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2024年映画感想No.23 シビル・ウォー アメリカ最後の日(原題『Civil War』) ※ネタバレあり

映画としての完成度の高さ

TOHOシネマズ川崎にて鑑賞。
「内戦の中心に向かっていく」という緊張感が維持する物語構造の中に、戦争の本質をめぐる地獄めぐり的な場面を積み重ねる見事な構成。戦争そのものに踏み込んでいくジャーナリズムの戦いと継承的なドラマの織り交ぜ方も素晴らしかった。
アレックス・ガーランド監督の映画作品は前作『MEN 同じ顔の男たち』、前々作『アナイアレーション 全滅領域』と「結局どういうこと?」みたいな部分が残る作品が続いていたけれど、今作は映画としての完成度がとても高い一作でずっと面白かった。

演出力の高さを示す冒頭場面の描写

映画冒頭から映像的な語り口にグッと引き込まれる。分断を生み出すリーダーによって内戦的状況があるという世界観の説明と「大統領を撮る」という目的の提示があり、ちゃんと映画全体の物語を示唆する場面になっている。今観ると既視感のある大統領像が「アメリカが内戦になったら」というある種フィクショナルな「if」の設定に現実と地続きのリアリズムを生み出してもいるように感じた。任期三期目という事実や、14ヶ月取材に答えていないというジャーナリズムを排斥する姿勢など、サラッと触れられる情報に悪政の在り方が見え隠れする。
その会見をテレビで見ているキルスティン・ダンスト演じる主人公のリーが画面の大統領にカメラのシャッターを切ることが彼女のアイデンティティの説明になっていると同時に「この人を撮る」という物語の目的の提示になっている。カメラが窓の外に向くと遠くに戦火の火の手が上がり、それによって窓に映り込んだアメリカ地図が揺れることで、アメリカ的なる価値観が揺らぎ、問い直される過渡期的な社会情勢も映像だけで伝わってくる。

旅の緊張感を高める効果的な設定

「内戦中のアメリカをニューヨークからワシントンD.C.まで移動する」という設定だけで「そんな怖いことやめてくれ!」という感じなのだけど、ちゃんとその前に市民と体制側の兵士が衝突する配給所が空爆される場面があることで「いつ何が起きてもおかしくない」という世界であること観客に意識させる段取りがあるのも上手い。結局個人個人の思想なんて関係ない、という暴力の在り方が戦争の非情で無秩序な本質を映しているようでもある。
ただでさえリスキーな旅にケイリー・スピーニー演じる右も左も分からないジャーナリスト志望のジェシーを連れて行かないといけないのも「絶対大変なことになる」って感じなのだけど、案の定いきなり彼女が迂闊にヤバい状況に遭遇してしまうガソリンスタンドの場面が彼女への洗礼的なショック描写になっていると思う。
そこでのリーの対処がちゃんと「ジャーナリズムによって暴力と対峙する」という構図を示しているし、そのイズムをジェシーに継承するメンターと弟子の物語になっていくのもドラマの作りとして素晴らしいと思った。

「ジャーナリズム対戦争の暴力」という論点

序盤は何者でもないジェシーが起きる出来事に対して足がすくむ中、リーは「撮る」ことで状況に対処していく。実際に撮影を指南する場面もあるし、ジャーナリストであることによって暴力に立ち向かえるような描写が彼女たちの戦い方として描かれる。
目の前で起きているのは本当に身の毛がよだつほどの恐ろしい暴力なのだけど、「写真にする」という行為によって映像的にも、映画の時間感覚的にも一瞬だけその現実を芸術的な文脈に塗り替えるような写真の演出が印象に残る。「残す」ことの意義が静止した画面に感じられるし、残されることで生まれるメッセージを観ている観客に投げかけるようでもある。

戦争の本質をめぐる地獄めぐりのような場面の積み重ね

旅が進むにつれて暴力に近づいていくような展開があり、主人公たち一団が暴力的状況に対して客観的立場から直接的な当事者になっていくところに緊張感がある。何が起きているのか目撃し、接近し、狙われ、ついには撃たれる。
危険度が段階的に増していく構成も素晴らしいし、一つ一つの場面にも目が離せない描写の上手さがある。途中で内戦に関わらないことで平和を保っている街を見てリーとスティーブン・ヘンダーソン演じるサミーが交わす「こんなの見たことない」「私には世界中で見覚えがあるけどね」という会話、それが示す「平和」の切り取り方の鋭さであったり、スナイパーに狙われた一本道での狙撃手たちとの会話から浮かび上がる「敵」という概念の抽象性など、戦争の本質的側面を浮かび上がらせる一つ一つの場面の切れ味にゾッとしつつも唸る上手さがある。
その極めつけとしてジェシー・プレモンス演じる赤いサングラスの兵士が出てくる場面があるように思う。暴力の対話不可能性そのもののようなキャラクターであり、右傾化するアメリカイズムの象徴的人物でもある。描かれている内容も、場面としての演出も全てがただ事じゃなく怖い。「What kind of American?」の問いが突きつけるものにゾッとしてしまうし、そういう分断は現在世界中の至る所で起きていると思う。

継承されるジャーナリズムとその先にいる現実の我々

暴力に接近するほどリーのジャーナリズムは揺らいでいく。暴力を前に徐々に撮れなくなっていく先で、先述したジェシー・プレモンスの登場場面で描かれる最も決定的な暴力によって最も決定的な無力感が突きつけられてしまう展開が絶望感を際立てる。
そんな彼女の意思を受け継ぐようにジェシーがカメラによって前に進めるようになっていく終盤の展開は熱い。リーとジェシーの着ている服の色に彼女たちの役割が反転していくことを示唆する演出がある。
終盤にジェシーがアドレナリンジャンキー的にどんどん危険地帯に踏み込んでいくのが暴力に魅入られているようで観ていてハラハラする場面にもなっているのだけど、そこにはある種の映画的快楽に酔うこの映画の観客に対する忠告があるようにも感じた。それでも彼女がかつてのリーと同じように歴史を目撃するジャーナリズムの目になり、リーがその希望を守ることで役割が継承される展開にグッとくる。
劇中、リーは戦場を撮ってきた自身について「祖国に警告しているつもりだった」と話すのだけど、この映画自体にもそういうメッセージが強く感じられる。ラスト、エンドロールとともに映し出される写真は表面的にはプロパガンダ的にも見えるものであり、ジャーナリズムが本来の役割から切り離されて利用される危険性も内包しているように感じられる画像でもある。だからこそ考えることを観客に問いかけるようでもあるし、この写真の映画の持つ文脈とはこの映画の物語そのものだからこそ映画としてできることを信じているラストでもあるように思う。


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