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【ブラジル文学】クラリッセ・リスペクトル『ソフィアの災難』感想


クラリッセ・リスペクトル『ソフィアの災難』武田千香・福嶋伸洋 編訳

ラテンアメリカ文学好きにとって今年もっともアツいニュースであるところの…………リスペクトルの短編選集の刊行!! うれしすぎる…………

現代ブラジル文学を代表する作家クラリッセ・リスペクトルの短編が29篇収録されている、日本オリジナルの傑作選だそうです。




2024/7/6〜10/2

7/6(土)

・脱走

夫と家庭に抑圧されている「主婦」の憂鬱と絶望を描いた小品。なにもかもベタ過ぎてまったく面白くない。
これを冒頭に置く編集者の意図はひしひしと感じる。単に執筆刊行年順かもしれんけど。


・異国の軍隊

す、すげぇ……これはめっちゃおもしれぇ〜〜!!!
「主婦」が、かつて同じマンションに住んでいた8歳の少女オフェーリアとのささやかで不思議な逢瀬の時間を回想する。
ロリおね歳の差百合だ……
途中で大人側が一転攻勢して、聡明で大人びた少女が一気に「子供」になる。誕生の苦痛、別の存在になる勇気、みずからとの結婚。

無垢な子供が大人になる瞬間を描いた小説はよくあるが、逆に大人びた子供がちゃんと「子供」になる瞬間の葛藤を、別の大人の目線でここまで濃密に描いたのは読んだことがない。すごい短編だと思う。

少女を思い出すきっかけとなった序盤のクリスマスイブのヒヨコと家族の挿話からして、ひとが自分より小さな可愛いものに向ける「愛」の独善性と暴力性を見事に抉り出しているが、それを踏まえてオフェーリアの回想に入り、さらに重層的にテーマを表現しきっている。

タイプライターで内職をする主婦、というのは『ブラジル文学傑作短篇集』でも出てきたような。ブラジル社会を描く上で欠かせないのだろう。

大人と子供、人間がか弱い者を傲慢に愛する、という二項関係のみならず、やはりそこに「女性性」というジェンダーが社会的にどう形成されているのか、という点が重要だろう。「子」を愛さなければならない、庇護しなければならない、という規範による抑圧。

オフェーリアは親からネグレクトとか児童虐待受けていたのかな……そんな彼女の逃避先としての、語り手との逢瀬。しかし最後には自らも弱き者を加害する側に回ってしまう。


7/7(日)

・1日少なく

タイトルそういうことかよ! 今のところ3作どれも哀しい終わり方だな……

というか、彼女は大した人間ではなかった。偶然に生まれたというだけ。 

p.37

両親の遺した年金で生活する30歳の独身女性のある日曜日。生まれた時から一緒にいる「家政婦」アウグスタが1ヶ月休暇を取っているために、早朝から暇を持て余し、やることがなく、遂には……

独り身の女性のなんとも緩慢で孤独で夢想的な一日の生活を淡々と語る、そのことにブラジル文学史上の意義があるのかもしれないし、ないのかもしれない。

前作のオフェーリアは「それだから」が口癖だったが、今回のマルガリーダ・フローリスは「それから?」と絶えず言いながら時間を持て余している。

太っているのか痩せているのか矛盾する記述、信頼できない語り手。「自分がかわいいのか不細工なのか、考えもしなかった。彼女はただありのままの彼女だった。」p.38 ともあり、ルッキズムを回避しているようにも捉えられるか。

電話が鳴らないことをまだ考えている。せめて職場の同僚でもいればよかったけど、彼女は働いていない。父と母が残した年金で足りる生活しかしていなかった。字がきれいでなく、字がきれいでなければ採用されないだろうと思っていた。

pp.41-42

この世間知らずさ、社会を舐めているという自覚もなく舐めているさまが最高だ

不躾な電話をかけてきた老女コンスタンサさんの呼ぶフラヴィアって家政婦アウグスタのことでは本当にないの? 彼女の本名さえ分かっていないというマルガリーダの無知さを暗に示している?
でも「三十歳の処女」であるのと世間知らずな性質を無批判に結び付けているようにも読めてしまうのは危ういか。

生まれたこと、生きること、平板に続く人生への絶望と諦観がどの作品からも感じられる。


・家族の絆

うおおおお これも傑作だ……
昔、集英社ラテンアメリカの文学でリスペクトル巻の表題作の一つになっていたけど、短編だったんだ。しかし表題に挙げるにふさわしい、凄い小説だ……

これは凄くハートフルというか前向きな話だ。こういうのも書けるのね。うれしい。ラストは夫視点になるので、彼の主観ではまぁ不穏な終わり方といっていいけど。

まさに「家族」小説。母娘小説であり、母息子小説であり、夫婦小説でもある。

私以外にだれもあなたを愛せる人はいないわ、女は笑いながら考えた。責任の重さから口に血の味が滲んだ。まるで「母娘」が命であり嫌悪であるかのように。そう、母親を愛しているとは言えなかった。母親が痛かった、そう、痛み。

p.53

母親への複雑な感情。宇佐見りんが好きそう。

じぶんはお母さん子あるいはお祖母ちゃん子なので、娘夫婦の家への2週間の滞在を終えて、32歳の娘カタリーナに駅まで連れそわれる老女セヴェリーナのパートは素直に感動してしまった。泣ける。プラットフォームでの親子の別れとか、ベタにも程があるんだけど。カタリーナの家までの帰路の描写とかも。

こうした「女」ふたりへの力強くあたたかなまなざしとは対照的に、夫アントニオの造形や描写はとても滑稽で辛辣。現代でいうモラハラ気質の夫。休日じぶんは悠々と過ごしたいが、しかし妻には家にいてほしい。妻が自分の知らぬところで自由に生きることを許せない。
はじめの2作もそうだが、リスペクトルは「夫」属性をもつ男性への憎悪・嫌悪を隠そうともしない。
ただ、個人的には女性が男性の支配から抜け出して自由になる話が性癖なので、このオチは非常に好き……

本作はここにカタリーナとアントニオのひとり息子(3歳)の存在が絡んできて、一層深みと複雑さを増している。すなわち「母息子」関係の主題であり、女に依存する(マザコン)男一般の主題である。

いつの時点で母親は、子どもをしっかりと抱きしめ、将来の男の上に永遠に影を落とすこと愛という監獄を与えるのか。(中略)母親がいつの時点で息子に遺産を残すのかなど、いったいだれにわかるだろうか。そしてそのときどんな陰鬱な歓びを覚えるかも。

p.58

母親が息子に愛を与えて「陰鬱な歓び」を覚える。ここをどう読むべきか、むずい。「異国の軍隊」のテーマとも似ているか。

またカタリーナの斜視という設定は、うまく活かされてはいるものの、現実の当事者への差別性がないと言い切れるのかはわからない。

幸い笑いたいとき本当に笑う必要に迫られたことは一度もなかった。彼女の目が抑え気味のずる賢い表情を帯び、いっそう斜視になり──笑いが目からこぼれるからだった。

p.51

真実は象徴だけに宿り、象徴でしかそれを受け取らないのだから。

p.56

リスペクトル作品解題っぽい文



・秘密の幸福

4ページにも満たない掌編だが、なかなかどうにも、ひとつの像を結びにくい話だなぁ
いじめっ子/いじめられっ子という関係の可換性を暗に示している? 幼い「私」は「彼女」をルッキズム的にナチュラルに差別している。ほんとうは「私」を憎んでいたのではなく友達になりたかったのでは……ない?

一人称小説の語りの位置を占められる特権性が「私」にはあり、それと、小さい頃からの「本好き」ゆえの優越感や無神経に他人の容姿をあげつらう嗜虐性が手を組んでいる。そして最後の「恋人といる女」という表現は……なに?

「好きなだけその本を借りていいからね」わかってもらえるだろうか? それは、もらうよりも価値があることだった。「好きなだけ」以上のものを、大人であれ子どもであれ、人は望み得ない。

p.64


7/8(月)

・勝利

同棲している彼氏(夫?)に出ていかれた女が、喪失のショックをひとりで克服して前向きになる。「強い女」いいね


・ウルカの海の死者

ドレスの試着中に、すぐそこの海で死んだ青年の話からとりとめなく想像を膨らませる女の掌編。よくわからない


・第五の物語

生きるという悪癖が、私の体内の鋳型を打ち破る。

p.82

ゴキブリを石膏で殺すだけの話が、リスペクトルにかかればこんな奥深く難解な掌編になるのか。同じエピソードを重層的に反復して拡大していく。


・愛

これも「主婦」モノ
家庭を持つ女性の内面にも豊かで複雑な孤独や神秘や葛藤がある、ということをここまで深々と描いている点で偉大だと思う。
街を彷徨していたら突如「覚醒」して世界が非日常的に崩壊し出す。サルトル『嘔吐』や、ル・クレジオ『調書』っぽい雰囲気。

彼女の心は、生きたいという最悪の意志で満たされていた。

p.95

ああ! 人になるより聖人になるほうがよほど簡単だ!

p.95

バス停で盲人の男を見かけて憐れみを覚える。
これもまた愛の暴力性、独善性が主題か。
生きる危険。善意の目眩。

果たして盲人が解き放ったものは、彼女の日々に収まるのだろうか。ふたたび老いるまでに何年かかるのだろう。

pp.96-97


7/9(火)

・切なる望み

赤毛の少女と犬のいっしゅんの邂逅と別れ。
ヒヨコとか犬とか、無垢なる(愛玩)動物がよく登場してくる。それらを支配する人間の傲慢さみたいなものに焦点が当たりがち。子どもを主題にするのもそう。でも人間の子どもは愛玩動物とは違って、いずれ暴力的な愛で支配する大人側にならざるを得ない。だからこそその内面や変化を小説で描き甲斐がある。


・彼は私を呑んだ

ゲイ男性とヘテロ女性とバイ男性の三角関係?
ヘテロを前提に女性の被抑圧構造を描くリスペクトル作品のなかで、ゲイ男性の存在はいかなる意味を持つか?
しかしやはり本作でも、女性向けメイクアップ・アーティストであるゲイ青年が、女性の顔や身体を「取る」かのような描写がされる。女性側の被害妄想っぽさも拭えないけど。


・神を赦す

これもまた、昨日読んだ「愛」のように、町中を歩いていた女性がふと啓示を受けたように覚醒し、また小さき動物──ネズミの死骸を見つけて急転直下ショックを受けて、愛について思案する話。
神への母性愛を感じるほどの心境から、ネズミの死骸に狼狽えて神をなじる心境へ。

私は愛とは理解の合計だと考えていた。真の愛とは、無理解の合計だということを、私は知らなかった。

pp.112-113

いや最後のほうむっず!!
宗教的かつ哲学的な思索を綴る。私への愛と世界への愛。神を創造し続ける。かなりすごい文章だと思うんだけど、歯が立たない……


・あふれる愛の物語

めんどりは悩みが多いが、他方おんどりは、苦悩がほとんど人間的だった。 

p.116

出たわねめんどり。リスペクトルの十八番モチーフ

少女はまだ、人間が人間であることは治せず、まためんどりもめんどりであることを治せないことがわかっていなかった。

p.117

「私たちが動物を食べると、動物は私たちにもっと似てきて、そうやって私たちの中にいるようになるの。この家では、私たち二人だけがペトロニーリャが中にいないの。残念ね」

p.118

ガッツリ動物倫理の話やな……
フェミニズムとヴィーガニズムと反出生主義! これらはすべてひとつづきに繋がっている。リスペクトルの作品もこのラインで読み解こうとすればかなりわかりやすくなる気がする。

少女は、愛するために作られた存在で、ついには娘になり、そこには男たちがいた。

p.119

生まれたら、大人になって暴力的な愛を与える加害者にならなければならない……という意味での、生の苦しみと残酷さ。そこに女性ジェンダーへの抑圧という主題も根本的に関わっている。

「めんどり」=「ガリーニャ」に、身持ちの悪い女、という俗語の意味があるなんて……そりゃあモチーフに使うわけだ。



・ソフィアの災難

生まれたことそのものに、ただすべき過ちが満ちていた。

p.126

9歳の少女の、担任教師の男への不器用で不条理な愛。作文。教室と校庭。
歳下が攻めていたのに中盤で一転攻勢するのは「異国の軍隊」と同じだ。メスガキわからせ

自分では何も知らないまま彼に投げつけたのに、それでも未知のままの世界という球体を、私は顔の真ん中で受けとることになる。

p.132

文章がうますぎる…!!

口の中と同じくらい深い世界の淵を、その瞬間、目にしたのだ。それは、腸の手術で開かれた腹部と同じように、誰のものでもなかった。(中略)だが、音なき破局のなか現れ出たその何か、それは、肝臓や足先が笑わないように、ほとんど笑顔には見えなかった。

p.135

私は自分が子どもであることをはっきり理解していて、それこそが重大な欠点だった。いつの日か大人になると、強く信じていた。それなのにあの大人はろくでもない少女に騙された。私の大人への信頼を、彼が初めて殺した。あの人は大人なのに、私みたいにこんな大嘘を信じちゃうんだ……。

p.137

そこに、私、賢すぎる少女はいて、自分には無価値なものが、神に、人びとに役立つのだとわかった。私には無価値なもののすべてが、私の宝物だった。

p.140

「私」、9歳とは思えないほど「賢すぎる」。ので、その後大人になってから回想形式で語っている、ということでいいのか? そういうつじつま合わせをするべき次元の小説ではないと思うが。

後半むず~…… けっきょくどういうことだったんだ。内臓とか身体を色々と用いた比喩表現の大盤振る舞いはすごかった。
人を愛することしか知らなかった「私」が、人から愛されることを知る話? 9歳の子供が大人に幻滅する話?

語り手の主人公(ソフィア?)の独白は難しすぎるが、担任教師の心境はかなり想像しやすい。ふだん授業でふざけて自分をいじりまくっている問題児が独創的な作文を書いて提出してきた。そりゃあ、やるじゃん、いいとこあるじゃん、と見直して好意的に思ってもおかしくない。大人側の思考は理解できるが、子ども側の思考が、ありありと書かれているにも関わらず(それゆえに)理解できない。この子はなんでこんなに自分に自信がないんだ。自分は褒められるに値しないと思い込んでいるんだ。自分を愛せないゆえにひとを暴力的に愛そうとしていた? だめだ、こんな安易な読解に押し込めてしまっては……


・P語

なにこれ。原文は「p」が文字のあいだにたくさん入っているということか。たぬき言葉みたいな暗号を小説で、しかも会話文のなかで使う。話は……『星の時』のような、抑圧される女性を描きながらも、そんな女性側にも「はしたなさ」はある、と仄めかすような、危うく難しいプロット。「P語」要素の実験性に比して話があまりにシンプルなので、かえって困惑する。



ここまでで約半分、15篇を読んだ。
「異国の軍隊」「家族の絆」「ソフィアの災難」が特に好き。むずいけど。
ようこんな文章書けるよなぁ~……と感心し放心してしまうことが多い。主題は「愛の暴力性」が中心にあり、関連するかたちで、抑圧される女性、動物倫理、信仰、生の苦悩などがしばしば絡んでくる。




7/10(水)

・カーニヴァルの残り物

8歳の頃のカーニヴァルの想い出を語る掌編
可哀想な少女。夢見がちなところが救いでもあるか。


8/1(木)

・家政婦の女の子

ひとりの凡庸で通俗的な「女性」のなかにある神秘についての掌編。主題も文体も、とてもリスペクトルらしい、名刺にしてもいいような小品。『星の時』っぽい。物語はなく、ただひとりの人物の描写だけがある。


・めんどり

以前、ブラジル文学のアンソロジーで読んだことがあった。めんどりはリスペクトルがよく用いるモチーフだけれど、この作品では何かの隠喩と解釈してよいものか迷ってしまう。難しい。乾いた残酷さ、シニカルさは通底している。


・お誕生日おめでとう

89歳のおばあちゃんの誕生日会のために年一で集まる家族たち。「家族」の鬱陶しさを滑稽に描く。しかしパーティの主役たる老女側の感情や思考の描写もあり、彼女を絶対的な存在として特権化してもよいものか戸惑う。「自身より大きな姿で」どっかりと主賓席に座るおばあちゃんの人間味と神秘。むずかしい。


・マウアー広場

広場のキャバレーに勤める踊り子のカルラと異性装者のゲイであるセルシーニョの友情とそのつまらない破局。ゲイでも「女らしさ」を持ち出すミソジニストはいる、という話?
それぞれ、シャム猫/養女と暮らしているという対比がなんというか典型的。


・近視の進行

ASDっぽい少年をとりまく大人たちについて。「賢さ」を作り出すのは彼の周りの大人たちの気まぐれに過ぎないと幼くして理解してしまった天才少年の人生。

抽象的な意味での「近視」というモチーフを利用した、高度な眼鏡小説。

なぜなら彼は早々と──早熟な子とされていた──他人の不安定と自らの不安定を凌駕していたからだ。ある意味で自分の近視と他人の近視の上を行っていた。それが彼に大きな自由を与えた。

p.193

子どもを持たない従姉のもとで丸一日を過ごす。すげぇ濃厚なおねショタ
「女性」の愛の暴力性……についてなんだけど、これどういうつもりでやってると読めばいいのかわからない。

ほかの大人たちの愛とは似ても似つかぬ新しい愛。実現を求める愛だった。なぜなら従姉には妊娠経験がなかったから。妊娠は、それ自体が実現された母性愛なのだ。だが、彼女のは妊娠が先立たない愛だった。事後的に懐胎を求める愛だった。要するに不可能な愛。

p.196


・誠実な友情

ぼくたちはとにかく相手を救いたかった。友情は救いの材料だ。

p.199

そこにいることは与えることでもあると、ぼくはずいぶん後になってから理解することになる。

p.201

これは……友情BLだ!
ケア関係に無縁な男たちのホモソーシャルな、無様で「誠実な友情」の結末。
いくら仲の良い友達でも、同棲するとキツいよね〜というのはわかりみが深い。


8/5(月)

・パンを分かち合う

食べものを食べたのであって、その名前を食べたのではない。神がこれほど神そのものになったことはない。食べものは粗野で、幸福で、厳しかった。 

p.207

「お誕生日おめでとう」と同じ、食事パーティまじだるいよね系の話かと思いきや、なんか最終的には宗教めいた、食を通じた神という全体性への恍惚的な合一に至った。通俗性と神秘性の同居をどう読めばいいのかむずいんだよな。


・美女と野獣、または大きすぎる傷

「結婚する前は中流階級で、銀行家の秘書になり、その人と結婚し、そして今は──今はキャンドルライト。私がしているのは人生ごっこ、人生はそんなんじゃない」と考えた。

p.217

銀行家の夫をもつ35歳の女性が、道端で脚に傷のある物乞いの男に出会い、自分の人生について考える。雑にいえば、「強者女性」と「弱者男性」の邂逅譚。
建て付けはこのように分かりやすいが、いざ実際の文章を読んでみると、難しさも感じる……

特権的な立場にある女性カルラの傲慢さ、愚かさを読み取るだけでは不十分だろう。不倫している夫にオークションで買われたという語りなど。
子どもが3人なのか2人なのかも矛盾しているし。

あいだで何度か場面転換のための区切りがあるのも意味深というか必要性がよく分からない。三人称叙述でカルラに焦点化したり物乞いのジョゼに焦点化したりと忙しいし、カルラの語りのなかで鉤括弧を使うものと使わないものが混在しているのも複雑。

「愛」というリスペクトルのオブセッションに「金」を並置させているのかな。



8/6(火)

・今のところ

彼はすることがなかったのでトイレに行った。そのあとは完全にゼロになった。

p.226

ウミガメのスープみたいな書き出し

生の虚しさ、自己という存在の心許なさについての掌編  主人公は男でいいんだよね



・子どもを描き留める

幼児の発達を三人称で描く。言語への参入、「人間」になることなど、ラカンの精神分析っぽい。
他者からのまなざしで自己形成していく感じが「近視の進行」にもやや似ている。わりとすき
これがリスペクトルの子ども観かあ。石牟礼道子っぽさも感じる。幼い頃は世界につかまっていなかった。狂気。純粋さ。



9/30(月)

・卵とめんどり

この作家、(めんどりの)"卵" 好きすぎるだろ

卵は宙吊りになっている。何かに置かれることがない。卵が置かれるときには、卵ではなく、卵の下にある物が置かれるのだ。──キッチンで表面に注意を払って、壊してしまわないように卵をまなざす。それを理解してしまわないよう、最大限の注意を払う。それを理解することは不可能なので、理解できたと思ったらそれは私が間違っているということだ。理解は、間違いの証明である。理解は、卵を見る方法ではない。──卵について決して考えないことが、それを見る方法だったということだ。

p.239

卵についての、まごうことなき怪文書。そこらへんで「怪文書」を自称している文章たちが裸足で逃げ出すような……

そもそもこれ小説なのか? 散文詩でもないし。エッセイ? 怪文書としか言いようがない。出来の悪いAIが書いたよう……と言ってしまってはあまりに愚かしい。

卵は古代マケドニアで生誕したときから、依然として変わっていない。めんどりはつねに、最先端の悲劇である。意味もなく、つねに時流に乗っている。そして造形を模索し続けている。めんどりにもっともふさわしい形はいまだに発見されていない。

p.245

後半で語り手「私」が「エージェント」?だということが語られるが、なにを言っているのかなにもわからない。
まったく意味が分からないけれど、すごいものを見せてもらった。本領発揮してきたな……



10/2(水)

・ある物体についての報告書

これは報告書である。それが短篇や長篇の物語になることをズヴェッリアは認めない。認めるのは伝達だけ。私がこれを報告書と呼ぶこともかろうじて認めているだけ。謎にまつわる報告書と私は呼んでいる。 p.257

小型の置き時計?のズヴェッリアについての伝達文書、報告書……らしい。

前作よりはまだ怪文書度が低いが、これも相当ヘン。なぜならズヴェッリアは時計らしいのだが人間のようでもあり、神や概念でもあるようだから。
たまに物語っぽい挿話が挟まれるゆえに、かろうじて小説っぽくなっている。

眠くなってきた。許容されるだろうか? 夢を見ることがズヴェッリアではないことは知っている。番号は許容される。六を除いては。ごくわずかの詩は許容される。いっぽうで長篇小説は論外だ。(中略)
スウェーデンはズヴェッリアである。
でも私はもう寝る。夢は見ないだろうけれど。
水は、濡れているものだが、ズヴェッリアである。書くこともそうである。でも文体はそうではない。胸を持つこともそうである。男性器では過剰だ。善意はそうではない。でも非善意、自己贈与はそうである。善意は悪意の対極ではない。

pp.258-259

うんうん、それもまたズヴェッリアだね。なんだかあるなしクイズのようになってきた。


・尊厳を求めて

70歳弱のシャヴィエル夫人が、夫の留守中に彷徨して思索に耽る憂鬱な一日。
前半の迷宮パートはカフカっぽいが、後半で歌手ロベルト・カルロスへの愛が主題になってからは『たそがれたかこ』になった。尊厳を失わせる(女性の)"老い" の絶望について。

これが最後かぁ……



巻末解説・訳者あとがき

この作家の特徴として身体感覚の表現とエピファニーアが挙げられる。それはまぁそうなんだろうが。

そして「言語」という秩序以前の世界を、言語を餌としてなんとか「釣ろう」とするリスペクトル。これはやはり、石牟礼道子と近いことをやっている気がする。(石牟礼道子はその根底のスタンスと、水俣病闘争というものすごい「現実」に分け入っていく振れ幅の大きさがまた特異なんだけど) 

(というか、『チャンドス卿の手紙』や『嘔吐』のように、言語以前の分裂症的な世界を書こうとする作家の系譜は確かにある。ただ、このふたりを特に挙げたいのは女性作家だから? それもナイーブか)

「私は自分を理解しています。だから私に対して私は晦渋的ではありません。ただ、私の短篇の中には自分もよくわからないものもあります……。「卵とめんどり」がそうで、それは私にとってもミステリーです」

p.283


やっぱりアレは飛びぬけてるよね。作者もこう言ってて安心した。

稀代のゴキブリ小説である『G・Hの受難』めちゃくちゃ読みたいなぁ
幼児向け・児童向けの作品も5つ書いているらしく、気になる。
ウルフとジョイスの影響を指摘され「どちらも読んでいない」と語ったそう。ウルフでは全然ないし、ブラジル文学でジョイスといったら『大いなる奥地』のギマランエス・ローザだろう。

前半の「異国の軍隊」「家族の絆」「ソフィアの災難」の3篇が完成度は飛び抜けていたかな、と思う。傑作でしかない。後半は、それこそ "子ども" を主題にした「近視の進行」「子どもを描き留める」の2篇がわりと好みだった。そしてなんといっても「卵とめんどり」の意味不明ぐあいはちょっと凄い。その他の作品は……まぁそんなに刺さらなかった。

訳者の武田さんには呆れられるかもだけど、やっぱ「難しい」と思ってしまうな。なかなか並ぶ者がいない、特異的な才能のある作家であることは間違いない。ただ、それゆえに抽象性や哲学性、宗教的な思索や描写などについていけない。わたしみたいな「ふつう」の一般読者は、理解できないものをそのまま感覚に任せて「上の空」で読む、なんて芸当を簡単にできるわけがないのです。





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