15歳の3.11〜東日本大震災11年によせて〜
私は中学3年生、15歳の時に東日本大震災を経験しました。その5年後、20歳で残した手記の一部を載せようと思います。
語ることが、誰かの防災に繋がるよう想いを込めて。
匿名性確保のため、地名等は伏せさせてもらいます。
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その日は中学校に通う最後の日で、給食を食べる最後の日で、最後の授業がある日で、ただそれだけの、誰の人生にもある1日になるはずだった。
明日は卒業式。春からは憧れだった高校に通うことも決まっている。毎年先輩を見送ってきた卒業式が自分たちの学年の番になって、それが終われば謝恩会もあるし、春休み中に友達と遊ぶ約束もしてある。
とにかくこれからのことが楽しみで、悩み事もあったけれど、今思えばそれも充実した生活の一部であって、誰の未来も平等に明るいものであるのだと、何の根拠もなく信じていた。この場所に帰ってくればいつでも桜を見ることができるし、会いたい人には必ずまた会えるのだ、とも。
音楽室で、最後の授業が終わった。まだ卒業式じゃないのに、泣きそうになった。学年主任の先生が、絢香の“みんな空の下”を歌ってくれた。伴奏の子と打ち合わせをして、この日のために練習していたらしい。知らなかった。3年間私たちのことを第1に考えて、いつも真正面からぶつかってくれる先生だった。良い思い出を残そうとしてくれたのだと思う。現に、今でもこの場面のことは思い出すし、この歌を聴けば必ず中学3年生のあの日が蘇る。
あたたかい音楽室の中で、あたたかい人たちの愛情に包まれて、自分の席からまっすぐ先生の歌を聴いている光景を今でもよく思い出す。
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5年後の自分に手紙を書いてくるように、と最後の宿題が出された。音楽室を出てすぐの廊下で、封筒と便箋を受け取る。何を書こうかなあと余韻に浸りながら私は考えていて、それぞれ、きっと様々なことを思いながら、放課後を過ごし始めた。
1、2年生は体育館と3年生の教室で、明日の卒業式の準備をしているから、もう少し帰りは遅くなる。
今帰れば16時前には確実に家に着くけれど、そんなに早く帰ることが滅多に無いものだから少し不思議な感覚で、でもいつものように友人2人と揃って自転車で帰宅しようとしていた。
どんな話をしていたかも覚えていない、普通の帰り道。確か、この道を自転車で帰るのも最後だね、だとか雪が降りそうだね、だとかそんな話をしていたような気がするけれど、どうだろう。2人は覚えているのかな。
学校の長い坂の中腹で、自転車を押して歩いていたとき、突然「ゴーーーー」という音が空から聞こえてきた。
「うわ、なんだろう。飛行機かな?」と3人揃って空を見上げる。遠くの空ではなく、自分たちの真上を低空飛行の飛行機が飛び続けているような、聞いたことのない大きな音。
見上げ続けても飛行機の姿は見つけることができず、「なんか違う!違う!」と気づいた次の瞬間、地面が揺れ始めた。自分の立っている大地が、奥底から揺れている。地面がひっくり返ってしまうのではと本気で思うくらい、どうなってもおかしくはないような揺れが続く。引いていた自転車を投げ出して、3人でお互いの体に掴まり合って、しゃがみ込んでいるだけで精一杯だった。これ以上揺れが強くなったらどうなってしまうのだろう、いつまでこの揺れは続くのだろうと、怖くて不安で、どうしたら良いのか分からなくて、ただ目を瞑って耐えていた。
1分以上経ったのだろうか。揺れが徐々に収まってきて、立ち上がることができるくらいになった。足から、微かに地面が揺れ続けているのが伝わってくる。周囲を見渡すと、町はそのままで、家も崩れてはいないし、崖だって大きく崩れているところもなかった。
よかった、生きていた。と思った。今後30年のうちに、ほぼ確実に宮城県沖地震は来ると、もう何年も前からメディアで取り上げられていたけれど、これで終わったのか、良かった、と。
これは大きな出来事だよなあ、覚えておかないとなあと変に冷静に時計を見て、地震の起きた時間を覚えた。
坂の真ん中だと崖もあるし危ないから、とりあえず下ろうという話になり、急いで坂の下まで下りた。途中、元からむき出しだった崖がころころと崩れていた。それだけ。町は右も左も、地震の前と変わらない。
坂の下には確か2、3人の生徒がいたと思う。少し離れた場所に男子も何人かいるのが分かる。みんな、これからどう行動すればよいのか分からずに、ただみんないるから、ここに居続ける、というような状況に見えた。
その時、車が一台、中学校の坂に向かってきた。生徒の送り迎え以外でこの坂の上を目指す車は珍しいから、誰か友達の家族かと思って眺めていた。
でも見かけたことのない人だった。坂のふもとにいる私たちの前でそのおじさんは車を止めて、車の窓を開けた。
「大津波警報が出ているから、早く上に上がりなさい!私も中学校に避難してきたんだ。」
“津波”という言葉を聞いてから、あっという間に自分の体験している“今”から現実味がなくなっていった。半分夢みたいな、ドラマの中に居るみたいな、そんな気持ちで話を聞いていた。
おじさんは車で、先に坂を上がっていった。どうする?上がろうか?という話にその場に居た6人くらいでまとまって、近くに居た男子にも「学校に戻れと言われた」と伝えて、自転車を必死で押しながら坂を走って上っていった。
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長い坂の途中で、走りながら津波のことを考えていた。
テレビで見たことがある。まさか自分の町でそんなことが起こるなんて、想像したこともなかった。避難訓練だって、机の下に隠れて、校庭へ逃げて、校長先生の話を聞いたらお終いで、津波なんて話は聞いたことがなかったし、どう対処するべきかなんて考えたこともなかった。
もし、あのおじさんが言っていたように津波が来たら、この町はどうなるのかな。私、死ぬのかな。
―嫌だ、と思った。まだ15年しか生きていない。高校生にもなってみたいし、叶えたい夢だってある。
家族と今日別れたときのことも覚えていない、また会いたい。どうなるの?なんで、なんで、なんで?色々な考えが頭をめぐった。
もしかしたら、もしかしたら、この坂から見える大好きな景色はもう見られないかも、という悲しい考えが頭をよぎった。もう一度だけ、という思いで、坂を駆け上がりながら、置き去りにしてきた町を振り返った。
綺麗だった。いつもと何も変わらない、川も田んぼも家も、木々も山も全部、全部そのまま。これが、私が元の町を見た最後になってしまった。
本当に、現実に、大好きな景色はもう2度と見ることはできない。あの時泣いている人もいたけれど、みんなどんな思いで逃げていたのだろう。仲の良い友人とも、この時のことは話せていない。
私は、坂を上っている長い間、一度も町の人のことを思い出さなかった。自分ばかり、生きたい、死にたくないと考えて、他の人のことは全く浮かびもしなかった。もしあの時、あのおじさんがしてくれたように、近くの家の人たちだけにでも「一緒に逃げましょう」と言うことができたのなら、いったい今どんな未来になっていたのだろうと思う。
どれだけの人が今を生きることができて、どれだけの家族が揃って笑うことができていたのだろう。どれだけの人が、その人が生きていたことに救われて、どれだけの人の人生を変えてしまったのだろう。
全員を救えたとは思えない。だけど、行動していればきっと何かは違っていたはず。あの時、たった数メートル離れた家に、声を掛けに行くことだけでもできていたのなら。目を瞑って、あの場面を何万回も繰り返す。もう何回でも「一緒に逃げましょう」と言えるのに、現実は変わらないまま。
私は生涯このことを忘れないだろうけど、もし同じような状況になったなら、自分はまた1人だけ、生きたいと思うのかもしれない。
周りの人のことなんて、助けようともしないのではないかと自分が怖くなる。本当の危機に直面した時に、人間の本質が表れるような気がして、たまらなく怖くなる。
生きた人と、死んだ人、この差っていったいなんだったのだろう。ずっと答えの出ない問いを、自分に投げ掛け続けている。
たまに、どうしようもなく押しつぶされそうになって、誰かに打ち明けたくなることがある。ことに、仲の良い中学の同級生なんかに。でも、もしかしたら同じように苦しんでいるかもしれないし、あるいはまったく忘れてしまっていることなのかもしれないと思って、何度も思いとどまった。
それで良かったのだろうと思う。私はきっとまだ、15歳のままで、この時から動けてすらいないのだろう。1人ぼっちで、綺麗な町の中にいる。私はまだ、中学生のまま。きっと、ずっと、中学校の卒業式を心待ちにしている。
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いつの間にか雪が降り始めていて、だんだん強く吹雪に近いような雪になっていた。3月なのに寒くて、雪が降ることもかなり珍しいことだったと思う。自転車を倒すように校門前に投げ出して、荷物もそのままに、1、2年生がすでに集まっていた校庭に向かって走った。
先生の下、多くの生徒が居るところに辿り着いた安心感からか、この時の記憶があまり残っていないのだけれど、学校に残っていた3年生も居て、その人たちと一緒に校庭に列を作っていたことを覚えている。
地震が起きた時、生徒会の同級生達は残って、明日の写真撮影のための準備をしていたとの事だった。屋内もすごい揺れで、地震が来たら机の下に潜れと言われていたけれど、机まで辿り着くこともできずに式台の中に身を隠したり、その場でうずくまったりするしかなかったと話していた。
笑って話していたけれど、みんなどれだけ怖い思いをしていたのだろうと今になって思う。
後輩の男の子が泣いている。数人とかではなく、何人も。
どうすることもできなかった。大丈夫だよという言葉が、この状況においてまったく相応しくないことは誰もが感じていたと思う。
先生たちも慌てている様子だった。壊れていて危険な体育館に戻るべきか、雪の降りしきる校庭に留まるべきか、誰がいなくて、これからどう対処していくべきなのか。
見本もない、連絡も取れないこの町で、生徒を守る責任を持った先生たちの重荷といったら、今考えるとぞっとするものがある。
私が覚えていないのか、あるいは聞こえていなかったのか分からないけれど、防災無線が一度だけ鳴り、大津波警報が発令されていることを伝えたらしい。それから何分後かに波に飲まれる防災庁舎からの最後の無線だった。
先生が保健室にあった毛布を持ってきてくれて、他の先生たちもありったけの傘を持ってきた。それでも100人近くいる生徒全員には渡らないのだけれど、みんなで分け合いながら必死に寒さと吹雪に耐えていた。
校庭に集まってきてしばらく経った頃、降り続ける雪の隙間から、川を逆流していく大きな波が見えた。堤防に沿って溢れることもなく、ただ逆流していく波のようなものだった。
ああ、良かった、津波も終わった。だけど津波って本当に来るのか、怖いなあ、とそれくらいにしか考えていなかった。
これは後から知ることのなるのだけれど、津波は1回で終わるものではなくて、第1波、第2波と徐々に強くなりながら何度も、何度も襲い掛かるものである。これだけ海の近くに住んでいて、海や川の恩恵を受けながら育ってきたのに、そんなことも知らなかったことを、今何度悔やんでも悔やみきれない。
この後体育館に移動することを先生から言い渡されて、生徒と教員全員で、壊れた体育館に向かった。途中校門のところに置いたままにしていた自転車を直して、ヘルメットや、家に持ち帰ろうとしていた荷物を体育館に持っていった。
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体育館に来てからも状況というか、雰囲気は変わらなかった。ただ校庭では集会のように背の順で並んでいたのが、体育館ではなんとなく仲の良い子たちが固まって集まったという感じで、私も友人5人程と一緒にステージ下の右端あたりにいた。
先生が保健室からさらに多くの布団だとか、予備のジャージを持ってきてくれて、3年生を中心に貸してくれた。1、2年生は卒業式の準備のためにジャージに着替えていたのだけれど、3年生はジャージを持って来てもいなかったものだから、スカートでは寒くて、寒くて仕方がなかった。
貴重な毛布が最初は2枚貰えて、それを5、6人で分けて使っていた。でも、後からどんどん地域の人たちが体育館に来て、その人たちにも毛布を分けなければならないから、1枚譲ることになった。みんな同じ状況で、寒いのも同じだから譲ることには何の疑問もなくて、とにかくここにいる多くの人たちが暖かい思いができるように、と思っていた。
体育館にある3つの大きいマットも、生徒が運んで地域の人たちに使ってもらって、器械体操の薄いマットも体育館の真ん中あたりに、あるだけ全て敷いた。
私たちは体育館に来てしばらく、1枚の毛布を分け合いながらパイプ椅子に座っていた。でも寒くて、寒くて、何分かしたら、みんな椅子を降りて、卒業式用のシートの上に体を寄せて座って寒さに耐えていた。推定で震度4程の大きな地震が、何分かおきに必ず起こる。自転車通学用のヘルメットを被り続けながら、地震が来るたびみんなの腕にしがみついて、ただ収まるのを待っていた。
ゴーーーと聞こえると10秒以内には必ず地震が起きる。地鳴りが聞こえ始めてから地震が来るまでの合間が本当に怖くて、逃げられないのに大きな地震が来るというのが分かるから、もうやめてくれという思いと、怖さとの間でどうしようもなくなってしまう。
子どもが産まれそうな人がいるから、毛布をできるだけ頂戴と確か後輩の女の子たちが言いに来て、6人あまりで分けていた1枚の毛布と、スカートの下に履いていた借りもののジャージを渡した。本当に産まれた子がいたのか、この話が本当なのか、今になっては分からないけれど、この極限の状況で自分たちよりも大変な人がいるのなら、という子どもながらの想いだった。
私たちも何かしなくては、と思いはじめて、先生に役割を貰って、地域の人たちにスリッパを配った。それだけ。私にできた最大限のことは、誰にでもできるそんなことだけだった。
「この中に介護職や、看護師の方はいませんかー?」と誰かが大きな声で叫んでいて、同級生のお母さんや何人かの地域の人が手を挙げて、呼ばれている方へ向かっていった。怪我をしている人を目の前にしても、何もできなくて、何も分からなくて、何も手伝えない自分がもどかしかった。
地域の人たちを助けたい気持ちがあるだけでは何もできなくて、ただ無力感だけが募っていった。
これまでは自分たちが置かれている状況を、ただ体育館にいると認識していた。でもふと体育館全体を見渡してみると、今までこの体育館では見たことのないくらいの人が、ごった返すように溢れている。一目で異常だと分かるくらいに。
ああ、これが避難というものなのかと、なんとなく感じ始めていた。いつかニュースで見た避難所の風景。それが今ここにあって、私自身が避難民としてここにいる。そんな状況をまさか体験するとは、全くこれっぽっちも思ってはいなかった。自分のいる状況を、理解しているようで捉え切れていない、そんな不思議な感覚だった。
先生たちが職員室からラジオを持ってきて、ステージ右脇の扉の近くに円を作って集まっていた。小さなラジオに、大人が集まって必死に情報を集めている。静かにしていると、私たちの所まで少しだけラジオの声が聞こえてくる。この扉の前が先生たちの拠点になって、私が中学校を離れることになる翌日まで、ラジオは情報を流し続けていた。
「職員室もめちゃくちゃだよ。」と誰か、先生が言う。校舎の2階もガラスが割れて危ない状態らしい。もともとこの中学校は、避難所にすら指定されていなかったような気がする。
毛布も、ラジオも、食料も、災害に対する対策さえもすべてが不十分な状態だった。この状況でも、先生たちが傍にいてくれる安心感は生徒たちにとっては救いだった。少なくても、私はそうだったから。頼れる先生たちがいてくれて、良かった。でも先生たちにも家族がいるのに、情報も無く、生徒たちを置いて帰ることもできないこの状況は、どれだけ辛かったのだろうと考える。
置いていかないでくれて、ありがとう。傍にいてくれて、ありがとう。助けてくれて、ありがとう。
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体育館に人がどんどん増えてきて、夕方から夜になっていく。寒さも少しずつ堪えてきた。眠くて仕方なくて寝たいのに、寒すぎる身体では眠ることもできなかった。ステージの暗幕も、壁に取付けられていた卒業式用の紅白幕も、机に掛けていた白布も、すべて外して防寒用にするように先生が言った。周りの子たちが率先して紅白幕を取り外していく。あぁ、取ってしまうのか、と思った。明日は卒業式なのに、せっかく後輩たちが用意してくれていたのに、取ってしまうのか、そんなにひどい状況なのか、と。
寒さよりも、なんだかすごく悲しかった。手際良く紅白幕を外していく生徒の姿を、明日また紅白幕を付け直す想像の姿に重ねて、冷たい気持ちで見つめていた。
11日は金曜日だったのだけれど、友人の1人が火曜日の話をし始めた。好きな芸能人が、火曜日に放送される番組に出演するらしい。それまでに停電が続いていたらどうしよう~と、いつも教室で話すような口調で嘆いている。みんな自分のことに精いっぱいだったのか、そんなに記憶に残るような会話は続かなかったと思うのだけれど、私はというと、そんなの4日もあれば電気も普及しているだろうと当たり前のように感じていた。それまでにもかなり大きな地震を体験することがあったのだけれど、遅くても翌日には電気も水道も普及していて、元のような生活に戻ることが出来ていた。4日もかかるわけがないだろう、だから今日さえ乗り越えれば大丈夫、明日は卒業式だ。
―なんて、私が一番現実味のない希望を抱いていたのかもしれない。結局、火曜日の番組を見ることは出来なかった。
時間が経つのがひどく遅く感じる。18時になっても、あまりお腹は空いていない。本来であったら、ご飯を食べている時間かとふと考えて、今の異常さに改めて気づかされる。
パイプ椅子に座って丸まっている人もいたけれど、私たちは何人かで床の上に座って白布に包まっていた。シーツほどの薄さのものだけど、本当に寒い時って、何をかけても暖かいのだと知った。
誰かが持ち込んだものなのか、それとももともと学校にあったものなのか、懐中電灯が2つほど光り始めている。ステージの真ん中で上を向いて光り続ける懐中電灯が、体育館の前方にいる多くの人たちにとってたった1つの光になっていた。
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時間が経つのがひどく遅かった。「今日が最後の登校日だから、給食もいっぱい食べといて良かったね」、「あんまりお腹すかないね」「本当だったら、今頃ミュージックステーション見ていたのかなあ」などと話していた記憶がある。
体育館は真っ暗になっていた。外はどんな風になっているのだろう、とふと思った。家族はどこにいるのだろうか。自分の家がある地区は、どうなっているのだろう。段々と、自分と現状以外の周囲のことに思いをめぐらせるようになってきた。
この状況において「怖いこと」の要因は沢山あったのだけれど、情報がない、事実を何も把握できないということは、ふわりと自分が現状に浮かんでいるような身の置き所のない感覚をもたらしていた。0時を回った頃、おにぎりが届いたらしい、とどこからともなく情報が流れてきた。体育館の入口あたりではお年寄りや子どもたちを優先に、1人1個のおにぎりとアクエリアス1本が配られ始めていた。被害を免れた地域の温泉が無償でおにぎりを用意して、中学校に届けてくれたらしい。
ああ、ご飯が食べられる。すごい、すごい。と思った。よくここまで、こんなに沢山届けてくれたなあという思いと、救われる、という感覚を体感して日常に戻るという安心感を思い出した。
だけど、地域の人たちに優先的に配られたおにぎりは、中学生に回ってくるころには足りなくなっていて、3人で1つのおにぎりとアクエリアスが配られた。
お腹は空いていない、空いていないと思い続けていた緊張感が解けて、おにぎりの塩味がこれまでで一番濃く感じて、なんだかよく分からない感覚だった。3人で1つのおにぎりを食べる状況は、もうこの先ないことを祈るけれど、この状況においてはおにぎり1つで心もお腹も満たされることを知った。
ラジオで流れる情報は、大きな市や連絡が取れる場所のみの情報だった。たまに流れる地元の町名に敏感に反応して、噛り付くように息を殺して情報を得ようとする。
大体は県外の親戚たちが、その人と家族の無事を願い、安否を知らせてくれ、無事を願っているというような内容のメッセージをアナウンサーが読み上げるだけだった。その中にすら、自分の知っている人の名前が無いか真剣に耳を澄ませていた。
とにかく、ここにいる人たち以外で、自分に繋がっている人が生きていることを実感したくて、たとえ市街地だけでもどんな状況なのか、情報が欲しかった。一体私たちはどんな状況におかれているのか、真実が知りたかった。
その時、ラジオから真剣な男性の低い声が聞こえた。
「荒浜港に200から300の遺体が打ち上げられているという情報が入り―...」
うそだと思いたかった。200から300人が死んだってこと?うそだ、うそだ、うそだ・・・死んでない、そんなに人、死なないよ・・・。最低でも200から300人が死ぬくらいの出来事が起こってことなの?自分の周りの全ての状況を一瞬本当に忘れて、ラジオの情報に吸い込まれていたのがわかった。どんなに考えられないような理由を並べたっていいから、この事実を信じたくないと思った。
このラジオの情報が、一気に「津波」という現実を重く連れて来た。「200から300だって・・・」「うん。」それ以上友人とも何も話せなかった。
それからは、今まで以上に自分たちの置かれている状況を把握しようと躍起になった。体育館には地区から避難してきた人が多くいた。おそらく300人程度はいたのではないだろうかと思う。
同じマットに横になっている人たちの話を横耳すると「ここまで泳いで逃げてきた。下にはもう何も無くなった。家も流された。防災庁舎で生き残った人たちは3人だけらしい。」という話が聞こえてきた。この人たちからだけでなく、同じような話が様々なところから聞こえるようになってきた。
そんなこと起こるわけない。絶対何か悪い夢か、悪い嘘か、こんなことあるはず無いと信じて疑わなかった。
ここにいる地域の人たちが朝になったら全員自分の家に帰っていく姿を想像してみる。
「大変だったね。」とか言いながら帰っていくのだろうか、そしたら後輩たちがまた紅白幕を取り付けてくれて、取り外しちゃったからちょっと大変だけれど、もう一度準備しもらって、みんなの親が体育館に集まってくれて、そしたらいよいよ卒業式。なる、なる、できる・・・。地震が続いて何もかも津波に見込まれた町を想像するより、明日の卒業式を想像するほうが容易く、現実味があった。
日付を超えて1時、2時を過ぎても眠くはならなかった。暗闇は変わらず、地域の人たち同士で話し合っている人たちもちらほらいた。
やはり情報は思うように入らなくて、段々と家族のことや町のことを考える時間が長くなっていった。折れてぶら下がった、天井の暖房機を眺めながら「落ちてきたら直撃だね。死んじゃうね。」なんて笑いながら友人と話していた。
こんな状況を突きつけられても、私にとってこの状況は非現実的で、やっぱり明日は卒業式なのだった。
5時くらいまでの1、2時間くらい、さすがに疲れて少し眠ることができた。
やっと朝が来た。これから状況はどう動き出すのだろう、と朝日を感じながらふと思う。
「中学生だけ、ちょっと話があるから向こうに集まって。」呼ばれた生徒たちが体育館の片隅に集まって、校長先生ともう1人の先生を囲むように円を作った。
校長先生は私たちの方を真剣な顔をして見ながら、
「今日は、本当は3年生の卒業式だけど、今日は・・・昨日地震があって、かなり地区も被害を受けていて、体育館が避難所になっています。だから・・・今日は、先生たちとも話し合って、卒業式は厳しい、と。今日は・・・今日は卒業式ができません。3年生のみんな本当にごめんなさい。」
泣き出しそうに声を振り絞りながら、私たちに事実を伝えてくれた。隣の先生も、静かに顔をうつむけて泣いているように見えた。
「卒業式、今日はできないけれど、必ず、必ずやりますから。約束します。中止ではなく、延期にします。どれだけ時間が掛かっても必ずやりますから。だから、ごめんなさい・・・。」
体育座りをしながら意味を理解できないような感覚で、バラバラと言葉だけが冷たく自分の中に落ちていくのを感じていた。
驚くことに、ようやくこの状況になって初めて、自分たちはそれだけの過酷な状況に置かれているのだと実感することができた。実感せざるを得ない状況に落とされていた、と言った方が正しいのかもしれない。「卒業式ができなくなるくらいの状況なんだ・・・。」昨日から聞いていた噂話が、急に事実になりかけながら襲い掛かってきた。
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明るくなってからは、被害を受けていなかった地区の生徒を中心に体育館から帰宅が始まっていた。
どこの地区は被害がなくて、この地域は全滅というような話がこの頃には明確になってきていた。体育館の入り口付近の壁一面に避難してきた人たちの名前や、避難所としての機能を果たし始めた数々の情報がびっしりと貼られていた。
その後私は、家族が避難しているであろう小学校に向かうことになった。
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中学校の坂の上の角を曲がって、坂を下り始めたとき、町が見えた。私は、この坂の上から見る景色が大好きだった。
春になると歩道沿いに桜が咲いて、坂の下の家には鯉のぼりが上がって、川が葦原の中を流れて、空はいつだって青くて、広くて綺麗だった。
「こんな景色を見ながら育ったら、悪くなんて育ちませんね。」と中学校を訪れた他校の先生が言っていたのだと、国語の先生が嬉しそうに授業中に話してくれたことがあった。それを聞いた私も嬉しくて、「でしょ?わかる?」とこっそり思っていた。それくらい誇らしい町だった。
でも、1日ぶりの町には、もう全く元のかけらもなかった。波に飲まれた町に緑はなくて、川は濁り、辺り一面泥と木と茶色で覆われていて、もう本当にボロボロという表現が相応しかった。
「え・・・。」と一言言った後、何も言葉が出なかった。涙も出なかった。身体がずっしりと沈んでいくような感覚のまま、坂を下りて、段々自分に近づいてくる町を受け入れられずにいた。
もう全部終わりだな、とふと思った。私の人生も、この町も。こんなになったらもう元には戻らないし、高校にも行けないかもな、働こうか、これからどうやって生きていくのだろう、と深く自分の中に落ちていく。
その反面、まるで自分がドラマの中にいるような、いつか社会の時間に資料集で見た戦中の焼け野原にいるような、現実味のない景色を受け入れられずにいた。夢なら覚めて欲しい、と生まれて初めて思った。願いを必死に祈る気力もなくて、口をあけたままあっけに取られていた。
こんなにするなら、この世に神様なんていないと本気で思った。もう戻らないじゃない、どうするの?どうやって戻すの?と思いながら町を見る。
道の脇には牛が横たわって死んでいる。反対側には泥まみれの生き延びた牛たち。1階の抜けた2階建ての重厚な住宅に、基礎部分しか残らなかった、あったはずの家たち。
もはや昨日まであった通学路がどこにあったのか想像もできない。町をゆっくりと見て、あっちもこっちも、と思いながら小学校へ向かった。人生で一番、悲しい道だった。
昨日まで降っていた雪は、全て波に飲まれて、もはや雪が降っていた事実さえも一緒に飲み込んでしまったようだった。空だけがいつも通り青くて、昨日の雪も、辺り一面の変わり果てた町も、すべて知らん顔して見守っているような、残酷な空に見えた。
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小学校に着いて家族と再会した後、1階の教室に移動した。同級生2人も一緒で、中高生が寝食を共にする部屋になっていった。部屋の人や地区の人みんなが顔見知りであることは、私にとって一種の救いだった。
何もすることが無くて、何もできなかったけれど、こういう非常事態のときは記録を付けること、と本で読んだことがあって、偶然持っていた2冊の小説の裏表紙に日記を書き続けた。
3月12日
津波で流された小船に地区の男性たちが乗って、半壊した家々を回った。
お年寄りの中には低体温症と思われる状態で室内にて亡くなっている人もいた。隣の全滅した地区から流されてきた遺体もあった。地域の大人たちは亡くなった人を1人ひとり船に乗せて、小学校近くの橋の上に並べていった。
3月13日
トイレを流すためにプールから水を汲む。1日何往復もした。室内トイレは詰まりやすいため、夜間使用やお年寄り専用にしていた。
新聞は1日何部か届いて、1日かけてみんなで回し読みをしていた。見慣れた市役所も波に飲まれたことを知って、また現実を見ていないような不思議な感覚に襲われた。
流されてきたドラム缶を改造して、地区の男性たちがかまどを作ってくれたおかげで、温かい食べ物をかなり早い時期に食べることができていた。
女性たちが誰からとも無く炊き出しを手伝って、そのうち当番制が確立された。食事は小学生以下・お年寄り、中学生・高校生、女性、大人たちと順番に並んで受け取ることができた。多くの避難所と比較しても、モラルが保たれ、上手く機能していたと思う。
3月14日
1日中ヘリコプターが飛んでいる。食料が少なくなって、避難生活がいつまで続くか分からない不安の中で、次のヘリは助けに来てくれるのではないか、次こそは、次こそは・・・思い続けたが1機も下りてきてくれることはなかった。
今思えば報道のヘリコプターで、搭乗していた人も、その映像を見た人も、どれだけ心苦しかっただろうと思う。助けが来てくれないなら、自分たちでなんとかするのみ。もともと市の端にある地域であるため、大変アクセスが悪い。救助や支援が遅れることを予測して、自助努力がなされていた。食料が無いというのは、究極の苦しみと恐怖なのだと、このとき初めて実感した。一方で、こんな状況でもお腹が空く自分はひどく惨めだった。
3月15日
不安からか、デマが流れ始めていた。水道や電気が復旧するのは3〜6ヵ月後、仮設住宅が完成するのは3年後、家がなくなった人たちは県外避難になる可能性が高い、市の工場はもう再開しないから無職になるだろう・・・そんな話を鵜呑みにして、不安に押しつぶされそうだった。
町内の商店が無償で店を開放して、ありったけの食料を小学校にくれた。自分たちも大変な状況の中、果たしてくれた役割の大きさは計り知れなかった。
震災特需を期待して、商品やガソリンの値段を跳ね上げるところもあったけれど、そうじゃなかった人の良心に心が救われ、物質的にも救われ、人を救うということを体現してくれた町の人に感謝しかない。ありがとう。水にいたっても、大規模酪農家が牛の飲水用のタンクをトラックで持ってきて、避難所の飲水用に提供してくれた。他にも被害を受けなかった地域の人たちが毛布や食料や服を持ってきてくれたこともあった。究極の人助けというのは、自分が極限に置かれた状況で発生する無償の行いなのだと思う。
3月16日
小学校の3階から毎日、地区を見ていた。湖に浮かんでいるようだった。元4000人いたとされる町で、生き残り、ここに住み続けられる人は何人いるのだろう。みんなこの町を愛していたのに。
今までなんでもなく送っていた生活が、急に尊いものに思えた。もっと、どうでもいい生活をして、故郷も家族も大事にしていなくて、もっと他にも地域はたくさんあるだろうに・・・どうしてこの場所じゃなきゃダメだったの、と嫌な考えがめぐっては消して、めぐっては消しての繰り返しである。
3月17日
段々と周囲の人たちの様子や安否が分かるようになっていた。毎年、転任される先生方の名前が連なっていた新聞のページには、死亡が確認された人の名前がずらりと並べられた。どうか知っている人がいませんように、と必死で祈りながら名前を1人ひとり確認していった。
この頃になると「○○さん、見つかったって!」と言われる人は、大体、亡くなって遺体が見つかったという意味で、早く見つかっただけ良かったのか・・・と思う以外理解する方法が無かった。
暇な昼間は持っていた本を繰り返し読んだり、ホワイトボードに落書きをしたりしていた。落書きの中の、中高生が考える新しい町には、食べ物屋さんばかりが並んだ。嫌だった勉強が、したくてもできない状況を初めて知って、勉強ができていた環境をありがたく思った。何もしていないと、身の置き所が無かった。
3月18日
中学校の避難所は自衛隊に頼る面が多くて、食事の時間になると「まだか、まだか」と文句が沸くのだという話も聞いた。その避難所によって内情は様々で、これまでの地区のあり方や関係性、それぞれの価値観も影響しているのだろうかと思った。
ガソリンが徐々になくなってきていた。辺鄙な町。買出しに行くにも、病院に搬送するにも重要なのは車だった。車の鍵を貸し借りして、少ない交通手段を皆で分け合った。文句は聞いたことが無く、価値を何に置くかということを問われていた気がする。
3月19日
他県からダンボールいっぱいの服が届いた。私たちはその服を、男性用、女性用、子供用、ズボンに上着と選別していった。私たちの年代が着るような服はほとんど無かった。下着や、トレーナーやジャージでよかったのでけれど、夏物のTシャツや綺麗なワンピースも少なくなかった。
震災があって、物が無いからといって、着古した服を着なければいけないということではないし、いらないものを送れば対象が使うかというと、必ずしもそうではないのだろうと思う。
この、ほんの少し引っかかっていたこのことを、言うことができたのは震災から3年が経つ頃だった。震災にあったことで、人の間に上下関係ができることは悲しいし、ニーズはどこにあり、今どのような支援をするか考えることはどんな状況においても不可欠なのだろうと考える。
高校生以上の男子たちは自転車で往復40kmかけて、開店し始めたスーパーへみんなの食糧を買い出しに行くこともあった。
3月20日
飲んでいるペットボトル飲料は流れた自販機を壊して得たものだった。この状況においてモラルとは何なのだろうか。砂だらけのペットボトルから飲んだ紅茶の味は、今も忘れられない。
流されてきた浴槽を使って、お風呂も作られた。そのお湯とプールに溜まっていた水を混ぜて、バケツに頭を突っ込んで髪を洗った。
毎日お風呂に入れて、布団で足を伸ばして眠れていたことは、もはや奇跡に近いと思ったし、こんな状況でも助け合うことで救われることもあるのだと実感した。
シャンプーや身体を拭くためのウェットティッシュ、靴下や下着、動きやすいジャージやトレーナー、懐中電灯にラジオ、マッチで着くストーブ、ラップや割り箸、いくらあってもよかったなと思う。
仮設トイレや自転車、仮設風呂も後々。支援には順序性と、その土地のニーズを適切に把握していくことが必要なのかも知れないと最近強く思う。
日記はここまで。このあと少ししてから、妹とお母さんが先に行っていた母方の祖父母の家に移って、しばらく住まわせてもらっていた。避難所から離れたら、もう二度と家族全員で集まれない気がして、しばらくの間移動することを拒否していた。
移ることになった日の朝、ほとんど誰にも言わず、こっそり避難所を出ようとすると同じ地区の女性が朝ごはんにと、手作りのサンドウィッチを渡してくれた。
ただでさえ食料が無い中、避難所を離れ、いわば仲間を捨てて町を捨てるも同然の私に、サンドウィッチをくれたのだ。この味は生涯忘れたくないと思ったし、どんなときも人を想う心を捨てたくはないと決意した。
スーパーで買うことができるのは一家族30品までと決まっていて、在宅避難民の生活も厳しい状況にあったのだとこの時初めて知ることになった。
「これは水を入れると食べられるご飯で・・・。」と、おばあさんが備蓄していた災害食をお昼に食べた。美味しかったけど、その頃育ち盛りの私は足りなくて、でもお腹すいたと言えなくて我慢していた。「今日はこれでお終い、ね?」と言われて、それでもお腹が空く悲しさと、生きられなかった人のすぐそばで、食べなければ生きていけない悔しさが入り混じって、自分が惨めだった。
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4月上旬にようやく全半壊した自宅に戻ることができた。泥に浸かった自分たちの家。結果的に私の胸くらいの高さまで津波は来ていた。ヘドロが葦と共に固まっていて、それをかき出して、物を捨てては、かき出しての繰り返しの毎日だった。
後に水道、電気の順でライフラインが復旧した。4月の後半には他県からボランティアが入ってくれて、家の掃除から復旧まで手伝ってくれた。
「今日で終わりで、今度からアメリカに行くんです!」と楽しそうに笑顔で話してくれたボランティアさんは、毎日、毎日、縁もゆかりも無い私たち家族を助けてくれながら、自己犠牲ではなく、文字通り自分の人生の一部を使って支援に来てくれたのだろうと思った。
あの時は本当に自分の生活と、これからのことでいっぱい、いっぱいだったけど、今こそ、いまさら、最大の感謝を込めて。本当に、ありがとう。
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高校は1ヶ月遅れて5月のゴールデンウィーク明けから始まった。慣れない高校生活に、慣れない環境。誰が引越して、誰が死んだ。そんな慌しく過ぎていった先の9月くらいから、徐々に震災の記憶に悩まされるようになった。あのときもし、こう声を掛けられていたら?私は逃げている間、一度も町の人たちのことを考えなかった。殺したんだ、私が。人を殺した私が、看護師になる資格なんてあるの?もし震災が無かったら?今、もっともっと皆幸せだった?どうしたら元通りの生活になる?こんな問いは、今もいつも離れず、事あるごとに自分に問いかけ続けている。
震災直後は、震災が無かった想像の未来を簡単に思い描くことができたけれど、今はもうどんな人生になっていたか、想像すらできなくなっている。震災があって、価値観や、幸せや生活に関する閾値がずいぶん変わった。当たり前なんてないし、日常生活が続き、大事な人たちが生きていて、幸せであることの尊さが身にしみて分かった。災害がそのときだけで終わる悲劇ではないし、もう絶対にこんなことは起きてはほしくない。
震災があって、たくさんの町の人たちが亡くなった。震災があって、多くの人たちが家を失い、生活を失い、町を離れていった。
私は、家族も無事で、家も直して住むことができた。それが幸いか、というと決してそうではなった。町に残った人たちも、ストレスからか若くして病気をして、自死して、たくさん亡くなった。
大好きだった町は、高校から帰るたび姿を変えて、知らない道路や堤防ができていった。町に住む私の心は元のままに、町の外側だけがするすると変わっていった。毎日、それを見ていた。待って、待って、と時間をいくら追いかけても心がついて行ってくれなくて、元の町を思い出しては涙を流して、もう私の大好きだった町も思い出も無くなっていくのだと、現実の重みに押しつぶされそうになっていた。
おそらく、町の外に出て行かなければならなかった人たちの苦しみの他に、町に残った者たちの苦しみもあるのだろうと思う。「絶対にばらばらにはさせない。必ずこの町で、もう1度地区を作り直す」と、避難所の住民会議で話し合った地域も、結局はみんなそれぞれ町外で再建を果たし、この誓いは叶わなかった。
悲しかった。残った者たちと、ボロボロになった町だけが取り残されて、忘れられていくような感覚で。私だけが、家族全員が揃ってこの町で暮らしていける罪悪感で。
私の祖母、妹、弟は堤防の上を津波と共に流れてきた小船が走っていくのを見てから異常を感じ、車を必死で走らせて逃げていた。これは、海寄りの地域の堤防が決壊し、また、橋が障壁となり私たちの地域に到達する津波の威力が緩和されたことが要因だった。
この結果海寄りの地区は全滅し、たくさんの人が亡くなった。だけど、私の家族は生き延びることができた。人がたくさん死んだそのそばで、私は生き延びた。
私が、一番幸せだと感じるのは、家族みんなで夕食を食べているときだ。だけど、この幸せが誰かの犠牲の上に成り立つのなら、もっと、もっと大事にしなければならないのだろうと心底思う。
同時にこんな思いをこれ以上多くの人たちがせずに、生きていくために、災害とはなにか、減災や防災を命の続く限りやっていかなければならないとも思う。
ああ、私は辛かったのだ、と震災から5年経ってやっと、この人たちのおかげで自分を理解できた。1度死んだと思って、もう1度だけがんばってみよう、と立ち上がることができた。頑張って、頑張って、助けられなかった人たちのこと忘れないで、誰かを、この人生使って救うことができるように。
それで、私も死んだときに「ね?頑張ったでしょ?できる限り、もらった命使ってきたよ。」と町の皆に報告できるように。
ありがたいことに、これだけ長く生かしてもらっていると、上手くいっているという感覚を味わえるときもあるのだけれど、そんなときこそ自分に問いかける。
「もしも、今持っているものすべて捨てたら、町も生活も人も元に戻してあげるよと言われたら?あなたはどうする?」
この問いに、いつか胸を張ってそれは「嫌だ、今が一番。」と言えるような人生を送ることができたなら、そんな風にいつか思えたらいいなあ、とも最近思う。