存在の記憶
ライオンがいた。
ひとりぼっちだった。
百獣の王
なんて称号はいらない
思ってた
一羽の鳥がやってきた
仲良くなった
100年たったらまた会える
そう言って、鳥は逝ってしまった
ライオンは100年というものがわからなかった
やがて、ライオンもいなくなった
100年たった
ライオンは、岩場にはりつく 貝になっていた
鳥は、海のちいさな 波になった
鳥だった波は、ライオンだった貝に、いつもやさしく 海を届けた
波がくると、貝は気持ちよかった
100年たった
ライオンは3人の孫のいるおばあさんになった
孫が一輪の赤いひなげしの花をもってきた
おばあさんは 窓辺に飾った
ひなげしの花は、あの鳥だった
おばあさんは毎日ひなげしの花をながめて暮らした
ライオンは魚になり
白いチョークにもなった
北の国のリスの子になったこともある
鳥は漁師になり
黒板になった
リスの子の上にはじめて降った
雪のひとひらになったこともある
そして
というお話。
ぼくの大好きな絵本『100年たったら』(文・石井睦美 絵・あべ弘士 アリス館)
これ、「生まれ変わり」というよりむしろぼくは
「存在の本質」
と思ってる。
存在
というでかいものがあり、それが
あるときは
ライオンに
あるときは
鳥に
あるときは
貝に
あるときは
波に
あるときは
おばあさんに
あるときは
赤いひなげしの花に
・・・・
存在がライオンする
存在が鳥する
存在が貝する
存在が波する
そしてそれぞれがコンステレーションで意味の配置がなされている
「ご縁」というものの本質は、これじゃないかな。
だから、
会える人には必ず会える
会えない人には何をやっても会えない
仲良かったのに、最近すっかりごぶさた
というのも、「コンステレーション」の意味で、「会わなくなった」。
誰が悪いわけでも何でもない。
こう考えると
いまお客さんになってくれている人
とのご縁って、相当長い年月かけて築いてきたものなのだろうね。
マーケティングだの戦略だので
小手先の意識がどうこうできるもんじゃない。
人類が生まれて何千年の「存在=意識+無意識」の記憶なわけで。
ぼくたちはその継承者。
身体はわずか100年くらいで消えるが、「存在の記憶」はずっと残り続ける。