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竹村和子『愛について』読書メモ

2021年にめでたく岩波現代文庫から復刊された竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』をようやくなんとか読み終えたので、読書中にとっていたメモを投稿します。途中から、赤ペンで本に直接線を引いてコメント(「?」「わからん」「なるほど」「それな!」「ほえ~」など)を書き込みながら読みました。じゃないと、とてもついていけない……。出勤/退勤中に読んでいて頭がオーバーヒートしそうでした。後半の4, 5章は特に抽象的で理解が追い付かず、メモを取ることも諦めたので、主に前半部に関する読書メモです。


2022/1/3~2023/10/19(計17日間)

22/1/3
「序」から密度がやばい。岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』は、同じような論旨を執拗に繰り返して深めていくような文体だった印象があるが、こちらは一文一文で確実に新しいことを投下してきて、しかも全ての文に線を引きたくなってしまうほどに「名文」だらけなので非常にカロリーが高い。めちゃくちゃ難解というわけではないけど、流石に学術的な論考だけあって読み進めるのがかなり疲れる。
第2章ではフロイト-ラカンの精神分析を批判的に解読してくれるっぽい? ラッキー、これ読めば精神分析の入門書読んだことにならないかな・・・(まだ『疾風怒濤精神分析入門』に手を付けていない)

23/10/31追記:その後(2022年に)『疾風怒濤精神分析入門』読みました。とても読み易かったです。最近こちらも文庫化されましたね。


3時間強かけて、30ページちょいの「序」を読み終えた・・・・・・もう1冊読み終えた気分なんだけど・・・・え? まだ本論はじまってないの? 勘弁してくれよ〜〜〜

22/9/3(土)
(見えない)欲望へ向けて』を読んだので、その勢いで第1章読み始めた。

22/9/5(月)

23/9/16(土) p.37~61
久しぶりに1章の最初からまた読み始めた。

第1章 〔ヘテロ〕セクシズムの系譜

・なぜセクシュアリティなのか

・性差別と女の友情

10/4(水) p.62~76

・消費社会の勃興とレズビアンの性愛化

「セクシュアリティによるエロスの矮小化」p.73
これが、筆者が批判したい根本のものか。

10/5(木) p.77〜102

・レズビアンは男女の階級闘争を超えられるか

リップスティック・レズビアン
ジェニー・シミズとカルバンクライン レズビアンのエロスを無化されたゲイネス

つまり同性愛を個人の欲望と、それの発露としての性実践を中心に構造化することをやめる──セクシュアリティによってエロスを解釈することをやめる──ことである。 p92-32

おそらく社会の様式がどのように変わろうとも、そのなかで社会的存在である個人であることと、個の境界を侵犯するエロスを追求することは、そう簡単には止揚できない二律背反である。しかし近代の性差別と異性愛差別の積集合のなかでエロスを抑圧され、声を奪われてきた女の同性愛は、この二律背反を、歴史的に身をもって体現している存在である。それゆえユートピア的な超越主体としてではなく、歴史的存在として、この女の同性愛という「位置」は、近代の強迫概念であるセクシュアリティの問題系をあかるみにする潜在力をもちえるものである。 p.95

とても難しいが、アツい。とことんヘテロセクシズムを批判している。議論の密度が凄くて、行間がかなりあるし、読者の前提知識として要求されている水準が高い。本当にそうか?とか、じゃあけっきょくどうするべきなんだよ、とは思うが、後者に関しては最後のほうで展望を述べていたし、次章以降に期待。
エロスを「個の境界を侵犯する」ものと見做しているようだが、どういうことだ。

第2章 愛について ──エロスの不可能性

・生殖メタファーの亡霊

フロイトのリビドー論の矛盾を詳細に明らかにしている。脱中心的な論旨は丁寧に汲み取りつつも。フロイトの意味不明な論をばっさばっさと切り捨ててくれるときもちぇ~~~

いわば最初にエディプス・コンプレックスがあるのではなく、最初に〈生殖イデオロギー〉が存在していたのである。 p.104

自我リビドー(自己保存本能)と対象リビドー(性本能)の関係
そういや性本能ってたしかに生物界一般でいえば、しばしば自己保存に逆行するかたちで行使されるよな。人間だと性本能がエゴイズムの発露みたく捉えられがちだけど。 生殖の二義性(自己に向かう面と他者(子供)に向かう面)はなかなか奥深いなあ。

10/6(金) p.103~

・欲望はつねに《他者》の欲望である

フロイトに続いてラカンの生殖イデオロギーも批判する。ついでにジジェクのラカン擁護も批判している。

おそらくそれは、生殖という〈種〉のドラマと、個人の〈愛〉のドラマと、家族という〈制度〉のドラマをひとつにまとめあげて、〈個〉のなかに重ね合わせようとする近代のフィクションである。あるいは、生殖という〈種〉のドラマと家族という〈制度〉のドラマを自然で、整合性のあるものとして繋ぐために、個人の〈愛〉のドラマに、ある特定の心的/身体的解釈が与えられると言っていいかもしれない。 p.105

フロイトは一方で、このように「対象リビドーを自我に引き戻し、これをナルシシズムに変えることは幸福な恋愛を示すことになる」と言いつつも……ナルシシズム的な愛の表出を局所化しようとする。しかし生殖イデオロギーに即して自己を形成するのに構造的な「困難を感じる」女や倒錯者や同性愛者に「観察される」このエロスのメカニズムは、逆説的に、生殖イデオロギーをはずしてエロスを考察するさいのヒントになりうるものである。 pp.105-106 中略あり

しかしなぜ、《他者》の欲望のシニフィアンがファルスであり、禁止の言葉を告げるのが《父の名》であり、去勢に先立って子を魅了するものが母なのか。 p.108

ほんそれ!!!

とにかく生殖イデオロギーを徹底的にあぶり出して批判してやるぞという強い意志が自分の「性癖」に刺さる。ほんと気持ちいい。でもこれはつまり、自分が筆者の思想に論理的/倫理的に同意/共感しているわけではなく、その議論の内実や根本的な動機をよく理解しないままに、表層だけさらって愉しんでいることを意味する。そのことへの自戒は忘れないようにしなければならない。本書に限らずフェミニズム一般において。

竹村は、ただ単に精神分析を生殖イデオロギー依存の観点から全否定しているのではない。有意義な部分もあるからこそ、それと生殖イデオロギーをうまく切り離そうとしている。「生殖イデオロギーをはずしてエロスを考察する」ことが大目的であり、精神分析の批判的検討はそのためにうってつけの叩き台である。

精神分析の有意義な部分とは、「欲望はつねに《他者》の欲望である」、つまり人間は原初的に「言語」によって自己疎外されているという鏡像段階の仮説である。

さらにこのようにシステムの「外部」を解放の契機として特権化して語ることは、置換と分節化という言語の宿命そのものを否定する危険性、すなわち「外部」として追放されている女や同性愛者も、「内部」(男や異性愛者)と同様に、現実には、意味の連鎖のなかでのみ自己把持している分裂した自己であること──まったき自己から疎外されている自己であること──を無視する危険性をもつ。
この言語による自己疎外論は、精神分析に言及する前にすでに第2章の冒頭で筆者じしんの主張(事実)として論じられている。
欲望が何かを「求める」ものであるかぎり、欲望は欠如の別名である。そして人間にとって、欠如を埋めるものは、欠如したもの自体ではなく、置換によって代理されたものとなる。なぜなら泣き叫ぶ幼児の要求を言語化して聞きとる養育者をつうじて、快感の満足を与えられる人間は、生存の与件において、すでに言語という「欠如」と「置換」を前提としているからだ。言い換えれば、要求はつねに言語によって翻訳され、したがってつねに置換され、始原にあるものは、それ自体を取りだすことはできない。むしろ始原的な存在の人間にとって、言語以前に何かがあると語ること事態が、自家撞着を起こすものとなる。 pp.97-98

ウィトゲンシュタインの言語哲学的な雰囲気を感じるが、こうした主張は、この簡潔な説明によって「論証」されたものだということなのだろうか。ラカンの入門書を読んでいても思ったことだが、人文思想では、自然科学的な実証を経ずともこういうことをあるていど普遍的な事実として使って本当にいいのだろうか? あくまで言語の次元の話だから、実証などはなから関係なく(実証などできず)、哲学的に共有された事実としてよい、ということなのだろうけれど、「人間とは何か」というかなり根源的で重要なことをいっているようだから、ほんとにそんなサラッと認めてしまっていいの!?という(理数系出身者の)素朴な疑念がある。ここでの竹村の論じたいは、ラカンの鏡像段階のように幼児期の現実の経験などに触れて(依拠して)はおらず、純粋に言語哲学のテーゼなのだとしてギリ、スルーできるけど、けっきょく後にラカンの精神分析のそこらへんの議論に関しては同意している節があるからな……

人文思想における「生物学的で生殖イデオロギーまみれで男中心主義的な精神分析と、社会構築論的でクィアなフェミニズム思想の対立」以上に、そもそも「人文学と自然科学の対立」のほうが根深い、という当たり前のことにぶち当たって……いるというか、躓きそうになっている。(昔とは違って自分はもう自然科学よりも人文学に心地よさを覚えるようになっているため、今更こんなところで躓きたくはないが、奥底の理数系魂が叫んでいるのを無視するのにもエネルギーを要する。)

ここらへん、じぶんは文芸批評のほうが相性が良いのかもしれない。というのも、文芸批評ならあくまで小説などのフィクションについて(精神分析やらフェミニズムやらの理論を応用して)解釈して議論しているスタンスだから、現実とはひとつ切り離されており、科学的な実証の必要性とかを気にしないでよい。哲学は下手に現実の「事実」について論じようとすると、引っかかりを覚えてしまう。むろん、人文系のひとからすれば、わたしの「事実」解釈がたぶんに自然科学偏重であると批判されるだろうが、そんなこたぁわかってるんだよ!!!

つまり自分は、(フィクションの)解釈は好きだけど、(現実世界の)真理探究には興味ない、ということでもあるのかな。もう物理学にもあんまり興味をそそられないし……。(挫折した者の遠吠えではある) フィクションの社会反映論が好きじゃないがちなのも、お前らけっきょくフィクションよりも現実のほうが大事なのかよ!と裏切られた気分になるからかな。あくまで虚構の解釈の次元で遊ぶのが好きなんだよな。(※虚構と現実がそんなナイーブな関係でないことくらいわかってますよ!!)

閑話休題。

ここでは、人はつねに言語化されている──わたしの欲望は《他者》の欲望である──というラカンの理論を引き受けたうえで、その理論が性の二元論を基盤とする異性愛主義(〔ヘテロ〕セクシズム)を攪乱する可能性を考えてみよう。ラカンの理論からファルスのメタファーを払拭することができるとすれば、それはどのようなものになるのか、さらにまた、そこで何が起こるかを考えてみよう。 pp.112-113

つまり、竹村はラカンの理論を外部から批判するのではなく、ラカンの理論の内側から、〔ヘテロ〕セクシズムを攪乱して自己崩壊させようとしている。相手の理論に則ってその矛盾をあぶり出し、自分の理論へと換骨奪胎する。人文系の常套手段。というより、言語の相対性を基盤とする人文学においては、ある主張を論駁するには原理的にそのような方法しかありえない……的なことをいいそう。


・愛の経験

人は言語の網目のなかに投企された存在であるかぎり、言語の外側に性の関係を経験することはできない。人間にとって、言語のかなたの「ありのままの性」──「本能的な知に導かれ、自然のリズムによって規定された動物の交尾」のようなもの──は存在しない。いわば人は人の性関係以外の性関係をもつことはできない。そしてもしも言語すなわち意味が介在しない完全な一体化こそが、もっとも純粋な性関係だとするならば、人の性関係の核心にあるものは、性関係の不可能性である。 pp.113-114

アリスとテレスのまぼろし工場』の五実を思い出してしまう。

あと獣姦はどうなんだろう。この思想にはけっこう人間中心主義的なところがあるよな。人間を他の動物から特権化している。なぜなら言語をもっているから。
言語によって自然から疎外される──というと、石牟礼道子作品も連想される。そうか、こういう発想ってきわめて精神分析的なのか。。。


ラカンの性差に基づく精神分析用語を、ひとつひとつ脱-性差化していく。

 《父の名》 → 《言語の法》
   母   → 非在のカオス
 ファルス  → 《他者》の欲望のシニフィアン
男性的な位置 → 能動的な受動位置
女性的な位置 → 受動的な能動位置

しかしラカンがこのように説明した不感症と性的不能のメカニズムは、愛の経験にきわめてよく見られる愛の困難さであり、解剖学的な性差のメタファーに依存する必要のない、愛の普遍的な二つの側面ではないだろうか。 p.116

ラカンは、不感症と(感情面での)性的不能をそれぞれ女と男に振り分けて記述した。しかし「ラカンが女と男に振り分けた不感症と性的不能は、愛が間主観的なものであるかぎり、男女両方が経験する、心的様態と身体的様態のあいだの不整合の二つの側面、さらには心的様態そのもののなかに存在する不整合の二つの側面であ」る。p.116

むしろ女も男も経験する愛の自家撞着を、愛の局所的な失敗として男の場合はペニスに、女の場合は膣に集中して説明してしまう、この解釈のなかに、愛そのものが本来的にもつ困難さを隠蔽し、膣へのペニスの挿入を愛の成就(正常な成功例)と錯覚させていく制度上、言語上の強制が潜んでいる。 p.116

ここから筆者は、愛の場面における「あなた」と「わたし」の相互の方向性の欲望(受け取る愛と与える愛)を、文学的(ロマン主義的)な文章を入れ込みながら、不感症と性的不能に対応させる。すなわち、

「あなた→わたし」の愛の不可能性 = 不感症
「わたし→あなた」の愛の不可能性 = 性的不能

と図式化する。

つまり、ラカンが男女の性差を用いて愛のあり方を記述しようとしたものに反論して、愛を「あなた」と「わたし」の二者関係の場であることから、ラカンと結果的に同様の症状(不感症・性的不能)を、性差の枠組みをいっさい持ち出さずに記述することに成功している。これはまた、それらの症状が偶然的で一過性のものではなく、「わたしはつねに、「不感症であると同時に「性的不能」でもある」p.118 という「性関係の不可能性」を導く。(そもそも愛の不可能性の二面を不感症と性的不能に振り分けたのだから、これは循環論法ではある。)

映画『氷の微笑』(1992年)の読解
人は誰しもラカンのいう「女性的/男性的な性位置」の両方を身に帯びることができる。

ラカン → 竹村
ファルスである位置=女性的な性位置
 →《他者》の欲望のシニフィアンである位置=欲望される身体
ファルスをもつ位置=男性的な性位置
 →《他者》の欲望のシニフィアンをもつ位置=欲望する身体

フロイトもラカンも、愛の経験の向こうに、病理を見た。だがフロイトやラカンが想像した以上に、愛の経験はそもそもの始めから「病理」なのだ。p.119

ドイツの無声映画『パンドラの箱』(1928年)
愛し愛される相手を次々と変える娼婦ルルを主人公にしている映画を肯定的に読むつもりらしいが、その主人公造形って性差別的にステレオタイプな悪女(ファム・ファタール)表象ではないのか?と引っかかった。しかしその1ページ後にまさに自分のような意見が批判的に言及・解説されたので、完全に一本取られた。

男の不誠実は「男の機能を構成する」と語られ、「男性的な性位置」の属性と理解されて、社会的認可が与えられる。だが女が引き受ける「男性的な性位置」は、けっして「男性的な性位置」とは理解されず、男を翻弄し破滅させても、依然として男を魅了しつづける《他者》の欲望のシニフィアン[* である]者とみなされる。つまり、《他者》の欲望のシニフィアン[* である]者ではなくて、《他者》の欲望のシニフィアン[* をもつ]者であったはずのルルが、対象としての「女性的な性位置」のなかに取り込まれてしまうのだ。文学と美術は、これに宿命の女(ファム・ファタール)という表象を与えた。 p.121

なるほど~~~ つまり、いくら「男に都合の良い」女だと思える女性であっても、そもそも「男に都合が良いかどうか」という男性目線での表象判断しかしていない時点で性差別的であり、彼女自身が《他者》の欲望を希求しているかどうか、という観点でも考えるべきであるということか。

これはもちろん男女逆でもいえて、例えば女性の「理解のある彼くん」(というこれ自体ミソジニー的な)表象を分析するときに、「女に都合の良い男」としてだけでなく、彼自身が《他者》の欲望を希求している可能性に思いを馳せるべきである。(とはいえ、社会的な性差の非対称性において、やはり女性が「ファルスをもつ」者にもなり得ることのほうが強調すべきだろう。また、それでいえば男性側でいうべきは、男が「ファルスである」者にもいつだってなり得ることであろう。)

「正常な」性関係(生殖目的の異性愛関係)と、その外側の「倒錯」的な性関係(同性愛、サディズム、マゾヒズム、婚姻外性行為、実験的性行為など)の枠組みを攪乱して崩壊させる。

逆に言えば、〈ファルスをもつ者〉であるにもかかわらず〈ファルスである者〉とみなされる宿命の女、あるいは〈ファルスである者〉と解釈されるにもかかわらず、ファルスに還元できない意味を背負う「倒錯者」は、《他者》の欲望のシニフィアンを〈ファルス〉と名付ける命名法そのものに存在する矛盾を顕在化させる。またさらにいえば、次代再生産をしないさまざまな性現象は、《他者》の欲望のシニフィアンをもつ位置を「男性的な性位置」に、《他者》の欲望のシニフィアンである位置を「女性的な性位置」に分類するという、解剖学的な性差に依拠した分類法そのものを攪乱するものでもある。 p.123

生殖をおこなわない性現象を「倒錯」として周縁化し、生殖イデオロギーに支えられた男女の会いを規範化して愛の経験を語ること自体に、根本的な無理がある p.123

そうだそうだ~~~

いやぁ……この節「愛の経験」はとくにすさまじかったな。
「ファルス」ではなく「《他者》の欲望のシニフィアン」と呼び替えよう、という主張が、単なる言葉の問題ではなく、合理的で妥当な指摘であることを、ラカンの理論の矛盾を暴き出し、また歴史的な作品の引用・解釈(批評)を重ねることによって論証している。じつに鮮やか。お見事! 人文学・フェミニズム思想のプロはこうやってやるんだな~~・・・勉強になる……


・巧妙な言い忘れ

巧妙な言い忘れとは、「性的に発達し終えた人間の愛の経験を語らないこと」p.125

この巧みな言い忘れは、精神分析でいう「失錯行為」が、まさに精神分析そのものの言説のなかに存在していることを示すものと考えられる。 p.127

いわば精神分析の意識によって「精神分析の無意識」のなかに抑圧されていたものが、「性倒錯」という病理学的な説明となって、繰りかえし繰りかえし「言い間違え」られて精神分析のなかに再帰してくるのだ。 p.127

精神分析を擬人化したうえで、精神分析の理論を使って精神分析を批判するという、皮肉の効いた人文学オシャレ技をつかっている。書いてるときめちゃくちゃ気持ちよさそう

そうではなくて、精神分析の失錯行為が批判されなければならない理由は、それが愛の経験を歪曲して記述する政治的無意識であるためだ。したがって精神分析の失錯行為は、精神分析を非歴史的な参照枠ではなく政治的な言説だと理解することによって──つまり精神分析を歴史化する視点によって──批判されなければならない。 p.131

・〈エロスの不可能性〉を知る

……エロスの不可能性はかならず、わたしたちが投げ入れられている言語の制度にしたがって、歴史化された形態をとって表出する。換言すれば、どのような時代にも、どのような社会にも共通して見られる、エロスの不可能性の普遍的な形態はない。 p.133

わたしたちは異性愛が理想的で完璧な愛のかたちではないことを主張すると同時に、同性愛もまたけっして理想的で完璧な愛のかたちではないこと、そして同性愛のなかにも異性愛のなかにもエロスの不可能性は刻まれていること、しかし表出形態を異にして刻まれていることによって同性愛が差別されていることを、指摘していく必要がある。 p.135

きわめて明瞭な一文。情報量がすごい。金言


映画『マディソン郡の橋』(1994年)

同性愛嫌悪がもたらすこのような理不尽な表象を積極的に批判し、修正していくことは急務の作業である。だがその修正批評が同性愛の過度の美化になることは、注意深く避けなければならない。 p.141

さまざまな二項対立が登場して論旨を整理してゆくが、「耐えがたき快楽」と「耐えがたき快楽」が対になって用いられているのには遂についていけなくなった。何が違うねん。説明してくれい

だがエロスは本質的に不可能性のうえに成り立つものであり、わたしたちが経験できるのは、その不可能性しかない。わたしたちはそれに愛という名を与える。それゆえわたしたちは、「正常な愛」(可能なエロス)か「倒錯の愛」(不可能性なエロス)かのどちらかにいるのではなく、どこまで行っても「不可能なエロス」の、歴史的に作られた階調のなかのどこかに位置づけられているにすぎない。 pp.144-145

性対象をめぐる階層秩序が、《法》をファルスのメタファーで語ることから始まるものならば、その階層秩序に異議申し立てをおこなおうとして、《法》をファルスから引き離したとき──「解剖学を宿命とみなす」ことが前後転倒的な詭弁であることを完全に把握するとき、すなわち〔ヘテロ〕セクシズムが、わたしの身体/精神の隅々までを構造化している途方もなく巨大な、しかし〈虚構〉であることを、わたしが自分の愛の経験から目をそむけずに認識するとき──愛の形態をめぐる議論は、もはやファルスというメタファーだけにかかわるものとはならなくなる。 p.146

第2章「愛について」読み終わった。激アツ!!!!!!
あ~~~~おもしろい……

わたしには、「エロスの不可能性」が刻まれた愛しかない。
だがわたしは、「エロスの不可能性」を知ることはできる。
p.147


10/7(土)

第3章 あなたを忘れない


……母と娘は、自分が女の親であり、女の子供であることを知らず知らずに沈殿させていく。 p.149

・ペニスから乳房へ

したがって性の制度の再生産の現場であるにもかかわらず、生物学的な命の再生産の場所だと矮小化/美化されてきた母-娘関係の考察こそ、現在の性体制の根本的な再考と、その「脱-再生産」にはぜひとも必要なものだと思われる。 pp.152-153

フロイトを批判的に引き継いだメラニー・クラインの理論を批判的に考察しながら、筆者の母-娘関係の論に肯定的に使える洞察を注意深く取り出していく。なるほど、こうやって自分の論を進めていくのか~~

だが口唇期―肛門期―男根期という生物学的部位にしたがった発達過程で説明するフロイトとは異なり、クラインの「妄想的=分裂的態勢」と「抑鬱的態勢」では、外的かつ内的な対象との関係が強調されており、焦点は心的「発達」ではなく、心的「構造」の方に置かれている。 p.158

・省略される愛の系譜

10/10(火)

10/11(水) p.166-194

・母の抵抗と断念

・娘のメランコリー

・母殺しのメタファー

10/12(木) -p.208

・女性蔑視の連鎖を断ち切って

10/13(金) p.208-

娘をジェンダーの次元で自立させ、セクシュアリティの次元で自立させない母は、娘との関係に対して巧まれたイデオロギーの罠である非-性器的な関係を突出させて、女性蔑視を娘のなかに再生産する危険性がある。p.208

記号の攪乱は、それから目を逸らせることによってではなく、記号自体が無効になるまでその記号の意味の範囲をラディカルに押し広げることによってはじめて達成されるものである。p.209

加速主義?

母をやむなく振りはらった娘は、母とのあいだにあったかもしれない性器的な含意(女児には可能性さえも示唆されることのなかった性器的な近親姦)を否定することによって、皮肉なことに母が一方で体現していたセクシュアリティの二分法の陥穽にみずからすすんで身を投じることになる。p.210

とても重要なことを言っているとは思うんだけど、「母とのあいだにあったかもしれない性器的な含意」って具体的にはどういうものなんだろう、と訊きたくなってしまう……

おそらく、(男の)精神性と相補的な関係のなかで二義的な価値に置かれている(女の)身体性という記号の意味を攪乱して、みずからの身体の可能性を押し広げるものは、母の身体であると同時に、母の身体を失った母/娘──二つの焦点をもつわたし──が発する呼びかけの声なのではないだろうか。
みずから遺棄したにもかかわらず、遺棄したがゆえに存在する「不在」の子供に向かって呼びかけることは、「存在」を現在の形態で再生産するのとはべつの、オルタナティヴな再生産へ道を拓くことかもしれない。p.217

ここで称揚されている「「不在」の子供に向かって呼びかけること」や「母に対する娘の呼びかけ」p.218 って具体的にどういうことなんだ、抽象的やなぁ……と思っていたら、すぐ次の節でそれを実践し始めて驚愕した。

・記憶が忘却から立ち現れるとき

忘却のなかからわたしがいつも引き出してくるあなたへの愛は、わたしとあなたを、二つの存在、二つの不確かな存在にする。そばにいることと離れること、求めながらも恐れているもの、わたしのなかにありながらわたしのそとにあるもの、同じようでいて異なるもの、身体はこころであり、こころは身体であるもの。それはあなたとわたしだけの特別な物語なのではなく、愛というものの物語。愛というものが、そのなかに隠し持っている物語。pp.220-221

「それはあなたとわたしだけの特別な物語なのではなく、愛というものの物語」というのは、まさに第2章「愛について」で論じられていたものだなぁ……

わたしは、あなたとわたしを同質性という囲いのなかに閉じ込め、その囲いのなかでわたしとあなたを引き裂くすべての言語に抵抗する。けれどもわたしはまったくべつの言語を語っているのではない。わたしは他の人が他の場面で使う愛の言葉を、あなたとわたしの関係に使っているにすぎない。だから愛はときにわたしを窒息させ、ときにわたしを麻痺させ、ときにわたしから逃げ去り、ときに愛そのものがわたしを裏切る。あなたとわたしのあいだにも、愛の多様な局面が到来し、ときにそれは失意や妥協に変わることもある。
けれどもわたしは、あなたのなかにつくられたものを、変わらぬあなたそのものと錯覚して、あなたを侮蔑したりはしない。p.221

で、でた~w 章の最後になっていきなり文体が変わって漢字をひらいてひらがなを多用して二人称や一人称になってエモくなるやつww ポエムじゃんwww そういう締め方しかできないのかよww と馬鹿にしようとして読んでいたが、よくよく読んでいくと、そうではないことに気付かされる。 単にエモいだけじゃない。詩的でありながら論理的。これまで本章で論じてきた内容のすぐれた総まとめであり実践なのだ、これは。

たとえ「母なるもの」「女なるもの」が空無を土台にしてつくられた堅固な建造物であったとしても、その建物にはかならず人が住まい、人は建物の窓を開け、扉を開け、いつしか招くべきでない人も招きよせ、また招くべき人を招くべきではない方法でもてなし、わたしの住居はその外観を変えて、さらにはわたしの住居に面した通りの名前も変わるかもしれない。そのときわたしを説明する《名前の法》はその地勢を変えて、わたしはべつの名前で呼ばれるようになるだろう。だからわたしがいる場所は、そしてあなたがいる場所も、この街並みの向こうの原初の森のなかでも、空中に浮かぶ楼閣のなかでもない。わたしたちは《名前の法》が番地を刻む──刻みつづけている──そのただなかに住みながら、その〈住所表示/呼びかけアドレス〉の名前を変えていく。p.224

最後の最後で「地勢」つまり都市/風景の比喩!!! やっぱ都市論、ベンヤミンあたりを読むか……

第3章おわり! いや〜〜すごい……
娘の母への愛を肯定する。母の娘への愛だと、次代再生産主義的になってしまうので、娘が母のなかにいる娘を母として愛する、という遡行的で円環的な愛にする。宇佐見りん『かか』とかもこの関係で論じられてたりするのかな、水上文さん辺りに。


10/14(土) p.238まで

第4章 アイデンティティの倫理

10/16(月) p.238-266
アーレントの理論、『観光客の哲学』でも批判されてたけどマジで保守的でキツいな…… たほう精神分析は実は筆者は結構先駆性や意義を認めたうえで批判するところはしている、という気がする。

10/17(火) p.266-
第4章に入ってから全然ノれない。アイデンティティとか承認とか、めっちゃ抽象的で哲学的な議論に思えて、結局なんなのかがわからない。言ってることがなんとなくわかる気がする箇所と、なんとなくですらわからない箇所が代わる代わるくる。
「自分」とは何かを決めるためには自分ではないもの(他者)がいなければいけないので、自己の中には常に他者という裂け目がある──みたいな論は、めっちゃありきたりというか当たり前のことを小難しく言ってるだけにも思える。

10/18(水) p.286-318

第5章 〈普遍〉ではなく〈正義〉を

10/19(木) p.319-336
普遍は普遍であることによって普遍ではないものを孕む。前章のアイデンティティと差異とか、2章の愛の不可能性とか、品だけ替えてずっと同じ話をしている気がする。


おわり!!! 解説も読んだ。

第1章はふつうに為になる。
第2章「愛について」がいちばんおもしろかった。精神分析の〔ヘテロ〕セクシズムを精緻に批判して取り除いていったうえで愛の不可能性の議論に到達するロジックと文章の美しさ。
第3章「あなたを忘れない」は、自分が「女」ではないため母-娘関係の議論に自分事として深く感情移入しながら読むことはできなかったが、そうして辿り着いた「「不在」の子供への呼びかけ/母に対する娘の呼びかけ」をまさに実践するかたちでの終盤の誌的でありながら論理的な総まとめの文章の連なりには圧倒された。
たほうアイデンティティが主題となる後半の4, 5章は抽象的で難解過ぎて今の自分にはしっかり付いていくことができなかった。この密度の哲学的なフェミニズム批評書を一冊読み通すのは初めての経験だったが、竹村和子がさまざまな意味で稀有な思想家であり書き手であったことだけはまざまざと思い知らされた。

「不可能性」がこの本を通底している。セクシュアリティの不可能性。愛の不可能性。アイデンティティの不可能性。翻訳の不可能性。正義の(不)可能性……。




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