アニメ映画『雨を告げる漂流団地』『夏へのトンネル、さよならの出口』感想
本日、劇場公開中の2本のアニメ映画『雨を告げる漂流団地』と『夏へのトンネル。さよならの出口』を観てきたので感想をのせます。ひとつのnoteにまとめたことに他意はなく、両作の比較などもありません。ふたつとも好き寄りの作品でしたが、どちらかといえば『夏ネル』のほうがより好みでした。
・雨を告げる漂流団地
台風が接近するなか観に行った。
『ペンギン・ハイウェイ』のクライマックスで描かれたような、大海原に浸水した建築物が漂流しているフシギ空間を、単なる演出のためのエモ・シチュエーションで終わらせずに、こうして4年越しに、その情景で一本のオリジナル長編アニメ映画を作ってしまう石田監督並びにスタジオコロリドの姿勢はめちゃくちゃ好き。《コロリド・バース》の嚆矢というべきか。これからが更に楽しみなアニメ制作会社になった。
全編のほとんどがファンタジー世界で、がっつり漂流サバイバルものなのには驚いた。迫力あるアクションのなかで小学生たちがかなり過酷な体験をしていて、そういう意味でのこわさ、ヒヤヒヤ感があった。〈傷付き得るキャラクターの身体性〉をテーマにいくらでも論じられるでしょう。批評オタクのみなさん頑張ってください。(人間ではなく建造物の擬人化キャラであるのっぽ君の足欠損描写もこの議論では重要でしょうね)
本作のじぶんの感想を一言でいえば「まったく……小学生は最高だぜ!!」になる。小学生が生き生きと動いているだけで泣いてしまう。
特に、CV.瀬戸麻沙美の女主人公ナツメは最高。コウスケとの小学生ヘテロ幼馴染コンビには『ちはやふる』の千早と太一の小学生時代を幻視してしまう。2人のやり取りの見せ場は何回かあったが、その全てでフツーに泣いた。
典型的なツンデレサブヒロインのレイナさん(CV.水瀬いのり)や、その親友のジュリさん(CV.花澤香菜)のキャスティングも良い。ジュリさんはちょっと怖くて終盤まで真犯人の可能性を捨てきれなかったけど。
男子たちもかわいくてよかったですね〜やっぱり小学生は最高なんだよなぁ
脚本は正直なところ失敗していると思う。ずっと団地で漂流していて、そこから舞台が動かないが故の退屈さもあるし、そもそもどうやったら元の現実世界に戻れるのかも判然とせず、後半は彼らが現実に帰ることよりも目の前の嵐・命の危機を切り抜けるほうに必死なので、観客としてはいつ終わるのこれ?と思ってしまう。観覧車のパートも必要だったか?レイナの掘り下げと、観覧車の精霊のお姉さんを登場させる以上の働きをしておらず、その代わりにだらだらと長くなってしまっていた。クライマックスで冗長感を拭えなかったのは長編アニメ映画として致命的だ。あ、忘れちゃいけない……海へ落ちそうになって片手でぶら下がる展開を多用しすぎ!!監督はペナルティとして今後30年はこの描写を使ってはいけません。
冗長さの主な原因のひとつは、団地の〈擬人化〉であるのっぽくんの存在だろう。彼の正体が明らかになる中盤以降、彼のレイナとコウスケへの執着を昇華すれば元の世界に帰れるのは観客もキャラクター達もだいたい分かっていて、しかしのっぽやレイナが互いに諦めきれていないために焦らされる展開が続く。こちらとしては、のっぽ君へそんなに感情移入はできないので早く置いてけよ……と思ってしまう。
そもそも、人間の側が住んでいた団地やよく通っていた遊園地の遊具に思い入れを育んで別れを惜しむのは勝手だけど、団地や遊具の側がそれに応えて、向こうもこちらとの別れを惜しんでくれる、という〈幻想〉をなんの衒いもなく素直に描いてしまうのは流石にどうなんだ?という気もする。人間どころか生物ですらない「場所」を擬人化して、人間の都合の良いように感動展開に利用することの欺瞞をツッコむのは野暮か? 子供のアミニズム的な世界観・想像力だということでセーフなのか?
ずとまよの挿入歌とエンディング曲はどちらもぜんぜん作品に合ってなかった。小学生のひと夏の冒険映画にしてはお洒落すぎる。カネになるんだろうけど、安直なタイアップはやめてほしい。
・夏へのトンネル、さよならの出口
こういう最近流行っている青春ラノベ(ライト文芸?)にはまったく興味がないので、それのアニメ映画化もわざわざ劇場まで見に行くモチベは低かったが、本作の監督が、来月から放映する『BLEACH』最終章の新作アニメを手掛ける田口智久さんだと知って、「田口監督の技量を見定めてBLEACH新作に備える」という目的で観に行った。
その目的においては、とても良いアニメ映画だったと思う。えっ、こんな力のある監督にアニメBLEACHを作ってもらえるんですか……??とむしろ恐縮してしまうと共に、否応なしに期待せざるを得なくなった。楽しみ~~(田口監督のオリジナルTVアニメ『アクダマドライブ』も観なきゃ…)
絵コンテ、作画、演出などの表現面はとても良かったので文句はないが、恋愛ストーリーとしてはこの男女ふたりを「尊い」などと思うことも涙をこぼすこともいっさいなく(私は箸が転んでも泣くほど涙もろい)、このカップルが映画のあとの時系列で即別れてもまったく問題ない。いや、むしろ破局してほしい(単なるひがみ)。
まぁ入場特典の後日譚掌編によると1年後のふたりは東京で同棲してるらしいっすけど……まだ破局の可能性は残ってるから……(諦めもわるい)
とはいえ、男主人公の遠野くんのことは、ラノベ主人公の平均水準に照らせば、かなり好感がもてる。最初にトンネルから帰ってきて1週間が経過していることに気付き、男友達や花城さんから安否を気遣うメールが届いているのに対して、ただ4文字「生きてる」とだけ、2人連続でまったく同じ文面を返信する遠野くんをみて「あっ、こいつ好きかも!」とテンション上がった。ややシュールなギャグシーンとして秀逸。そのあとも、花城さんとの会話の端々から真っ当に他人に配慮できる人間性が伝わってきて良かった。
最終的なプロットだけみれば本作はラノベとしてありがちな青春SFヘテロ恋愛劇なのかもしれないが、しかし男主人公とメインヒロインの造形は、テンプレートを反転させていると思った。「平凡」な男子が「特別」なヒロインに出会って恋をするのが典型だとすれば、この作品では、自分の平凡さに悩み、特別になりたいと焦っているのがヒロインの花城さんだ。彼女の眼には、自分のせいで死なせてしまった妹を助けるためにいまの日常を捨てることを厭わない遠野くんこそが「特別」な存在に映っており、だからこそ彼女は遠野くんに惹かれて恋をする。
たしかに花城さんは17歳で連載デビューできるほど漫画家の才能がある点では明らかに特別だが、しかし現世で名を上げて名を残すことに最初から最後まで執着しているという点ではごく普通の人間だ。遠野くんはかなり酷い家庭環境(DV父)なのもあって、人生から半ば降りていて、妹を死なせ家庭を崩壊させてしまった自分なんて存在する価値がないと思っているからこそ(それを「特別」という一言で括ってしまうことは危ういが)少なくとも花城さん視点では憧れる対象として申し分ないというのは納得できた。
まぁしかし、遠野くんも花城さんに惹かれていって、最終的には妹より恋人をとるわけだから、この物語は「特別な人間が普通の人間になる話」あるいは「普通な人間が特別な人間を篭絡して普通の人間へと堕とす話」ともいえるだろう。それをハッピーエンドとして素直に感動できるひとがいるからこういう映画が作られる。(わたしはそういう人間ではないが、まぁこういう映画が存在すること自体を否定しようという気も無い。いいんじゃないでしょうか、はい。)
遠野くんの妹さんの造形は都合良すぎてキツかった。「世界のみんなが幸せになってほしい」が心からのいちばんの願いな子供、いるか? 偽善を通り越してこわすぎる。逆にいえば、妹にフィクションのキツさを押し込めたからこそ主人公は「特別」な存在としてわりと良いキャラになれたともいえる。
遠野くんと花城さんふたりに一気に好感が持てたのは、ウラシマトンネルの時間経過の仕組みをちゃんと実証的に調べ始めたこと。それでこそ理性的な現代の若者だ! しかも、科学的・定量的な検証のみならず、花城さんが「もしかしたらこの地域の伝承や文化に関係あるかも」と図書館で文献を調べ始めたのにも感心した。高校生の自由研究レベルかもしれないけれど、それでもSF/ファンタジックなものが目の前に現れたときに、それを非現実的なものだと無批判に受け入れて物語が進むんじゃなくて、ちゃんと現実ベースで実証的かつ分野横断的に向き合う姿勢はとても大切だと思うし、揶揄してはならない。
ただ、結局、トンネル内を進んだ「距離」が外の世界の経過時間に換算されるのか、それともトンネル内にいた「時間」が換算されるのかは最後まで判然とせずもやもやした。観終わってから友人と議論した結果、後者だと納得はしたけど。最初の鳥居を越えると携帯の通話が繋がらなくなる、というのを私は距離換算説を支持する事実だと勘違いしてしまったが、あの鳥居より先の空間に滞在していた時間×[固定レート]のぶんだけ現実の時間が経過する、ということか~。
都合がいいといえば、遠野くんがトンネルで妹に会いに行っているあいだ13年間も花城さんが一途に待っていてくれたことがいちばん都合がいいだろう。まぁそれを言っちゃったら恋愛ラノベが成立しなくなるから仕方ないんだけど……。
単に都合がいいだけじゃなくて、この物語のテーマにも抵触している気はする。遠野くんにとって「過去」の象徴たる妹に執着するのをやめて、「今」および「未来」の象徴である花城さんを選んで "前に進む" 話……として本作を理解するならば、花城さんにとっては遠野くんこそが「過去」の象徴である。13年間も過去を引きずり続けた結果、恋が実ってハッピーエンド!うおおおおおおお!!……というのはテーマに真っ向から矛盾していないか? ──いや、むしろ、こうして恋人としてめでたく結ばれた相思相愛の男女ふたりが決定的に矛盾/断絶していることこそが本作の個性であり魅力なのだと擁護することもできるのか。じゃあ遠野くんが妹を「捨てた」(あえてそう言わせてほしい)のは、けっして《過去からの解放》のような高尚なハナシじゃなくて、単純にかわいい妹よりもかわいい同級生の女子(再会する頃には13歳年上のお姉さんになっている)のほうが好きだったから、ってことになるか。そうか……遠野、お前はそういうやつだったんだな……。(誰も他人の性癖を否定することはできない)
どうせなら、13年といわず、4,50年くらい経過させておばさんやお婆さんになって、それでもふたりは愛し合って結ばれる──くらいの気概をみせてほしかったな。(ゼロ年代のエロゲやラノベでたくさんありそう)
冷静に考えれば、31歳のお姉さんなんて高校生男子にとっていちばんエロい存在では? 13年という「無慈悲な」時間経過は障害どころかおいしい性癖追加トッピング要素にしかなっていないのでは。
花城さんが漫画家(志望)属性なのも現代的だな~と思った。ラノベ原作なのに(そしてそのアニメ映画化なのに)なぜ「漫画」??というのは考えたい。
もちろん、作中で言及されている通り、時間SFである本作にとって「1000年単位で残るもの」はなにか、という想像力の空間は立ち上がっていて、「1万年前から人類は画で物語をつくってきた」という論はひとつの理由になるだろう。漫画じたいはそんなに歴史のあるジャンルではないが、古代の壁画なんかをひっくるめて「画で物語る芸術形式」のひとつの現代的なあらわれとしての「漫画」をモチーフに選んだ、というのはややアクロバティックだ(というか苦しい気もする)が面白い。
あるいはもっと現実社会ベースで考えて、最近の若者にとっては、小説家よりも漫画家のほうが高校生が憧れる対象としてより身近で説得的だから、という理由もあるだろう。
または、原作が「ラノベ」であることに注目すると、低俗な創作ジャンルとして蔑視/差別されやすい対象として、ラノベではなく敢えてズラして漫画をチョイスした、という説はないだろうか。作中で差別されている表現形式であえてその物語を表現する、というのもよく見られる手ではあるが、そうすると不可避的にメタフィクションの香りが漂ってしまい、本作が本来求める方向性とは変わってきてしまうから、みたいな。
あ〜あと、序盤で花城さんに殴られたクラスのカースト最上位っぽい女子(川崎小春さん)、花城さんとプールサイドで仲直りしているらしきシーンが挿入されたっきり、いっさい出番が無くて悲しかった。なんなら、あのプールサイドで仲直り(「あの時はごめん」「こちらこそごめん」)じゃなくて、川崎さんが花城さんに告白してるのかとも一緒考えてしまった。(「好きです。付き合ってください」「……ごめんなさい」)
本作がヘテロ恋愛ラノベである以上それはあり得ないのかもしれないが、個人的にはそれで異性愛と同性愛が絡んだ三角関係モノになってほしかったなぁ〜〜〜!!!
(ちなみに、wikipediaによると原作小説では川崎さんの出番はもっとあるらしいし、入場特典の後日譚によると大人になっても川崎さんと花城さんは良い友人関係を保っているらしいですね。・・・長いあいだ恋愛感情を秘めて友人付き合いをしている説がワンチャン…… まだ三角関係になるには遅くないッ!!!!!)
ストーリー/キャラに関してはこのくらいにして、映像・表現面で良かった点を挙げて終わる。
・終盤、遠野からのメールが花城さんに届いて、下灘駅のホームから線路に降りて、トンネル入り口の場所まで走っていくシーケンスが良い。断絶していた複数の(印象的な)地点の位置関係がクライマックスでやっと判明し、それらの連続性が確保される展開……すばらしい……。アニメの背景美術・舞台オタクを自称する人間としては「これだよこれ!!わかってんねぇ!!!」と膝を打った。
「クライマックスで/だから連続性が確保される」だけでなく、「連続性が確保されるからこそクライマックスに成り得る」とすら言ってしまいたい。
・下灘駅での最初の出逢いをふたりで「再演」するシーンで、カメラの向きを180度転換して、2人の後ろの一面のヒマワリを初めて写す演出が良かった。それまではずっと陸側から海をバックに駅のホームを撮っていたのを、ここで(遠野くんが傘に見立てた1本のヒマワリを花城さんに渡した瞬間に)反転して、それまで観客にはいっさい隠されていた、馬鹿みたいに黄色く咲き誇るヒマワリたちの存在が初めて明らかになる……叙述トリックの映像版?? 観たとき思わず笑っちゃったし、こういう演出を狙ってやってくる田口監督、好きだわ~~と思った。
・夏祭りの花火をふたりだけの穴場で見るシーン、ひとつの花火が打ち上がるのを水面(海面)にもうつして、上下に光の筋がのびていく表現が良かった。花火が「開く」のを水面にも映す演出はありがちだけど、開く前に球が打ち上げられて登っていく軌跡の段階から鏡面に映すことで、一瞬花火だとは認識できない感じが好き。
・初めて花城さんの家に訪れるシーン。遠野くんを花城さんが押し倒し(?)て馬乗りになるシーンで、彼女の長い黒髪が(外に降る雨のように)細くしだれ落ちているさまが淫靡で美しくて怪しくて良かった。思わず、「えっ、黒髪ロングの描写もこんなにうまいってことは『BLEACH』最終章の卯ノ花さんにも期待していいんですか!?」と興奮してしまった。(エス・ノトさんのことも忘れてないですよ)
『夏へのトンネル』は友人とふたりでやっている映画感想ラジオでも取り上げて語り合いました。