竹村和子『愛について』読書メモ
2021年にめでたく岩波現代文庫から復刊された竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』をようやくなんとか読み終えたので、読書中にとっていたメモを投稿します。途中から、赤ペンで本に直接線を引いてコメント(「?」「わからん」「なるほど」「それな!」「ほえ~」など)を書き込みながら読みました。じゃないと、とてもついていけない……。出勤/退勤中に読んでいて頭がオーバーヒートしそうでした。後半の4, 5章は特に抽象的で理解が追い付かず、メモを取ることも諦めたので、主に前半部に関する読書メモです。
2022/1/3~2023/10/19(計17日間)
22/1/3
「序」から密度がやばい。岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』は、同じような論旨を執拗に繰り返して深めていくような文体だった印象があるが、こちらは一文一文で確実に新しいことを投下してきて、しかも全ての文に線を引きたくなってしまうほどに「名文」だらけなので非常にカロリーが高い。めちゃくちゃ難解というわけではないけど、流石に学術的な論考だけあって読み進めるのがかなり疲れる。
第2章ではフロイト-ラカンの精神分析を批判的に解読してくれるっぽい? ラッキー、これ読めば精神分析の入門書読んだことにならないかな・・・(まだ『疾風怒濤精神分析入門』に手を付けていない)
3時間強かけて、30ページちょいの「序」を読み終えた・・・・・・もう1冊読み終えた気分なんだけど・・・・え? まだ本論はじまってないの? 勘弁してくれよ〜〜〜
22/9/3(土)
『(見えない)欲望へ向けて』を読んだので、その勢いで第1章読み始めた。
22/9/5(月)
23/9/16(土) p.37~61
久しぶりに1章の最初からまた読み始めた。
第1章 〔ヘテロ〕セクシズムの系譜
・なぜセクシュアリティなのか
・性差別と女の友情
10/4(水) p.62~76
・消費社会の勃興とレズビアンの性愛化
「セクシュアリティによるエロスの矮小化」p.73
これが、筆者が批判したい根本のものか。
10/5(木) p.77〜102
・レズビアンは男女の階級闘争を超えられるか
リップスティック・レズビアン
ジェニー・シミズとカルバンクライン レズビアンのエロスを無化されたゲイネス
とても難しいが、アツい。とことんヘテロセクシズムを批判している。議論の密度が凄くて、行間がかなりあるし、読者の前提知識として要求されている水準が高い。本当にそうか?とか、じゃあけっきょくどうするべきなんだよ、とは思うが、後者に関しては最後のほうで展望を述べていたし、次章以降に期待。
エロスを「個の境界を侵犯する」ものと見做しているようだが、どういうことだ。
第2章 愛について ──エロスの不可能性
・生殖メタファーの亡霊
フロイトのリビドー論の矛盾を詳細に明らかにしている。脱中心的な論旨は丁寧に汲み取りつつも。フロイトの意味不明な論をばっさばっさと切り捨ててくれるときもちぇ~~~
自我リビドー(自己保存本能)と対象リビドー(性本能)の関係
そういや性本能ってたしかに生物界一般でいえば、しばしば自己保存に逆行するかたちで行使されるよな。人間だと性本能がエゴイズムの発露みたく捉えられがちだけど。 生殖の二義性(自己に向かう面と他者(子供)に向かう面)はなかなか奥深いなあ。
10/6(金) p.103~
・欲望はつねに《他者》の欲望である
フロイトに続いてラカンの生殖イデオロギーも批判する。ついでにジジェクのラカン擁護も批判している。
ほんそれ!!!
とにかく生殖イデオロギーを徹底的にあぶり出して批判してやるぞという強い意志が自分の「性癖」に刺さる。ほんと気持ちいい。でもこれはつまり、自分が筆者の思想に論理的/倫理的に同意/共感しているわけではなく、その議論の内実や根本的な動機をよく理解しないままに、表層だけさらって愉しんでいることを意味する。そのことへの自戒は忘れないようにしなければならない。本書に限らずフェミニズム一般において。
竹村は、ただ単に精神分析を生殖イデオロギー依存の観点から全否定しているのではない。有意義な部分もあるからこそ、それと生殖イデオロギーをうまく切り離そうとしている。「生殖イデオロギーをはずしてエロスを考察する」ことが大目的であり、精神分析の批判的検討はそのためにうってつけの叩き台である。
精神分析の有意義な部分とは、「欲望はつねに《他者》の欲望である」、つまり人間は原初的に「言語」によって自己疎外されているという鏡像段階の仮説である。
ウィトゲンシュタインの言語哲学的な雰囲気を感じるが、こうした主張は、この簡潔な説明によって「論証」されたものだということなのだろうか。ラカンの入門書を読んでいても思ったことだが、人文思想では、自然科学的な実証を経ずともこういうことをあるていど普遍的な事実として使って本当にいいのだろうか? あくまで言語の次元の話だから、実証などはなから関係なく(実証などできず)、哲学的に共有された事実としてよい、ということなのだろうけれど、「人間とは何か」というかなり根源的で重要なことをいっているようだから、ほんとにそんなサラッと認めてしまっていいの!?という(理数系出身者の)素朴な疑念がある。ここでの竹村の論じたいは、ラカンの鏡像段階のように幼児期の現実の経験などに触れて(依拠して)はおらず、純粋に言語哲学のテーゼなのだとしてギリ、スルーできるけど、けっきょく後にラカンの精神分析のそこらへんの議論に関しては同意している節があるからな……
人文思想における「生物学的で生殖イデオロギーまみれで男中心主義的な精神分析と、社会構築論的でクィアなフェミニズム思想の対立」以上に、そもそも「人文学と自然科学の対立」のほうが根深い、という当たり前のことにぶち当たって……いるというか、躓きそうになっている。(昔とは違って自分はもう自然科学よりも人文学に心地よさを覚えるようになっているため、今更こんなところで躓きたくはないが、奥底の理数系魂が叫んでいるのを無視するのにもエネルギーを要する。)
ここらへん、じぶんは文芸批評のほうが相性が良いのかもしれない。というのも、文芸批評ならあくまで小説などのフィクションについて(精神分析やらフェミニズムやらの理論を応用して)解釈して議論しているスタンスだから、現実とはひとつ切り離されており、科学的な実証の必要性とかを気にしないでよい。哲学は下手に現実の「事実」について論じようとすると、引っかかりを覚えてしまう。むろん、人文系のひとからすれば、わたしの「事実」解釈がたぶんに自然科学偏重であると批判されるだろうが、そんなこたぁわかってるんだよ!!!
つまり自分は、(フィクションの)解釈は好きだけど、(現実世界の)真理探究には興味ない、ということでもあるのかな。もう物理学にもあんまり興味をそそられないし……。(挫折した者の遠吠えではある) フィクションの社会反映論が好きじゃないがちなのも、お前らけっきょくフィクションよりも現実のほうが大事なのかよ!と裏切られた気分になるからかな。あくまで虚構の解釈の次元で遊ぶのが好きなんだよな。(※虚構と現実がそんなナイーブな関係でないことくらいわかってますよ!!)
閑話休題。
つまり、竹村はラカンの理論を外部から批判するのではなく、ラカンの理論の内側から、〔ヘテロ〕セクシズムを攪乱して自己崩壊させようとしている。相手の理論に則ってその矛盾をあぶり出し、自分の理論へと換骨奪胎する。人文系の常套手段。というより、言語の相対性を基盤とする人文学においては、ある主張を論駁するには原理的にそのような方法しかありえない……的なことをいいそう。
・愛の経験
『アリスとテレスのまぼろし工場』の五実を思い出してしまう。
あと獣姦はどうなんだろう。この思想にはけっこう人間中心主義的なところがあるよな。人間を他の動物から特権化している。なぜなら言語をもっているから。
言語によって自然から疎外される──というと、石牟礼道子作品も連想される。そうか、こういう発想ってきわめて精神分析的なのか。。。
ラカンの性差に基づく精神分析用語を、ひとつひとつ脱-性差化していく。
《父の名》 → 《言語の法》
母 → 非在のカオス
ファルス → 《他者》の欲望のシニフィアン
男性的な位置 → 能動的な受動位置
女性的な位置 → 受動的な能動位置
ここから筆者は、愛の場面における「あなた」と「わたし」の相互の方向性の欲望(受け取る愛と与える愛)を、文学的(ロマン主義的)な文章を入れ込みながら、不感症と性的不能に対応させる。すなわち、
「あなた→わたし」の愛の不可能性 = 不感症
「わたし→あなた」の愛の不可能性 = 性的不能
と図式化する。
つまり、ラカンが男女の性差を用いて愛のあり方を記述しようとしたものに反論して、愛を「あなた」と「わたし」の二者関係の場であることから、ラカンと結果的に同様の症状(不感症・性的不能)を、性差の枠組みをいっさい持ち出さずに記述することに成功している。これはまた、それらの症状が偶然的で一過性のものではなく、「わたしはつねに、「不感症であると同時に「性的不能」でもある」p.118 という「性関係の不可能性」を導く。(そもそも愛の不可能性の二面を不感症と性的不能に振り分けたのだから、これは循環論法ではある。)
映画『氷の微笑』(1992年)の読解
人は誰しもラカンのいう「女性的/男性的な性位置」の両方を身に帯びることができる。
ラカン → 竹村
ファルスである位置=女性的な性位置
→《他者》の欲望のシニフィアンである位置=欲望される身体
ファルスをもつ位置=男性的な性位置
→《他者》の欲望のシニフィアンをもつ位置=欲望する身体
ドイツの無声映画『パンドラの箱』(1928年)
愛し愛される相手を次々と変える娼婦ルルを主人公にしている映画を肯定的に読むつもりらしいが、その主人公造形って性差別的にステレオタイプな悪女(ファム・ファタール)表象ではないのか?と引っかかった。しかしその1ページ後にまさに自分のような意見が批判的に言及・解説されたので、完全に一本取られた。
なるほど~~~ つまり、いくら「男に都合の良い」女だと思える女性であっても、そもそも「男に都合が良いかどうか」という男性目線での表象判断しかしていない時点で性差別的であり、彼女自身が《他者》の欲望を希求しているかどうか、という観点でも考えるべきであるということか。
これはもちろん男女逆でもいえて、例えば女性の「理解のある彼くん」(というこれ自体ミソジニー的な)表象を分析するときに、「女に都合の良い男」としてだけでなく、彼自身が《他者》の欲望を希求している可能性に思いを馳せるべきである。(とはいえ、社会的な性差の非対称性において、やはり女性が「ファルスをもつ」者にもなり得ることのほうが強調すべきだろう。また、それでいえば男性側でいうべきは、男が「ファルスである」者にもいつだってなり得ることであろう。)
「正常な」性関係(生殖目的の異性愛関係)と、その外側の「倒錯」的な性関係(同性愛、サディズム、マゾヒズム、婚姻外性行為、実験的性行為など)の枠組みを攪乱して崩壊させる。
そうだそうだ~~~
いやぁ……この節「愛の経験」はとくにすさまじかったな。
「ファルス」ではなく「《他者》の欲望のシニフィアン」と呼び替えよう、という主張が、単なる言葉の問題ではなく、合理的で妥当な指摘であることを、ラカンの理論の矛盾を暴き出し、また歴史的な作品の引用・解釈(批評)を重ねることによって論証している。じつに鮮やか。お見事! 人文学・フェミニズム思想のプロはこうやってやるんだな~~・・・勉強になる……
・巧妙な言い忘れ
巧妙な言い忘れとは、「性的に発達し終えた人間の愛の経験を語らないこと」p.125
精神分析を擬人化したうえで、精神分析の理論を使って精神分析を批判するという、皮肉の効いた人文学オシャレ技をつかっている。書いてるときめちゃくちゃ気持ちよさそう
・〈エロスの不可能性〉を知る
きわめて明瞭な一文。情報量がすごい。金言
映画『マディソン郡の橋』(1994年)
さまざまな二項対立が登場して論旨を整理してゆくが、「耐えがたき快楽」と「耐えがたき快楽」が対になって用いられているのには遂についていけなくなった。何が違うねん。説明してくれい
第2章「愛について」読み終わった。激アツ!!!!!!
あ~~~~おもしろい……
10/7(土)
第3章 あなたを忘れない
・ペニスから乳房へ
フロイトを批判的に引き継いだメラニー・クラインの理論を批判的に考察しながら、筆者の母-娘関係の論に肯定的に使える洞察を注意深く取り出していく。なるほど、こうやって自分の論を進めていくのか~~
・省略される愛の系譜
10/10(火)
10/11(水) p.166-194
・母の抵抗と断念
・娘のメランコリー
・母殺しのメタファー
10/12(木) -p.208
・女性蔑視の連鎖を断ち切って
10/13(金) p.208-
加速主義?
とても重要なことを言っているとは思うんだけど、「母とのあいだにあったかもしれない性器的な含意」って具体的にはどういうものなんだろう、と訊きたくなってしまう……
ここで称揚されている「「不在」の子供に向かって呼びかけること」や「母に対する娘の呼びかけ」p.218 って具体的にどういうことなんだ、抽象的やなぁ……と思っていたら、すぐ次の節でそれを実践し始めて驚愕した。
・記憶が忘却から立ち現れるとき
「それはあなたとわたしだけの特別な物語なのではなく、愛というものの物語」というのは、まさに第2章「愛について」で論じられていたものだなぁ……
で、でた~w 章の最後になっていきなり文体が変わって漢字をひらいてひらがなを多用して二人称や一人称になってエモくなるやつww ポエムじゃんwww そういう締め方しかできないのかよww と馬鹿にしようとして読んでいたが、よくよく読んでいくと、そうではないことに気付かされる。 単にエモいだけじゃない。詩的でありながら論理的。これまで本章で論じてきた内容のすぐれた総まとめであり実践なのだ、これは。
最後の最後で「地勢」つまり都市/風景の比喩!!! やっぱ都市論、ベンヤミンあたりを読むか……
第3章おわり! いや〜〜すごい……
娘の母への愛を肯定する。母の娘への愛だと、次代再生産主義的になってしまうので、娘が母のなかにいる娘を母として愛する、という遡行的で円環的な愛にする。宇佐見りん『かか』とかもこの関係で論じられてたりするのかな、水上文さん辺りに。
10/14(土) p.238まで
第4章 アイデンティティの倫理
10/16(月) p.238-266
アーレントの理論、『観光客の哲学』でも批判されてたけどマジで保守的でキツいな…… たほう精神分析は実は筆者は結構先駆性や意義を認めたうえで批判するところはしている、という気がする。
10/17(火) p.266-
第4章に入ってから全然ノれない。アイデンティティとか承認とか、めっちゃ抽象的で哲学的な議論に思えて、結局なんなのかがわからない。言ってることがなんとなくわかる気がする箇所と、なんとなくですらわからない箇所が代わる代わるくる。
「自分」とは何かを決めるためには自分ではないもの(他者)がいなければいけないので、自己の中には常に他者という裂け目がある──みたいな論は、めっちゃありきたりというか当たり前のことを小難しく言ってるだけにも思える。
10/18(水) p.286-318
第5章 〈普遍〉ではなく〈正義〉を
10/19(木) p.319-336
普遍は普遍であることによって普遍ではないものを孕む。前章のアイデンティティと差異とか、2章の愛の不可能性とか、品だけ替えてずっと同じ話をしている気がする。
おわり!!! 解説も読んだ。
第1章はふつうに為になる。
第2章「愛について」がいちばんおもしろかった。精神分析の〔ヘテロ〕セクシズムを精緻に批判して取り除いていったうえで愛の不可能性の議論に到達するロジックと文章の美しさ。
第3章「あなたを忘れない」は、自分が「女」ではないため母-娘関係の議論に自分事として深く感情移入しながら読むことはできなかったが、そうして辿り着いた「「不在」の子供への呼びかけ/母に対する娘の呼びかけ」をまさに実践するかたちでの終盤の誌的でありながら論理的な総まとめの文章の連なりには圧倒された。
たほうアイデンティティが主題となる後半の4, 5章は抽象的で難解過ぎて今の自分にはしっかり付いていくことができなかった。この密度の哲学的なフェミニズム批評書を一冊読み通すのは初めての経験だったが、竹村和子がさまざまな意味で稀有な思想家であり書き手であったことだけはまざまざと思い知らされた。
「不可能性」がこの本を通底している。セクシュアリティの不可能性。愛の不可能性。アイデンティティの不可能性。翻訳の不可能性。正義の(不)可能性……。
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