育て方を間違えたと言われたことを考察してみた。
こんばんは。
私が家出した経緯を書き留めておこうと思う。
わたしが適応障害になったきっかけはまた書くとして、適応障害がきっかけで実家で静養することになった。
たぶん、高ストレス下にあったからあんまり詳しいことは覚えてないんだけど、親はもちろん心配して、帰ってきなさい、と言ってくれた。
地元の精神科のいい先生も探してくれた。
で、実家に帰った。
それからひとまず休養をとった。
寝て、起きて、ご飯を食べ、お風呂に入り…
今まで仕事を理由にないがしろにしてきたことを丁寧に行う日々を過ごした。
少し元気になってきて、運動をするようになった。精神的な薬やストレスの関係から過食してしまったいて、母に「やばいよ」「デブだよ」と言われて、自分も気にしていたことだったから、元気になるためというより、痩せなければと思って毎日運動した。
そんな日々を送っていると、母もダイエットに目覚め、夜に一緒にウォーキングをするようになった。
その時は本当に色んなことを話した。
日々のニュースのこと、お母さんの仕事のこと、私の仕事のこと…だけど、やっぱり母は眠剤を飲んだり抗不安薬を飲むことに抵抗があると話をしていた。
早く辞めて欲しい、薬は体に悪い、と。
(ピルも飲んでるんだけどそれも嫌がってたなあ)
それでも自分に必要だと思って飲んでいた。
今の自分には必要だ、理解して欲しいと伝えた。
(ピルもPMSが辛いからと説明した)
ただ、わたしもそんな母と向き合うのが嫌でその話になる度に誤魔化していたなと振り返る。
自分自身、本当に素直な性格ではない、と思っている。
彼氏から好意的な言葉を貰っても素直に返すことが出来ない自分に後悔と嫌悪感が生まれるくらい。
彼氏が私のことを職場の先輩や友達にすごく素直に好きなところを伝えているらしいと伝え聞いた時に、私は女友達に愚痴として(好きの裏返しなんだけど)しか話せなかったから、本当に真逆の人だなと思ったし、そういうところが好きであり尊敬している部分でもある。
本当に私には勿体ないくらい素敵なパートナーだと思う。これからもできるだけ素直に気持ちを伝えて大切にしたいと思う。
そんな訳で、家族に気持ちを伝えるのが苦手だった。
特に恋愛のこととか、そういうの聞かれるのが苦手だったし嫌だった。
それはなんだろう、高校時代に好きだった人と街にデートに出かけたら狭い田舎なもんで目撃されちゃって、根掘り葉掘りデリカシーなく聞いてきたりとか、
流行りのシャンプーとか化粧品とか新しい服を買ったりすると「うわ、何使ってんの臭い」とか「めかしこんじゃってどこ行くのさ」とか多分親も照れ隠しなんだろうけどそういう風に言われてたから、素直に伝える、ということが苦手だったのかもしれない、言いにくかったなとも思う。
だから社会人になって、可愛いなと思う服を買ったり、髪を染めたり(これは校則で出来なかっただけだけど)、ピアスを開けたり、マツエクしたり(いまはやめたけど)、いい匂いのシャンプー使ったり、好きな色の化粧品買ったりできたことが本当にうれしかったなあ。
話が脱線してしまったけど、分かり合えない部分は濁してすごしていた。
で、非常勤だから大丈夫だろうと無理をして仕事に戻ったら(一応当時の主治医の許可は得て)
それはまあなんともいえない香ばしいところで、
また少しづつ持ち上がった体調がゆるゆると降下してきた。
復職を契機に、受診は遠いだろうと(車で1時間以上かけて通ってたから)近い系列のクリニックに行くといいよ、と主治医が紹介状を持たせてくれた。
しかし、そのクリニックには、まあ適応障害じゃちょっと…受診はいっぱいで受けられませんって断られてしまい…
母の精神科まだいくんかという圧もあり、受診するのは辞めてしまった。(田舎でクリニックが少なかったこともある)
受診が途絶えたこと、香ばしいところで働き始めたけれど、何とか毎日仕事には行けていたし、少しの眠剤で眠れもしていた。
しかし、香ばしい職場で思うことや、なれなくて困っていることをある日母に話すと「何でもかんでも甘えるんじゃないよ!」と叱咤激励された。
「そんなんじゃいつまでもこうやって定職につけない」「世の中もっと辛いことある!出なければ農業でもパン屋でもさくっとやれる仕事やればいいよもう、腰掛けでやれば」と言われて、精神的に降下していた自分にとっては結構辛かったな。
(あと農家とかパン屋尊敬してるので腰掛けって言ってたのがちょっと辛かった)
そこで思ったのは【あ、もうこんな風に弱音を母に言うのはやめよう】だった。
そこから母に「今日の仕事どうだった?」って聞かれても「うん、普通」としか言えなくなった。
母が他愛のないテレビ番組の話をしても一緒に楽しむ余裕がなくなってしまった。
自分を守るために防衛する方向に走っていたんだろう。
急に喋らなくなり、感情も薄れて反応がない自分を見て、会話が成り立たないストレスを母も感じたんだろう。
もう、その時と自分は口を開けばネガティブ星人だったので、口を閉ざすようになった。
YouTubeで関係の無い好きな動画を見る時間や韓国ドラマを見る時間が心が穏やかに過ごせるからそういうのを見るようにした。
それがまた、無口で笑顔のない娘、
家族といるのに会話もせず携帯に夢中な娘
に見えたんだろう。事実はきっとそうだったし。
それである日、好きなYouTubeを見ながら(余談ですが犯罪心理学の動画です)お皿を拭いていたら、母が何度か話しかけてきていたようで、聞き返したらもう、その時にスイッチが入っちゃったね。
「いい加減にしなさい!」
「笑いもしない、思いやりもない、愛想もない人間だ!」(これはもう幾度となく説教される時いわれてた)
「なんでも辛い辛いいいやがって、こっちだって辛いんだよ!」
「なんでも適応障害とかうつとか名前つければいいと思って、私(母)だってそう名前をつけて欲しいくらい辛い時期あったわ!病気に甘んじてるんだそれは!」
「看護師の資格取ったかとしれないけど、勉強だけで成り立つと思うなよ、バカにしやがって、思いやりも愛想もない人の心がないあんたはいくら看護師の資格もってえらいかもしれないけどなんでもないからな!」
「お高くとまって私(母、母は学歴コンプレックスを感じているようだった)のことバカにしてるんでしょ!」
「いつまでも薬に頼って弱々しい。こんなに弱った人間を人様の前に出せない!彼氏にも恥ずかしくて出せない!結婚なんか絶対認めないからな!!この家から出さないからな!こんなんじゃいい嫁にも慣れなければ母親にもなれないからな!」
「一生精神科通って入院でもしろ!」
まあ、こう罵倒されたわけですよね。
もう母はヒステリー起こしてました。
ドーンとかガーンとかバーンっていう私が苦手なコンボ付きで。
いままでの経験上、こういう時は黙って耐えて受け止めて気持ちを逃がしてやり過ごすのがいちばん早いと思っていたので、黙ってました。
そしたら「なんか言え!文句があるんだろ!言ってみろよ!」と言われたのでまた静かに耐えました。
そしたら
「育て方を間違えた!これはお母さんのミスだ!ほ!育てかた間違えたからこうなったんだ」と。
その時に【あ、もう無理だな。】って思いました。自分の感情の糸が切れた感じ。
そこから自分の荷物の整理を始めました。
そしたらもうまたヒートアップするわするわ、肩掴まれてソファーに座らされまた怒鳴られた。
そしてついに、人生初めての(たぶん)パニック発作を起こすことになる
うわあー!!!!あー!!って声出すの止められないし、「ごめんなさいもう出ていくから許してくださいごめんなさいもう出ていくから許してください」を壊れたように繰り返して、涙と過呼吸が止まらない…
そんな姿、医療職でない高校生が見たらビックリしちゃうよね。
いつもは寡黙な父が母を止めました。(話の内容は聞いてなかったらしい😒)
逃げるように自室に逃げた。
弟がついてきて肩を支えて一緒に涙を流してくれた。思いに共感してくれてこの家には居れないといった自分に対して「俺が、この部屋で毎日一緒にご飯食べるから、だから、ね、行くなよ。話したくないことがあるなら俺が伝えてやるから、ね」と。
今まで8個下の弟がこんなにも心強いと思ってなかったし、こんなに優しい弟に育ってたんだと思ったら本当に嬉しかった。
そんな、優しい心を大切に生きて欲しいと思ったね。
ここからは考察なんだけど
・母は非医療従事者であり、もともとワクチンや薬に対して忌避してた所があった
・そんな薬を妊孕性のある娘に飲ませたくなかった(漠然と怖くて)
・地域柄精神科単科の病院は僻地にあった
・未だに精神科に対する偏見がある地域
・自分の娘がどうしてこんなふうになってしまったのか受け入れられない
・ぐうたらしてるだけではないか
・これは甘えからだろう
・娘がこんなに病んでしまって今までの私の関わり方や育て方を間違えたんじゃなかろうか…
という考えがあったと推察する。
だからもう事実を受け入れられず否認の状態だったんだね。
母は私が家を出ていたあとさぞ深く悲しんだらしい(今までいい子してきたからまさか家出するとも思ってなかっただろうし)
そこで私は母に
・選択的別居であり、今生の別れでは無いこと
・住むところはきちんと伝えること
・今はこんな精神状態の私と母と話すことはお互いが苦しくなってしまう状態
・今は私は適切な治療が必要な時期にあると思っている、だから診察を受ける。そしてきちんと治療の経過は伝える
・げんきになったらまた花見に行こう
・わがままな娘でごめんね
とLINEを送りました。
そしたら
右腕がなくなってしったようだ
さびしい
情けない
許して欲しい
と言った反面、やはり私は愛想がなくて自我が強い子であることはかわからないと返ってきた。
まあもうここまで来て思ったのは、母から見た私は愛想がなくて自我が強い人間かもしれない。
でも、私とお付き合いのある色んな人の声にも耳を傾けて、母の評価だけが私を作ってるって思わないようにしようと思ったこと。
そして、母の評価はきっと母が見たことだから母からみて思いやりがあるなと思える姿を見せられるような自分になりたいなと思いました。
本当に希死念慮ボンバーの時には考えられなかったけど、少しづつ思考を整理して行きたいと思う。
終わり。少しスッキリ。
また推敲します。