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動けるからだ

若くて
細胞分裂をたくさんして、
身体いっぱいに新しい細胞が満ち溢れているうちは
余計なことを考えたり、しなくても良いのだけれど、
一歩二歩と老い進む段階になると
心や思考は前進してるのに比べて
身体はごくごく自然に
すーっとその群れから離れていってるような感覚がある。

老いることが悪や苦で、
若いことが善や楽だとは全く思わない。
むしろ、その逆だなと確信する煌めく瞬間がたっくさんある。

ただ、身体がうまく機能していないことを端々でうっすらと、
でも確かに感じるのだ。

身体も心も思考も凪いだ状態が理想やけれど、
生きてるかぎり、様々な事象に乱されてしまうものだから
凪いだ状態をキープすることを求めるのは無茶だと思う。
その代わりと言ってはなんやけれど、
その時々の自分なりの心地良さを追い求めることは諦ずにいたいなあと思う。

自分なりの心地良さを追い求めるというのは、
自分の中のアンバランスな部分に関心を持ち続けることなのかなと最近感じている。

そのアンバランスの引き金になってるものが
不調の核だったりするのだ。

その核にいかに近づけるか。
そして、その核は取り去る方が良いのか
あるいは何らかの変化をさせることが良いのか。
身体と心の様子に耳を傾けて判断する。
その時のさじ加減、つまり良い塩梅が肝心なのだ。

その不調の核へすぐに辿りつけることもあるけれど、
私の場合は大抵、不調が層みたいになって覆ってから気づくから
まずは一番気になる不快な症状(それが一番外側の層)を解決してから次に進むという感じ。
ごまかすのではなく、自分なりに腑に落ちるように解決すると
とたんに無駄な力(緊張)が取れて楽になる。

心も身体もかまいすぎるのはよく無いけれど
放っておいたままの無関心も良くない。
どちらもそのツケは、
疲労の層をひとつふたつと増やすことで我が身に返ってくる。

起きている時間のうち、
心を失うほど忙しくて
やらなあかんことが大半を占めると
往々にしてこんなことを気にも止められなくなる。
自分の身体や心どころでは無くなる。

そんな心を失いそうな時でも
私が自然にできたのは
のどが渇いた時の飲みもの選びで身体と心に聴くこと。

習慣的すぎて最早無意識に飲んでいるものではなく、
今、体は何を欲しているのか。
心は何を欲しているのか。
種類や量や温度は?
冷え性だからいつも温かいものでほんとうに身体は大丈夫?
など問うてみて、
その時に一番しっくりくる飲むものを選ぶ。

身体がおいしいと思うもの、心が満足するものが
初めのうちは一致しないかもしれないけど、
不思議なものでだんだん一致してくる。

身体や心は自分のものだけれど思うようにはならない。
なんだか猫みたいやなと思う。

身体や心も気にかけて労って行くと
自然と愛着がわいてきて
そのうち良きパートナーになっていくように感じている。

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