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【ネタバレ】マシュー・ランキン『Universal Language』カナダ、言語による分断と"世界共有言語"

大傑作。2025年アカデミー国際長編映画賞カナダ代表。マシュー・ランキン長編二作目。前作『The Twentieth Century』は20世紀を迎える直前のカナダを言語によって二分された世界とし、その無意味な対立をガイ・マディン的な混沌とモンティ・パイソン的なナンセンス劇を融合させて描き出す恐るべき長編デビュー作だった。二作目となる本作品では、英語の代わりにペルシャ語がフランス語と共に公用語となった世界を描いている。現実世界で英語圏であるウィニペグ(監督の故郷でもある)は、本作品ではペルシャ語による文化の根付いた地域として描かれながら、マニトバ州の独立運動?の中心人物であったルイ・リエルや学校教育に関わってその名を学校名に残すロバート・H・スミスなど州の歴史は共有し、通貨もカナダ・ドルではなくイラン・リヤルを模した"リエル"というものを使用(もちろんルイ・リエルを冠している)するなど、監督が言うところの"ウィニペグとテヘランの中間地帯"へと再構築されている。ちなみに、カナダ人の観客はカナダのコーヒー・ドーナツ・チェーンであるティム・ホートンズがペルシャ語看板で営業していることや、カナダ人が愛してやまないホッケーが子供の遊びなど生活に根付いたスポーツとして存在していることに爆笑していた。

なぜペルシャ語を選んだのだろうか?大きく二つの理由があるようだ。一つ目は世界恐慌期の祖母の"歩道に凍った2ドル札を見つけた"という思い出にイランの子供映画的なルックを思い浮かべたから(再構築され作中の重要なエピソードとして登場)、二つ目は2001年から2002年の数ヶ月の間イランに滞在していた監督が、どうにかしてイランの映画学校で学ぼうとして失敗した経験があるから、らしい。まぁこじつけっぽいが、映画を観る限り英語と仏語以外ならなんでも良いという感じはするので、それなら監督と縁が深くリスペクトしているイラン映画の要素を取り入れるのは自然だろう。公用語がペルシャ語に変更されたことで、映画のルックも1980年代イラン映画を模したものとなっており、映画は子供たちが新学期の学校に集まるシーンで幕を開ける(この長回しは実に見事)。フランス語教師はイラン的でない、つまりその地の文化にない外の文化を教えていたが、子供たちが無関心であることに苛立ち、彼らの未来は暗いと言い放ち、"私たちは永遠に世界を彷徨う"という例文まで読ませる。それに反して子供たちはそれぞれの語る未来の姿に既に辿り着きそうな様子で溌剌としている。そのうちの一人で七面鳥に眼鏡を奪われたと語るオミッド少年は教師に嫌われている。その友人で外交官志望のナギンは駐車場に張る厚い氷の中に500"リエル"紙幣を見つけ、姉と共に氷の破壊を試みる。前半はそんなイランの子供映画っぽい子供たちの姿を映し出している。
※監督はインタビューでアッバス・キアロスタミ、ジャファル・パナヒ、ソフラド・シャヒド・サレス、モフセン・マフマルバフなどの名前を影響元として挙げている。ただ、教師が自分の思想を例文にして読ませるのは『Iron Island』だし、後に登場する"涙を集める人"は『The White Meadows』に登場していたので、モハマド・ラスロフの影響も強めと見ている。あと、駐車場を半円の隙間から覗き見るショットは、ジャック・タチ『ぼくの伯父さん』の丸窓と影で目玉を作ってたシーンの引用だろうか?

監督はウィニペグ出身の奇抜な映画を撮るということで安直にガイ・マディンと比べられがちで、確かに今回も偉大な先輩の胸を借りている部分も大きい。主人公がマシュー・ランキンという名前でマシュー・ランキン監督本人が演じている他、母親がいるウィニペグに戻ってきて居場所がないことを知るという展開それだけをみるとガイ・マディン『脳に烙印を!』とそっくりだ。しかし両者の決定的な違いは、より大きな枠組みでウィニペグを捉え直すこと、具体的には仏語圏と英語圏の対比を行うことで英語圏カナダの都市であるウィニペグを捉え直そうとしていることだ。前作は両者が戦争中だったので、より過激に対比が描かれていたが、本作品でもその姿勢は継承されている。本作品のマシューはモントリオールで役人の仕事を辞めてウィニペグに帰省する。その際に描かれるモントリオールはかなり排外主義的に誇張されている。辞表を渡す上司は1995年のケベック州独立に賛成で投票したと語り、マシューの名前を仏語っぽく"マチュー"と間違え続け、ウィニペグのあるマニトバ州とその隣のアルバータ州を間違え続け、最終的に"カナダ西部には興味ない"と言い放つ。他にも"ケベック人しか使ってません!"ということを売りにする中古家具屋のCMが流れていたり、他の人もアルバータ州ギャグを言っていたり、現ケベック州首相フランソワ・ルゴーの巨大な肖像写真が互いを見つめ合うように飾られていたり(ビッグブラザーとか言われてて草)、実に居心地が悪そうだ。一方で、ウィニペグの人々は基本的にペルシャ語を話し、仏語も習ってはいるが使えるのはインテリ階級のみという印象を受ける。そこで思い出したのが、仏語カナダ映画『ナディア・バタフライ』で、英語話者が仏語を理解できず、仏語話者が仏語で盛り上がるのを横目に理解できず首を傾げているシーン、それでも共有言語は英語なので仏語しか話せない主人公が異国の地で仏語を話すレバノン人選手と話すシーン等々である。カナダのオリンピック選手を描いた作品なので、必然的に英語と仏語が入り交じるわけで、あの分断を思い出したのだった。

ウィニペグに戻ってきたマシューは、まず母親の家に電話をかけるが、マスードという男が出てきて"今夜会おう"とだけ言われる。その後、マシューは様変わりしたウィニペグの街を歩み始める。壁の色がそのまま地区の名前になったブルータリズム建築の住宅街や商店街、車がビュンビュン通るハイウェイ横にある墓地、といったロケーションは工業化していった時間経過を示しているかのようでもある。また、こうした建物の壁面で背景の奥行きを潰しながら、その前を横移動するというショットが多く含まれているが、そうした風景の無機質さ/冷たさに反比例するように人々の繋がりは温もりに満ちているのが興味深い。一方で、何度も遭遇するツアー団体の訪れる、閑散としたデパートの水の出ない噴水や50年近く放置されたブリーフケースといった"名所"は無名かつ寂れていて、ミクロ視点では時間が止まっているようにも見受けられる。これらのマクロ視点での大きな変化とミクロ視点での変化の無さは、マシューの主観によるものなのだろう。マスードと出会ったマシューは、彼が実家の隣に住んでいて、マシューの母親がボケ始めた段階で、彼女からマシューと認知されていること、自宅が差し押さえられて今は彼女を引き取って一緒に生活していることを知る。そして、決定的瞬間に全ての挿話が交わる。マシュー、マスード、その息子オミッドに至るまで、全員メガネを掛けているというのが特徴で、マシューの挿話が『ダンケルク』みたいに始点時間がズレてると分かることも含めて、なんだか全体的に時間の流れ方が違うようにも思え、個人的にはこのメガネの三人が全員同じ人物、或いは親子の関係性なのではないかという気がしている。マシューとマスードが入れ替わるのは、生まれも育ちもウィニペグ(英語圏)だがケベック(仏語圏)で暮らしている時間の方が長いという監督の経験したアイデンティティの崩壊そのもので、マスードの存在がウィニペグに残る決意をした世界線のマシューにも見えるし、オミッドとネギンたちの挿話もマシューの過去を再演するようでもあり、印象的なラストシーンは時間をもとに戻し再び全てを始めようとするかのようでもあった。
※冒頭でグルーチョ・マルクスの格好をしていたあの少年(名前失念)もマシュー・ランキンなんだろう。というのは、監督のInstagramで子供時代の監督がグルーチョ・マルクスの格好をしている写真を見つけたからだ。となるとやはり、実家を訪れたら別の家族が…の家族の中で育っているグルーチョ少年は監督に違いないと思うのだった。

結局、"Universal Language(共通言語)"とはなんだったのだろうか。話者の数で言えば英語なんだろうけど、カナダではその"英語"が分断の根源となっている。ここでふと、マスードが適当についた嘘の中に"ザメンホフ通り"というのがあったのを思い出した。ザメンホフとはつまり、"Universal Language"を目指した人工言語エスペラント語の生みの親であるルドヴィコ・ザメンホフのことだ(ちなみに、監督はエスペランティストである)。しかし、現実としてエスペラント語やその他の人工言語が"共有言語"となったことはない。そうなると選択肢は一つ、"映像言語"である。カナダの或いは監督の複雑な背景などこれっぽっちも知らずとも、この豊穣なるデッドパンコメディを視覚的に楽しむことはできるだろう。分断を目の当たりにした監督の導き出した特効薬は、この映画自身なのだ。

追記 2025/01/10
劇中で二度ほどTVコマーシャルが強調されるが、監督は20年前に『Kubasa in a Glass』というTV黄金時代のチープなCMから見たウィニペグ像を描く作品を作っており、そこからの派生と思われる。同作に象徴的に登場する政治家ラッセル・ドーン(Russell Doern)が、あのアタッシュケースが置かれたベンチの選挙ポスターの人物だろう。また、不動産屋ロッド・ピーラーのベンチは実際にウィニペグにあるものらしく、そのイメージも同作で言及されたものと似通っている。

・作品データ

原題:Une langue universelle
上映時間:89分
監督:Matthew Rankin
製作:2024年(カナダ)

・評価:90点

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