2023年映画感想No.43:TAR/ター(原題『Tar』) ※ネタバレあり
物事をコントロールしようとする人間の物語
ホワイトシネクイント、チネチッタ川崎にて鑑賞。
主人公のリディアは偉大であること自体がアイデンティティの人物であり、だからこそ偉大であり続けることの不安やプレッシャー、孤独に対して偉大さと表裏一体の権力によって対処しようとしてしまうことが彼女の問題のようにも映る。
ゴリゴリの男性社会であるクラシック音楽界における唯一無二の女性コンダクターであり、だからこそこれまでも正当な評価を受けられなかったのであろう抑圧が冒頭のインタビューシーンからも透けて見える。"女性の"コンダクターという限定的な評価についてのやりとりや「人間メトロノーム」という存在意義を巡る言及など、常に彼女のアイデンティティはクラシック業界からの批評的視線によっておびやかされている。
またそこでのやりとりでリディアは「指揮者とは”時間をコントロールする存在”」だと定義している。本作のリディアはマーラーの交響曲の全曲ライブ収録という文句無しの偉業に向けてラスト一曲の交響曲第5番の指揮に向き合っていくのだけど、まさに彼女は公私において物事をコントロールしようとする人間であり、本作はそのコントロールを失っていく物語だと感じた。
リディアの秩序を狂わせるノイズ
彼女が自分自身のコントロールを失っていくキッカケとして元教え子の自殺があるのだけど、それに前後して日常的なノイズに煩わされるという描写が挟み込まれるようになっていくのが映画的な演出としてスリリングだった。リディア自身が目を背けている「自分のやり方が間違っているのでは無いか」という不安や罪悪感、破滅の予感がニューロティックに現実を侵食してきているように感じられる。
リディアは様々な音によって生活のリズムを狂わせ、不安に苛まれるようになる。音をコントロールしてきた人物が音によって崩壊していくというのが象徴的であり、特にメトロノームというアイテムは彼女の不安と直結するモチーフとしてわかりやすい。
隣人との関係によって練習の時間が邪魔される描写の積み重ねも面白い。どんどん煩わしさがエスカレートしていく隣人に対してリディアは無関心で心無い態度を取り続けるのだけど、亡くなった隣人の母親が運び出される場面で立ち尽くす隣人を見つめる眼差しには見て見ぬふりをしてきた切実な痛みや悲しみを初めて正面から受け止め、非人間的にあしらってきた自らを省みるような手触りがある。リディアが無碍にしてきた他者からのノイズは誰かにとっての切実なSOSかもしれない、という彼女に欠けていた良心を知らせる描写になっている。
思い通りに行く身近な人々への思いやりの無さ
リディアには強者としての立場で承認を満たしているようなところがあり、妻や秘書など自分の才能に惚れている人々の尊敬や愛情は思い通りになる都合の良いものとして扱っているように映る。
演奏を完璧主義的に追求する裏側でそれ以外の事務的業務や私生活を支えてもらうことが当たり前になっている人物で、それも自分が偉大であることで報いれると思っているのかもしれないけれど明らかに身近な人の思いを踏みにじり、傷つけている。
そうやって目的である良い音楽を追求する中で生まれる「思い通りにいかない」という不安要素を権力によって次々と埋め合わせて行くのだけど、そうやってエゴを通し続けた先で元々思い通りになっていたものまでを失い、「思い通りにいかなさ」は完全に彼女の手に負えなくなってしまうのが虚しい。
フランチェスカ~小さい存在として抱える恐怖と怒り
元教え子の自殺というある種最もコントロールできない要素に対して、他者への気遣いに煩わされるのを嫌いストレスを出来るだけ排除しようとするリディアの非人間的な対処の仕方がマネージャーのフランチェスカのリディアへの信頼を揺さぶる大きな要因になっている。
リディアにとって不都合な存在に認定されると「問題があった」とされてしまうことにフランチェスカは戸惑い、怯えているように見えるし、一方のリディアも自殺した元教え子と立場の重なるフランチェスカを不安視している。
その溝が副指揮者に任命しないことに繋がっていき、その決定的な不信任がフランチェスカを憎さ百倍への逆流へと導く。直接的に言及はされないけれど冒頭から繰り返し挟み込まれるライブチャットの画面がフランチェスカの目線を示唆していることからも、フランチェスカが消えてから投稿されるSNSの動画もフランチェスカの仕業だとも捉えられる描かれ方になっていると思うし、その投稿が自殺の原因をリディアのパワハラとする告発を目的としているのも筋が通っている。
問題視されることになる授業の場面はじっくりとした長回しで撮影されているからこそ映画の観客はリディアと同じ時間を共有し、そこでのやりとりをフェアに見つめているわけだけど、だからこそあのように時間を細かく切り刻むように編集された動画がリディアの秩序を攻撃するというのもテーマに対して一貫性のある演出で上手い。
無いものねだりが加速させる本末転倒
そうやって外的な影響からリディアはオケの演奏も人間関係も思い通りに行かなくなっていくのだけど、それを埋め合わせる存在としてロシア人チェリストのオルガに執着していくような展開も面白い。
自分を尊敬し自分の音楽をより良いものにしてくれる、という”偉大な自分”の承認の欠落を埋め合わせる存在として彼女を固執していくのだけど、結果的にその無いものねだりが安定しかけていた状況を決定的に崩壊に向かわせてしまう。リディアを「コントロールすること」でしかアイデンティティを確かめられない人間とするならば、ほぼ完成していたオケのバランスを崩しても新たに才能ある音楽家を手なづけようとする行為にも一貫性が感じられるけれど、すでにその状態は偉大であることの幻想に取り憑かれ弱い自分をコントロールできなくなっているだけだというのが皮肉に映る。
もはや本質を見失っているというのはオルガと初めて会う場面の音楽観の矛盾からも感じられる。リディアが信じている価値観とオルガの性格には乖離があるのだけど、それすらも認められたいという承認欲求を加速させるようですらある。Youtubeでカジュアルに音楽に触れ指揮者という存在に重きを置かないオルガは一方で進んだ人権意識がある現代人であり、だからこそ彼女の存在がリディアを「時代遅れの人間」として浮かび上がらせることにも必然がある。
リディアがオルガを贔屓したいがためにオーディションを開く展開は言ってることがめちゃくちゃすぎてオケ全員の信頼を失っていくのが本末転倒で可笑しい。リディアのオルガへの執心はもはや片想いの領域に突入していくのだけど、オルガを追いかけるとどうなるかを暗示するような地下の場面をきっかけに状況はどんどん悪くなっていく。
男勝りという自意識の揺らぎ
男性社会を生き抜いてきたことから来る自意識なのか、劇中リディアは男性的に振る舞うことで自らを誇示する場面がいくつかある。冒頭では男性指揮者のジャケットをパロディしているし、娘をいじめる同級生を脅す場面では自らをパパと表現する。彼女が車を運転する人間として描かれるのもその男性的立場や「物事をコントロールする人間」であることを象徴的に表している。
だからこそオルガを追いかけた先でパニックから転んで怪我をしたリディアがそれを「男に襲われた」と表現することには彼女のアイデンティティの混乱が表れているようにも感じられる。続く場面ではそれまで一人で寝れていた娘がリディアを読んで寝かしつけをお願いする描写があり、弱っていることを娘に見透かされ、父親的役割を任されることで慰められているようにも見える。
自尊心やプライドが傷つくたびに誰かを支配することでそれを埋め合わせるリディアは、そのたびに周りからの信用を失い、状況をコントロールできなくなっていく。告発されたリディアが自分をアピールするために本の宣伝ツアーにオルガを同行させるのも完全に裏目に出る。自殺に抗議する人たちに取り囲まれ、人権意識の高いオルガに見放され、見え透いたアピールもあっさり袖にされる。
それ以降はリディアのコントロールできる状況はもはや残っていない。彼女を巡るキャルセルは雪崩式に進行し、楽譜が無くなり、隣人には彼女の音楽を騒音だと言われる。音楽は彼女の手から失われていき、支えてくれた人々もいなくなってしまう。
最後にすがるのが暴力というのも男性社会でサバイブしてきた彼女を皮肉に表現しているし、取り返そうとしたのが指揮台という場所だったのも象徴的に感じる。
全てを失ってなお残るもの
そうして全てを失った彼女が自室で小さい頃に見ていたオーケストラのビデオを見て初期衝動に立ち返り、再び異国のフィリピンで音楽に戻っていくラストが良かった。「全てを失ってなお残るものこそアイデンティティ」という切実な描写にグッとくる。
彼女が貴賤なく音楽と向き合っていることが最後の演奏シーンで明らかになるのだけど、モンスターハンターの演奏付き上映の準備で「演奏の前に作曲者の意図について考えましょう」とか言ってたのだと思うと真摯すぎて笑ってしまう。一方で「モンスターをコントロールする」というラストの指揮は彼女の再起とも重なって象徴性な場面としても感じられる。
またその直前にはマッサージ店に案内されたリディアが番号で管理されるマッサージ師の女性たちを見て吐いてしまう場面があるのだけど、権力によって他者を蹂躙してきた過去を顧みているような描写になっていると思う。
目の前にある音楽と真摯に向き合うラストにリディアの「私はここにいるぞ」という魂の叫びが重なって見える。『フォックスキャッチャー』にも通じる余韻が残る。映画冒頭から印象的に流れるエンドクレジットは本作が「終わりに始まり、始まりに終わる物語」なのだと考えると、またここから彼女の物語が始まっていく予感に胸が奮える。