経済的損失と繁盛の関係について

信号待ちしてたら小さな靴が置かれてた。ほんとに小さくて、歩き始めたばかりの子、バギーか自転車から落っことしてしまったようだ。それを誰かがそっと。同じくらいの子どもたちをバギーに乗せた若いお母さん二組も信号待ちに加わった。気づいた。

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「わっ、最悪やん!」「ん?」「ほら、靴落としてる」「ホンマやー」

びっくりした。ぼくは「可愛い靴、落としてる」というむしろ「微笑ましい」「可愛いシーン」と受け止めてたのだが、彼女たち「現役の子育て世代」にとっては「経済的損失」なのだ。驚いた。そして、学んだ。

人は経済的損失を感じる対象しか、共感したり理解できない

ということを。

経営者仲間で、「社員に、経営的感覚を身につけてもらうにはどうしたらいいか」という話題になることがある。昔からある難問だ。

ものすごく身近な例で言うと、文具を買うとする。経営者はたとえ100円でも「会社のお金」として痛みを感じる。しかし、社員は「支給品」「無料」としか、見ることができない。経済的損失とは思わないからだ。そういえば、横浜オフィスを閉じて、そこにある文具一式をこっちに引き取ったとき、あるわあるわボールペンの替芯、クリップ、輪ゴム、ホチキス芯・・・・一生何も買わなくても済むほどの文具が出てきた。

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「無くなってから、買おうね」というのは運転資金効率化的発想からすれば当然なのだが、「無くなってから買うとめんどくさい。だから余裕もたせて補完しておこう」という発想になるのだろう。

映画『かもめ食堂』。冒頭で「あの子、これでもう一ヶ月よ」と近所のヘルシンキおばさんたちが店の外で言う。開店一ヶ月、お客さんがゼロということだ。ここでぼくは経営を考えてしまう。家賃光熱費材料費など、一ヶ月すでに持ち出してる。大赤やん! ・・・ところがヒロインはこういった経済的損失を無視した行動を取る。そこが映画の映画たるところなのだが。

起業は、お金の側面で言うと、100円を1000円に、1000円を1万円に「はねさせる」営み。お金って100円をいくら眺めても、「愛してるよー」と呼びかけても1000円にはなってくれない。それを「はねさせる」のが商い。ところが、100万円の経済的損失を体験したことのない人が、100万円を扱おうとしても、できない。

かといって、たとえば商社や金融マンのように10億のお金を動かす仕事をしているからといって、10億がわかるかというと、わからない。自分の懐が傷まないからだ。

つまり、起業を成功させたり、商いを大きく広げようとするなら、経済的損失を肌で感じる体験をすることなのだ。10万から始めて、50万、100万・・・と、大きくなるにつれて、商いも広がっていく。いつ見てもパッとしない商いをしている人は、経済的損失を負う肚がすわってない。そこが理由です。繁盛している店や商いは、経済的損失も同時に体験しているんです。ほんとの話。

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