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「信州の歴史を知れば日本の古代史が見えてくる」という言葉に影響されて、信州をうろついている。

なにかの本に書かれてあった、「信州の歴史を知れば日本の古代史が見えてくる」という言葉に影響されて、数年前から信州をうろついている。

うろついてみた実感としては、信州の各所には、北東北で生まれ育った自分が思い描いているのとは、はるかに異なるレベルで、歴史の爪痕が残っているということであった。

自分はやはり、奥羽育ちの化外の民かと、信州という土地柄の、日本の歴史への身近さがうらやましくて、自嘲の念さえ抱いてしまう。

あまりに爪痕が残りすぎていて、日本の歴史の中心から遠く離れた北東北育ちの身の上では、歴史の話題に触れるのが恥ずかしくなってしまうくらい情報量が多く、ひとつのことを理解するたびに頭の中を上書きしていかなければならなくなるので、まったくもって脳内が錯綜してしまう。

信州では、日本全体の歴史の謎が、そのまま信州自体の謎として存在していて、その謎についての手掛かりもまた、いろいろと残されていることに驚くのである。

信州には、歴史のミッシングリンクに関わる手掛かりが豊富にあり、容易にはほどけなくなったその手掛かりが、オカルティックな域にまでも達しているようだ。

結局、信州を知ろうとすれば、さらに深い歴史の解釈が必要となってくるわけで、信州の歴史が見えてくるためには、日本史の通史についての理解度を深める必要に迫られる。

日本の古代史が見えてくる前に、信州の歴史を理解するための、日本史についての知見を深めなければならないわけで、冒頭の言葉は、日本の古代史を知るための「最短ルート」という意味あいではなく、日本の古代史を知るための「核心」という意味あいだったのだと、改めて実感してしまう。

少しだけ、古代の信州について語ってみようかと思う。



信州の歴史は、旧石器時代から早くもピークを作り出す。国内最古の石刃技法石器は、佐久の香坂山遺跡から発見されているし、野尻湖に面する信濃町の立が鼻遺跡は、とても珍しい解体場・キルサイト遺跡として記録されている。野尻湖畔に立てば、ピクトグラムのような野尻湖人とナウマンゾウのオブジェが、太古のロマンを感じさせてくれる。
 

縄文時代は諏訪地域にとどめを刺されるだろう。星ヶ塔黒耀石採掘坑遺跡、水烟渦巻文深鉢土器、井戸尻遺跡出土の半人半蛙文土器、藤内遺跡出土の神像筒型土器、尖石遺跡出土の蛇体把手付土器、棚畑遺跡出土の国宝・縄文のビーナス土偶、中ッ原遺跡出土の国宝・仮面の女神土偶など、数々の出土品が、この地の縄文文化の豊かさを物語る。とりわけ、諏訪の地に算出する黒耀石は透明度も高く、ひたすらに美しく、この黒耀石の存在が縄文時代に大規模な交易の流れを生み出した。この交易の流れは、遠く青森市の三内丸山遺跡の地にまでも及んでいて、個人的に、博物館に収蔵されていた諏訪産の黒耀石の美しさを見て、諏訪湖の景色に憧れを抱いたというのが、私の信州への興味のスタート地点となっている。諏訪の地に人々が集まり、文化を熟成させていったことで、のちの諏訪大社の信仰の基層となるものが生まれていったのもこのころのことであろう。一般的な表記では、黒曜石は「黒曜石」と表記するのであろうけれども、個人的なこだわりとして、諏訪の黒曜石に関してだけは、正式に、「かがやき」という意味あいを持つ「耀」の字を用いて、黒耀石と表記したいと思うのである。
 

弥生時代には、ベンガラの赤が特徴的な善光寺付近の箱清水土器文化圏、東日本には珍しい埋納銅鐸が発見された中野市の柳原遺跡などがある。北東北の縄文文化に親しんできた者としては、弥生文化はどこか冷ややかな存在に感じられ、ややネガティブなイメージを持ってしまっていたが、中野市の博物館で初めて銅鐸の美しさを実感し、弥生文化に魅了された思い出がある。縄文時代の盛り上がりと比較して、弥生時代の信州はやや影を潜めている感があるが、もう少し上田市の歴史を掘り下げていけば、弥生時代の信州の魅力が見えてくるような気がしている。生島足島神社や泥宮神社、そのほかの上田市近郊の社寺に見られる、太陽信仰・田と泥の信仰・陽石信仰などが興味深い。最近、上田のレイラインが日本遺産となり、大変喜ばしいことである。生島大神・足島大神が、諏訪入り前の建御名方神を受け入れたとされる縁から、御柱祭が行われる。生島足島神社の御柱奉建祭では、猿田彦大神の仮面をかぶった人物が御柱を先導するようで、伊勢や阿蘇の猿田彦信仰とどう繋がってくるのかも大変に興味深い。

 
古墳時代は、大和朝廷成立にまつわる秘密と謎を、そのまま信州も背負っている。渡来人たちの入植や動向、有力豪族たちの入植や動向が、そっくりそのまま記録には残らない謎となっているからである。騎馬の習慣のある渡来人たちが、馬の放牧地を探し求めた結果であろうか、高原地帯に囲まれた信州の地は、渡来人たちの入植が盛んであった土地である。当時としては、別格の国際性豊かな文化都市であったかもしれない。古墳のバリエーションも豊富である。前方後円墳の千曲市・森将軍塚古墳、前方後方墳の松本市・弘法山古墳のほか、朝鮮半島由来の古墳も多く、その特色を鑑賞して楽しめる。積石塚が見事に復元された須坂市の八丁鎧塚古墳、合掌形石室が見られる長野市松代町の大室古墳群、安曇野市の魏志鬼の窟は支石墓の跡であると言われている。古墳のない北東北から出てきた者としては、復元された古墳のスケール感には、ただただ感動するばかりである。興味のあまり衝動的に、お隣の古墳王国・群馬県の保渡田古墳群まで足を運んでしまい、それまで、土偶にしか興味がなかったはずが、埴輪もなかなかいいじゃないかと、大きくぶれてしまったのであった。
 

飛鳥・白鳳時代は、信州の歴史の謎が集約されている時代である。教科書に載っているような人物たちが、辺境であるはずの信州の歴史の中に、まるで綺羅星のスターのように入れ替わり立ち代わりで現れる。日本史の銀河系軍団が、信州のクラブチームに在籍しているかのようなものだろうか。崇仏排仏論争と丁未の乱、白村江の戦いと安曇族、天武帝の科野遷都計画、中央政治の動向が、そのままダイレクトに信州の歴史に揺さぶりをかけてくる時代である。そもそも、崇仏排仏論争の中で物部守屋に打ち捨てられた仏像こそが、善光寺の絶対秘仏なのだというところに、信州古代史最大の謎とロマンが隠されている。大陸文物の行きかう先進地域だったであろう信州において、仏教の受容は至極あたりまえのことであったであろう。黒耀石と馬と浄土思想、これら三つこそ古代信州が発明した、三大輸出品であったかのようにも思う。これ以外にも、秘仏・一光三尊阿弥陀如来像を善光寺に運んだとされる本田善行とは何者だったのか、渡来人・秦氏はどこから来たのか、松代の皆神山に古人大兄皇子が逃れてきたという伝承は本当なのか、八面大王は安曇族・八女大王だったのか、など、いわゆる歴史ミステリーの範疇に含まれる謎も多く、楽しみは尽きない。

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