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「本当の愛」の裏側

アドラー心理学によると、

「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えた時、愛を実感することが出来ます。劣等感を抱くでもなく、優越性を誇示する必要性にも駆られず、平穏な、極めて自然な状態でいられる。本当の愛とは、そういうことです。

確かにそうかもしれない。
自分らしく、ありのまま振る舞うことの出来る恋愛は、それが本当の愛を育んでいる恋愛と言える気がする。

世の中には様々な人がいて、「恋人に尽くしたい」と思う人はいることだろう。まぁしかし、そうは言っても、「尽くす」=「無理をする」ということでは無いはずで。
僕も過去には、「尽くす」=「無理をする」もんだと思っていた時期があるけれど、今となっては、それがいかに馬鹿げたことであるか分かっているつもり。今現在、そういった恋愛真っ最中な人を蔑んでいるわけではなく、あくまで過去の自分に対して感じること。


今の恋人とは、僕個人としては、「自分らしく」交際出来ている。過去の恋愛と比較することは御法度なんだろうけど、これまでの恋愛とは打って変わって、僕が僕としていられているように思う。

他人の恋愛と比較して劣等感なんて微塵も感じないし、この恋愛を誇示しようとも思わない。これが僕らの恋愛で、僕の中に閉まっておきたいと思っている。


冒頭で引用したアドラー心理学の言葉は、Twitterで見かけたものなんだけど、これを読んだ時に、今の自分のようだと感じた。だから、今している恋愛は間違っていないんだと思えた。(恋愛に正解不正解があるのだとしたら)


でも、こういった恋愛について一つ思ったこと。

”順調に思える恋愛は、双方の視点から見たとき、果たして同じく思えるだろうか” ということ。

自分の視点から見たときは「自分らしく」振る舞えていると感じることができるけれど、恋人の視点からはどうなんだろうか。
「自分らしく」振る舞えているのは、もしかしたら、相手の我慢の上で成り立っていることなのかもしれない。相手が気付かれないようにこちらに合わせてくれているから、自分は「自分らしく」存在できているんじゃないのか。

一方からの視点だけなら、それが本当の愛だと言えるだろう。だが、もう一方から見たとき、景色は全く異なっているかもしれない。
人間それぞれに同じ景色は無いのだけど、双方が同じ気持ちであるなら、似たような景色なんだと思う。
自分一人の思考や感情だけでは、その確かめようは無い。だから、恋人たちには(恋人だけには限らないが)、会話が必要なんだろう。


僕の恋人は、いつだったか、「わがままが言えるようになってきた」と言ってくれたことがあるように思う。
個人的見解として、一番甘えられる人間は恋人だと思っているので、僕は恋人に甘えて欲しいと思っている。
そして、僕は、その我儘にマイペース(少しの努力も含む)に応えてあげたい。だから、今のところ少し安心している自分がいる。

この状態がいつまで続くのかは誰にも分からないけれど、この安寧はいつまでも居てほしい。

本当の愛の形は、いくつ在ってもいいと思うけどね。

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