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「個別最適な学び」という名の幻想

「個別最適な学び」という名の幻想


「おめぇら俺が怖いんだろ。名前つけなきゃ不安でしょうがねぇんだろ。」
高校生のころ、金城一紀の小説を原作とした映画「GO」に魅了された。
中でも、窪塚洋介が演じた主人公の杉原がクライマックスで叫ぶこの一言に、当時の僕の心が強く共鳴した。
話変わって、いま「個別最適な学び」という言葉が教育業界を賑わせている。
令和3年1月に、中央教育審議会が『「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~(答申)』を出した。
これに端を発し、SNSや教育書籍等、様々な場面で何の疑いも無くこの言葉が語られている現状に、僕は一種の驚きを感じ、呆然としている。
「個別最適な学び」という、多くの人にとって耳触りのよい言葉が、僕にとってはひどく不気味に聞こえる。
この言葉が持つ多義性というか、捉えどころの無さゆえに人が群がる様相もまた気味が悪い。
僕には、この言葉がめぐり巡って、教室のあの席に座っているその子を、そっと傷つける光景が見える。
谷川俊太郎が、詩「生きる」に託した「かくされた悪を注意深くこばむこと」という一説が頭をよぎる。
そして僕に訴えかける、誰が読むでもない、この話を書くことを。

先月発売された『授業づくりネットワーク No.45 「個別最適な学びと協働的な学び」を考える』に、総合的な学習の時間において行った実践を「個別最適な学びと協働的な学び」の視点から捉えた拙稿が掲載された。

その中で、「個別最適な学び」と名付けられた概念に対する私の考えを述べた。
その文章を読んだ大切な仲間から、「ちょっと私には分かりづらかったです。」という爽快なフィードバックをいただいた。
確かに、本題ではない上に、紙幅にも限りが有ったので、分かりやすさを欠いた文章だった。
それもあって、改めてSNS上に「個別最適な学び」に対する僕の考えを載せておきたいと思う。
少しでも、この言葉を考え直すきっかけとなったら幸いだ。
私の考えも断片的な知識から生み出された一つの解釈でしかない。
ぜひ批判的にお読みいただき、コメント欄に皆さんのお考えを遠慮なく残していただけたらありがたい。
はじめに、僕が今回伝えたいことの要旨を記しておく。

要旨

個別最適は、あくまでも「される」ものであって、人の手によって「する」、または「できる」ものではない。公教育の現状を踏まえると、個別最適化された学びを部分的に活用した上で、学習者による自律的な学びの実現を支援していくことが妥当である。もちろん、そこに「協働的な学び」の要素を欠くことはできない。教育関係者は、子どもにとって「最適」な学習法(ベストプラクティス)があると妄信せずに、探索・研究と実践を継続すべきである。この学習法は「あなたに最適」なのだから、取り組まないあなたが悪いというメッセージを出しかねない現状を放っておいてはいけない。

要旨

「個別最適な学び」が現場の力を奪うまで

そもそも皆さんは、「個別最適」と言われてどのような場面や現象を思い浮かべるだろうか。
試しに、インターネットで調べてもいいだろう。
学習者が、それぞれ異なる学習材を用いている実践の紹介もあれば、個別最適のはずがなぜか”全員”の前にパソコンが置いてある実践の紹介もある。
ここで分かることは、「個別最適」という言葉には、多種多様な解釈が存在するということである。
このように、人によって意味や解釈が異なったままに用いられる言葉を、「バズワード」という。
「バズワード」は、多くの人がそれらしく使うが、意味が確定していない、実体のない言葉である。
本当は誰も意味の分かっていないバズワードは、自ずと、使う人が分かる人とされ、使われる人が分からない人とされるという関係を作り出す。
その結果として、言葉の出し手と受け手双方が無意識のうちに、出し手の権威を強化してしまう性質を持つ。
教育現場での身近な例が、「学力向上」という言葉にある。
人によって、学力とは「意欲が土台」だとか「個性を尊重すべき」だとか言われるが、教育委員会から『学力が低下しているから向上のための対応策と数値目標を設定しなさい』との通知が学校に対して出ると、学力はすなわち学力調査の正答率を意味する。
ここで、学力と点数を結びつけるのは短絡的ではないかという意見が出ると、また、学力とは意欲が…、個性を…と話をすり替えることができる。
バズワードとは、そういう言葉なのだ。
「個別最適」も、使う人と場面によって、適応学習(アダブティブラーニング)を意味したり、自己調整型学習を意味したり、習熟度学習を意味したり、課題選択型学習を意味したりするだろう。
そうして現場はますます受け身になり、「私の実践は個別最適な学びですか?」とお伺いを立てるような体質になっていくのだ。
ここで、一つの批判が想定できる。
それは、中教審は「個別最適な学び」を「指導の個別化」「学習の個性化」の実現だと定義しているではないかということだ。
それに対する私の反論は、ではなぜ「指導の個別化」「学習の個性化」のままではいけなかったのか、またその定義の蓋然性はどこにあるのか、ということである。
「指導の個別化」と「学習の個性化」を巡る実践と研究は、長い歴史と豊富な蓄積があり、理論の体系化も進んでいる。
この二つを統合して、わざわざ新しい名前を付けたのはなぜかを、よく考えてみてほしい。
この問いに対する私の見立ては、「個別最適」という言葉が現代風にTechっぽく刺激的でよくウケるから付けた、というものだ。
なぜ私がこの見立てをするに至ったのか、そしてこの見立ての妥当性について述べていきたい。

あくまで「個別最適化された学び」としての可能性

私が、個別最適の考え方を、学習という文脈の中で認知したのは、2016年だった。
当時スタディサプリを運営していた株式会社リクルートマーケティングパートナーズで代表取締役社長を務めていた山口文洋さん(現株式会社リタリコ代表取締役社長)の講演動画を、知人にオススメされた。
話を聞いて、そう遠くない未来、学校現場にも影響を与え、教室の風景が変わることは間違いないだろうと確信した。
スタディサプリは、Eコマースやエンタメ配信を中心とした業界で注目されていたログの蓄積、AI解析やビッグデータ分析等の技術を、教育という分野で転用することで利用者を増やした。
あなたにぴったりの商品を提案してくれるAmazon、今にぴったりの音楽を流してくれるSpotify、見たい動画がすぐ見られるYouTubeと同じように、あなたにぴったりの授業動画や問題を提供してくれるというわけだ。
このサービスの説明の中で、二〇一七年ごろになると、「個別」や「最適化」という言葉が頻出するようになってきた。

その後、二〇一八年の経産省「「未来の教室」とEdTech第一次提言」が出され、「個別最適」という言葉が一般的に知られるようになった。
当時の私は、この山口さんの提案や、未来の教室提言をとても好意的にとらえていた。
確かに、『授業づくりネットワーク No.45』の巻頭座談会で渡辺貴裕さんが指摘するように、「知識・技能のパッケージを身につけていくために行うのが「個別最適な学び」みたいな、あまりに古くて貧困な学習観」がそこにあったことは否定できない。
実際、僕の前にいる学びに困り感をかかえる子は、動画を一時停止したり、巻き戻して繰り返し見たりすれ学べるようになるというほど単純な状況ではない。
それでも私が、山口さんの提案や「未来の教室」提言に一定共感できたのは、あくまでも探究学習や創発を生む学びとの組み合わせで、むしろそれらを補助する手段として提案されていたことが、当時の現場が抱える課題にうまくマッチしていたからだ。
Edtechによって提供されるのは「個別最適化された学び」であり、その効果的な活用を目指す。
そこに、Techはあくまで手段に過ぎないという、ある種の謙虚さというか、自制心を読み取ることができた。
私自身を含め、古くて貧困な学習観に立ち、非効率に知識を詰め込む教室が少なくなかった当時においては、一つの解決策になりうると考えられたのだ。
もちろん、すべてを「個別最適化された学び」に頼るのではない。
学習者の自律的な学びに、ICTによって「個別最適化された学び」という強力なツールを加える。
教師は、学習者の自律的な学びにおけるICTの可能性を提案し、よりよい学びの模索をサポートしていく。
こうした学びの在り方が、当時の学校現場が目指す姿として考えられたのだ。
そして私は、この考えは現在の学校現場において、現実的な案だと思っている。
探究や創発による学びを大切にしながらも、変わるようで変わらない入試(特に公立高校)に対応するための受験学力を求められる教育現場においては、「個別最適化された学び」を部分的に活用した上で、学習者による自律的な学びの実現を支援していくことが必要だからだ。
こうした議論を踏まえた上で、私は教育や学習の文脈における「個別最適」についての認識を形成してきた。
だから私にとって、ICT抜きに、「個別最適」を論じることはできない。
そして、学習者が自己調整する有様まで含めて「個別最適な学び」として定義することには無理があると捉えているのだ。
それまで、長らく変わることのなかった一斉一律型授業の転換を促す特効薬として「個別最適」というワードは、大きな役割を果たしたと言っていいだろう。
しかし、特効薬はあくまで特効薬だ。
いつまでも強い効き目に依存したり、万能薬と誤解したりすると、かえって病気になる。
「個別最適”な”学び」という言葉を前にして、そう感じている。

「個別最適な学び」の妥当性は?

「個別最適化された学び」と「個別最適な学び」、似たような言葉だが、私は全く別の言葉だと思う。
令和三年の中教審答申には、「「指導の個別化」と「学習の個性化」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」ですが、これを教師視点から整理した概念が「個に応じた指導」です。」とある。
この点が、引っかかる。
「個別最適」という単語は間違いなく、「未来の教室」提言やEdtechの文脈を踏まえて使われている言葉にも関わらず、なぜ古くから実践が行われ、体系化されている「指導の個別化」と「学習の個性化」を包括する言葉として定義しているのだろうか。
私はここに、良く言えば商魂たくましさを、悪く言えばがめつさを感じてしまうのだ。
なぜ、「自己調整」や「自律」といった言葉ではいけなかったのだろうか。
同答申の参考資料等にもざっと目を通したが、「個別最適化された学び」という単語は出てきても、なぜ「個別最適な学び」になったのかの議論は見つけられなかった。(誰か見つけたら教えてください。)
自己調整や自律という言葉は、なじみの薄い言葉で印象に残りにくい。
「個別最適な学び」は、産業界の文脈を組んでいて現代風であり、何より「最適」という語が強い。
教育関係者の心理的抵抗をマイルドにするために、歴史ある「指導の個別化」と「学習の個性化」の包括概念だとしておけばいいだろう。
あくまで推測ではあるのだが、もし仮にこうした経緯でないとしても、「個別最適」という言葉が既に有しているイメージと『「指導の個別化」と「学習の個性化」を学習者視点から整理した概念』には、開きを感じざるを得ない。

結局「個別最適な学び」とどう付き合えばよいのか

ここまで、私の考えをつらつらと述べてきた。
私の思いはどうであれ、「個別最適な学び」という言葉はすでに答申を通して世に出されたし、現場ではこの答申を踏まえた実践が重ねられている。
ではここから、何をどうしたらいいのか、私が考える「個別最適な学び」との上手な付き合い方を提案して結びとしたい。
それは、どこかに「個別最適な学び」が有ると思ってはいけないということだ。
教育という営みは、特性も価値観も違う人と人の間にある営みだ。
それが行われる時代背景や周辺の環境も様々であり、何をもって成功とするのか規定することは非常に難しい。
ゆえに、Bestの教育やThe mostの教育を規定することも難しい。
もし存在するのだとしたら、その教育方法が全世界に広がっているはずだが、今のところそれにあたるものは見当たらない。
教育に最適解が無いことと比べると、特定の個人の学び方を最適解に近づけることは実現の可能性が高いかもしれない。
それでも、自分自身の学びからノイズや揺らぎを排除して最適にするというのは、やはり困難だし、無機質でつまらなそうだ。
より良い学びのために、試行錯誤を重ねていくなかで、少しずつ自分に合った学び方をつかんでいくということが現実的なのではないだろうか。
そうした営みに、「最適」という言葉はやはりそぐわないと思う。
我々教育関係者も、子どもにとって最適な学習法(ベストプラクティス)があると妄信して、そこで立ち止まってはいけない。
日々の実践を振り返りながら、新たな教育を探索・研究する営みを継続していく必要があるだろう。
もし、その努力を怠り、どこかに「個別最適な学び」が有ると思いこむと、『この学習法はあなたに最適なのだから、取り組まないあなたが悪い』というメッセージを出しかねない。
そんな悲劇が、起こるはずないと断言できるだろうか。


「おめぇら俺が怖いんだろ。名前つけなきゃ不安でしょうがねぇんだろ。」
名前は便利だ。
名前がつくと、分かった気がして安心する。
一方で、名前がつくことで考えることをやめ、分かろうとすることを止めてしまうこともある。
分かることと分かろうとすること、私たちはどちらを大切にするべきなのだろうか。
令和三年の中教審答申が掲げるような「学び続けることのできる自立した学習者の育成」に携わるならば、やはり大切なのは後者だろう。
分からないを楽しみ、人生を足掻こうじゃないか。
大変な長文を最後までお読みいただきありがとうございました。
この話を書こうと思ったきっかけ、
授業づくりネットワークNo.45
『「個別最適な学びと協働的な学び」を考える』
を、ぜひお読みください!!


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