側(もしくはそこで交わされる一つ一つの眼差しの中)には常に誰かの物語が存在しているように感じられる。ホン・サンス作品においてそれが可視化されるか、伝わるかは重要ではないのだけれど、だからこそ豊かな停滞やささやかな前進が描かれているように思う。
創作的な閉塞感と未知への期待
主人公は未知なものに物語の可能性を探そうとしているようにも見える。
本屋さんで若い店員さんも交えてコーヒーを飲む場面の手話を学ぶやりとりは暖かな印象があり、主人公の純粋な好奇心が伺える。この若い店員さんから別れ際に「尊敬してます」と言われて主人公は嬉しそうにするのだけど、後半出てくるある詩人にこの店員さんが全く同じことを言うのを見つめる主人公の目がすごい冷たくて笑った。
主人公は過去の自分を知っている人物たちとは壁を作って接するのに対してキム・ミニやその甥との新しい関係にはワクワクしている。さっきまで一緒にいた映画監督ともできただろっていう話をキム・ミニとだけニッコニコで話すのがめちゃめちゃ人間臭くて可笑しい。「カリスマ性」という言葉に対する受け取り方の違いなど、反復と差異という映画的な演出に人間味が溢れる瞬間を重ねる。
言語化されないものの豊かさ
主人公の作った映画を観終わったキム・ミニの姿を映すラストカットも心に残る。
「映画を観る」という時間には必ず終わりが来るということの一抹の切なさのようであり、一方でエンドロールが終わった後も言葉にされないことで彼女の中に映画が続いているようでもある。なんならいつだって「映画」や「物語」は「言葉」より豊かなものなのだと思う。各々が作品を受け取って心に物語が広がるその瞬間が一番豊かなのだと提示するような場面であり、観終わって映画を思い返す時間にも豊かな映画体験があることを知っているからこそグッとくる。
この映画内ではキム・ミニが観た映画をどう思ったのかについて答えを出さない。言葉にして物語を矮小化する必要はない。今観た映画の物語を抱えて、動き出し、次に進んでいく。その先には誰かがいて、その繰り返しで人生は続いていく。
そうやってささやかに更新されていく時間を人生の断片として提示するようなホン・サンスの映画は本当に繊細で豊かだし、その感受性のサイクルの中に「映画を観る」という行為も繋がっていると描いてくれることに気持ちを揺さぶられた。繊細であることを強制しない語り口であると同時に、繊細であることを受け入れてくれるような物語が優しい。