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2024年映画感想No.22 ぼくのお日さま ※ネタバレあり
「眼差し」の雄弁さ~肉体的な感情の発露
ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞。
冒頭、野球の練習中に初雪に目を奪われる越山敬達演じる主人公タクヤの描写が「眼差し」というこの映画の重要な文法の宣言になっているように感じた。野球の練習ではなく初雪に意識が向かう彼の美しさへの感性が後にフィギュアスケートという競技に惹かれる展開に繋がっているように思う。
野球をしている時も、アイスホッケーをしている時もタクヤは動かない。そんな彼が自発的にフィギュアの練習を始めること自体に「一歩踏み出す」という心の動きが表れているように感じられる。
この映画では吃音のあるタクヤに限らず常に言葉ではない形で人物の想いが描かれる印象がある。吃音という特性やフィギュアスケートという肉体的な自己表現を扱う作品が「言葉じゃなくとも伝わる気持ちがある」ということを信じて登場人物を見つめているところにとても誠実な印象を持った。
「見る、見られる」がすれ違う関係性
タクヤがフィギュアスケートを始めることで図らずも変わってしまう人間関係の描写もとても丁寧に感じられた。
その人が何を見ているのかに本音のヒントがあるように思うし、それをカメラだけが(=映画の観客だけが)見つめている。誰かが誰かを見ていて、その人をまた別の誰かが見ていて、という「見る、見られる」がすれ違っている関係性を、カットバックの編集や二人の人物を同時に画面内に収めることが難しいスタンダードサイズの狭い画角が際立てているように思う。
主人公たち以外のキャストにも山田真歩や田村健太郎、若葉竜也など名前のある役者さんが出演しているのだけど、彼らの登場する場面に彼らの顔を抜くようなカットは無い。それが眼差しという文法を持つこの映画が誰の物語であるのか、ということの逆説になっていると思う。
撮影から浮かび上がる関係性の変化
タクヤが入り込むことで池松壮亮演じるスケートコーチの荒川と中西希亜良演じる教え子である中学生のサクラは「2」ではいられなくなる。純粋に競技に打ち込むタクヤに対して、それぞれに異なる「2」を見つめてしまう荒川とサクラの眼差しに後のすれ違いの予感が示唆されているように感じた。彼らの関係の始まりにそれぞれが見ているものの違いを見つめるような一方的な見る見られるのカットバックがとても印象的に描かれていて、その場面のちょっとした緊張感のようなものを3人の行く末に意識してしまう部分がある。「カットが切り替わる」こと自体に「なにかが途切れている」という予感めいたものを感じてしまう。
逆に3人の気持ちが一緒の方向を向いている時は車に乗って同じ場所に向かう運動が描かれるし、同じ画角内で3人が捉えられることで親密な距離感が浮かび上がる。遠出して練習する凍った湖の場面は陽射しの中にあって映し出されるステディな時間は文字通りとても温かいのだけど、スタンダードの狭い画角では3人同時に映る瞬間は途切れ途切れになってしまうというのが重なりきらない3人の本音の本質でもあるように思う。3人で映る瞬間は確かに気持ちや時間が重なっているし、それが持続しないところに刹那的な予感がある。
想いと言葉タクヤに寄り添う人たちの目線
3人それぞれに家族やパートナーとの描写があり、そこにそれぞれのフィギュアスケートへのスタンスが表れるような描かれ方になっているのも面白い。
タクヤは吃音を持っていることもあって言葉は自分の気持ちを表す手段としてどうしても後ろの方にある選択肢なのだと思う。彼の心が動いた結果としての行動を観ている観客はとっくに彼の気持ちに気づいているのだけど、言葉でのコミュニケーションで彼の近況を知る家族はまだ彼の本気度を理解できていない。その気持ちを説明できず引っ込めてしまうところにタクヤの性格が浮かび上がるし、彼と同じ吃音の父親がそっと彼を後押しする言葉を選べることに「この人は他の家族よりちょっとだけタクヤのことを理解しているのかも」と感じられる描写になっている。ずっと黙っていた父親が最後に発言する演出の流れがキャラクターの描写になっていると同時に唯一かける言葉の優しさを際立てていて素晴らしい。
もう一人、タクヤを一番近くで見守る潤浩演じる親友のコウセイも良かった。彼との帰り道の会話であまり言葉に詰まらないタクミの様子から気の置けない関係が伺えるし、コウセイはタクヤの眼差しに気づいていたということが親友を理解していることのさりげない描写になっていると感じた。
3人の関係を外側から見守るコウセイの視点はイコール観客の視点でもあるように思う。だからタクヤとサクラのアイスダンスを見ていた彼が何も言わず祝福するところにある「僕はあなたたちを見ているよ」という視線には、同じように見守ることしかできない映画の観客ならではの感動があるように思う。この映画内で3人の物語はほとんど誰にも知られずに始まって終わるのだけど、だからこそ「それを観ている」という視点があることで一歩踏み出した先に生まれた時間が肯定される感じがした。
それぞれの視点、それぞれの本音
荒川はある種の憧れのような気持ちでタクヤの純粋な初期衝動に応えようとしているように見える。その気持ちをサクラが失いつつあることもなんとなく感じているのだろうし、だからこそタクヤとの相乗効果でサクラがフィギュアの楽しさを取り戻すことも期待しているように感じられる。荒川が現役時代の自分が載っている雑誌をきっかけにアイスダンスというアイデアを思いつくのが、「タクヤと同じ気持ちだったかつての自分からヒントを得る」ということを淡く感じられる描写になっていて味わい深い。
一方のサクラはスケートを続けることにストレスを感じ始めている。伸び悩んでいるし、母親からの期待もプレッシャーになっているように見える。だからこそ純粋な気持ちに回帰する3人の時間は彼女にとっても救いだったのだと思うのだけど、一方で教え子としてタクヤと自分とで荒川からの熱量の違いのようなものを感じていたのだろうし、その劣等感を荒川に一番攻撃的な言葉で訴えてしまう展開がとても苦い。
三人の中に残り続けるものと継承されるまっすぐな思い
特別な時間が終わってしまった後の描写も言葉ではなくそれぞれの気持ちが浮かび上がるような描かれ方になっていて味わい深い。
別の場所で指導を続けることを選ぶ荒川、一人氷の上で練習を続けるサクラとそれぞれに続いていくものがあることにタクヤとの出会いが響いているように思える。一方でだからこそ終わってしまった時間が切なくもある。
自分のセクシャリティを強く否定された荒川は傷ついたはずなのだけど、それ以上に二人を傷つけてしまった後悔を感じさせる様子に胸が締め付けられる。テストに来なかったサクラを責めないし、フィギュアを続けさせてあげられなかったタクヤに謝る。荒川がタクヤに思いを伝える場面はキャッチボールという正対した構図でのやりとりになっていて、スケート靴を託すこと、謝ることというメッセージが彼の真っ直ぐな気持ちだということが演出的にも感じられる。
だからこそその思いを受け取ったタクヤが、まさに託された気持ちを腕の中に抱えてもう一度サクラに再会する場面もまっすぐに向かい合ったカットになっていることにグッとくる。映画は彼が何か言葉を言おうとしたところで終わるのだけど、それがとても前向きでまっすぐな印象を残す。
とても優しく、ほろ苦く、温かい作品だった。