圧倒的努力
Clubhouseにて幻冬舎の見城徹さんの話を聴いていたら、「圧倒的努力」ということについて語ったいた。
見城さんは編集者として圧倒的努力を積み重ね続けた結果、現在のポジションに辿り着くことできたということなのだが、その圧倒的努力の背後にはただ頑張るだけでなく、考えに考え、思考を重ね、その努力が無駄に終わることのないような圧倒的思考、思索があったことも述べていた。
また、その圧倒的思索、思考の末、自分の言葉が生まれたともいう。
自分の言葉。圧倒的言語といってもよいだろう。
では、自分の言葉、圧倒的な言葉を生み出すために必要なものを考えてみたのだが、それは圧倒的な体験をおいて他にないのではなかろうか。
質、量と共に自分を時に打ちのめす悲惨な出来事や裏切り、身が震えるほどの感動、恋愛、経験、出会いの数々が圧倒的な体験である。
そして、その体験を受け入れて自己の中で、咀嚼し、昇華していくためには、圧倒的な素直さ、純粋さが必要と考える。
これがないと体験をありのまま、受け止められず、誤魔化してみたり、見なかったふりをしたり、忘却してしまうことがザラだ。
また、その素直さ、純粋さの根っこにあるものはひとえに勇気。
勇気こそが自己を素にして、直にできると最近、感じてならない。
恐怖が自分の純粋な部分を曇らせ、幼かったころのように物事のありのままを受け止められないようしてしまう一番の要因ではなかろうか。
そのために勇気、即ち、闘う意志が必要とされてくるのだが、この勇気はどの様にしたら持てるのか、湧いてくるのかをこれより、自論を述べていきたい。
努力⇔思考⇔言語⇔体験⇔素直⇔勇気⇔?
圧倒的努力の根本を支えるもので有り、間違った努力を積み重ねない為にも、自分が十数年やり続け、確かなものだったことを以下に記す。
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