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2024年映画感想No.1:市子 ※ネタバレあり

悪女として語られる市子の苦しみ

キネカ大森にて鑑賞。
「プロポーズした翌日に失踪した彼女の足跡を追う」というあらすじの強さを活かしたミステリー的な構成が序盤から物語にグッと引き込む仕掛けとして素晴らしかった。
市子という人物について彼女の人生のそれぞれの時期に関わりがあった人物たちの証言から浮かび上がらせるような内容なのだけど、抱えているものについて徐々に見えてくるような構成、その断片性自体に真実の複雑さや他者が理解することの難しさが象徴されているようにも感じられる。
ファムファタルとして語られる他者としての市子は尊厳を犠牲にしながら生きなければいけなかった彼女の痛みと裏表であり、悪女として語られること自体が彼女の苦しみそのものでもある。環境的要因から他者との関わりを諦めざるを得ず、ハードな人生を生き抜く手段として自分を犠牲にしながらなんとか幸せになれる場所を追い求めた彼女の切実な人生に胸が締め付けられる。

男らしさの犠牲者としての女性たち

市子の母親もまた男性性の犠牲者なのだけど、序盤にさらりと描かれる男側の人間性の問題すら付き合う女性の責任として語られる場面が印象に残る。
まだ幼い市子やその同級生の女の子は市子の母親が働くパブで放課後を過ごしているのだけど、家庭がありながら外で女性を口説く男性は非難されず仕事として接客する女性側が悪として語られる価値観に小さいころから触れていることで男性優位な世界観が内面化されてしまうのだと思う。
あの同級生の現在が描かれる場面があるけれど、彼女もまた母親という役割が負担になっていることが子供に対する粗野な態度から匂わされる。男の無責任さが普通として扱われる環境で生きてきたことで不幸から抜け出せなくなってしまう人がいて、そういう環境では子供も自分を抑圧してきたものを象徴する存在になってしまうのだと思う。

市子に訪れる初めてのシスターフッド

市子もまた母親から受け継いだ渡世術として幼い頃から性的魅力を差し出して承認される居場所を求めてきた人物であることが匂わされているのだけど、一方で彼女に訪れる初めてのシスターフッドは同級生男子の性的加害を否定するところから始まる。お互いの家に行くという展開が育ってきた環境の違いを残酷なまでに浮かび上がらせるのだけど、後から出てくる市子の家の異常さを際立てるような見せ方の順番になっていて演出的にもショックが強調されている。
市子が自分の家に友人を招いたのは単純にそれが友情の在り方だと捉えただけかもしれないけれど、大人たちから「家に誰も呼ぶな」と言われていたことを無視しても自分の現実を曝け出したのだと思うと切実なSOSだったかのようにも感じられる。
もらったものに対して与えられるものがない市子は結局母親を性的に搾取する男から金をゆすり取るしかなく、そういう家庭の状況に順応してしまっていること自体が男性的な加害から自分を守ってくれた市子に対する同級生の絶望に繋がっているように感じた。

市子を通じて男らしさを承認しようとする男たち

高校時代の市子の恋人である倉悠貴演じる田中は市子とセックスしたがってばかりの男で、性的関係だけの空っぽな繋がりしかない。自分の所有物として市子の存在をアピールする器の小ささや女性観の歪み、暴力でそれを表す底の浅さなど少ない描写の中に男らしさの醜い部分がギュッと詰まっていて非常に感じが悪い。
その割に市子の家までついてきたところで市子が母親の彼氏がいる家に帰りたくないことを田中の欲求に応える形で表現するとそういった性的な関係の外側にある事情を共有することは拒否するという始末で、本当に自分の都合だけで女性を見ている哀れな男として描かれている。
一方でそういう市子の彼氏とは対照的な存在に見える森永悠希演じる北も対女性に対して男らしさの承認を求める人物であり、田中と根は同じ病理を持っている。市子の悲劇に乗じて自分のエゴイスティックなヒロイズムを語る人物であり、結局自己都合でしか市子の事情を見ていない。頼んでもないのに市子を助け、対価としての関係を要求し、思い通りにならないと市子の生き方を否定する。
市子を性的に搾取していた渡辺大知演じる小泉と同じように北も市子を「悪魔」と表現するところに愚かな男性性の仮想敵として責任転嫁される女性の在り方が描かれているように感じられて、結局自分の幸せのために市子の幸せを侵害する彼の行為はとても暴力的に映る。

過去という呪い、未来という希望

自分の人生を生き直すために月子ではなく市子として過去と決別した彼女がケーキ屋という夢によって人生の希望を初めて見つけていたことにグッと来る。ケーキは彼女にとって初めてのシスターフッドを象徴するものでもあり、だからこそ自分のことを誘ってくれた中田青渚演じる吉田との関係も含めて自尊心を傷つけずに幸せになれる居場所がある未来を信じてみようかなと思えたのかもしれない。体調悪くて寝込んでる人にケーキを食べさせようとする吉田の鈍感な良いやつ感が愛おしい。
一方で彼女との関係が大切だからこそ北に見つかったことで過去に追いつかれた彼女はその場所を去る選択をしたようにも見えるし、それは若葉竜也演じる長谷川の元を去る選択とも繋がっているように思う。もしかしたら市子はそういう状況の解決のために社会制度に則った救済に頼ることが正解だったのかもしれないけれど、僕個人としては彼女が社会規範に自分の人生のジャッジを託すのではなく自分の自尊心の問題として過去を消去して生きたいと願い続ける気持ちはやっぱり否定してはいけないように思う。

「自分の人生を生きていること」としての手描きの名前

各パートの冒頭にその時市子と関わっている人物の名前が黒い背景に手書きの文字で表示される演出が心に残る。
この映画で最初に画面に出る名前は「市子」というタイトルなのだけど、無機質なデジタルフォントで映る市子という文字がその時点での彼女の「わからなさ」を表しているようであり、市子を見つめる登場人物たちが持つ社会的なアイデンティティに対してそれを持てなかった彼女の人生のあり方を象徴しているようでもある。「名前が書けること」が自分の人生を生きていることのようで、そう思うと物語が進むほどに「市子の人生はどこにあるのだろう」と苦しい気持ちになってしまうのだけど、だからこそ終盤「川辺市子」と手書きの文字が出てくる場面にハッとさせられる。

一緒にごはんを食べる誰かがいることのかけがえなさ

終盤、ずっと客観的に描かれてきた市子の視点から語られる長谷川との思い出がとても切ない。それまでの物語でずっと尊厳を傷つけながら生きてきた市子の人生を見てきたからこそ平穏な日常の幸福が何倍にも増して胸に迫る。
市子の追い求めてきた幸せは「誰かと一緒にごはんを食べること」として描かれているように思う。最初の幼少期ではパブで母親に持たされた弁当を友人との喧嘩で食べられない。「一緒にケーキを食べること」が性的関係以外での初めての他者との繋がりであり、それが後に初めて彼女が持つ夢にも繋がっていく。北とも一緒にアイスを食べられた頃は友人としてフラットな信頼関係がある。長谷川との関係もお祭りの焼きそばをシェアするところから始まり、食事の時間にプロポーズされたことも「この時間が終わってしまうこと」の切なさをより際立てているように思う。
失踪した彼女が持っていこうとした写真が長谷川とのものではなくかつて家族写真というのが過去に囚われ続けていたようでもあり、同時にそれが確かに幸福の原体験として長谷川と共にいた時間に繋がっていたことが長谷川との関係を肯定するようでもある。

搾取ではなく手を差し伸べることの問い

結局長谷川が市子の過去を知れば知るほど市子は遠ざかってしまったのかもしれない。知った上で助けたいと思う長谷川の良心は希望かもしれないけれど、それすらも諦めて孤独に戻ってしまった市子はここからどうやって幸せに生きられるのだろうかという心配な気持ちが残るラストだと思う。
彼女があてどなく向かう先で出会うのは映画を観ている僕たちかもしれない。そういう時に立場を利用して搾取せず、手を差し伸べて救う選択ができるか、そういう当たり前の良心を改めて問いかける作品だった。

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