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信州以外にはあまり知られていない建御名方神の痕跡⑤佐久平

【佐久平】
建御名方神の足跡は、上田からさらに千曲川をさかのぼり、佐久平へと至る。佐久平に残っているのは、熾烈を極めた経津主(ふつぬし)神との激戦の記憶である。
隣り合う信州・東信地方と上州・西上野のあいだには、北に浅間連峰、南に荒船山がそびえている。古代には、難所である浅間の碓氷峠よりも、荒船の内山峠の方が、人々の往来の多かった道筋だったであろうか、荒船山の群馬県側の麓、上州・下仁田町のあたりには、海人系・渡来系の人々がすでに入植していた。荒船山の姿は、波がしらを砕いて進む雄大な航海船のように周囲の山並みの中に君臨していて、海人族から海への憧れとともに畏敬の念を集めていたのであろう。
建御名方神は、この荒船山一帯の勢力を、婚姻政策を使ってであろうか、味方につけることに成功していたのではなかろうか。荒船三女神の一柱とされる貫前(ぬきさき)女神を妻として迎え、興波岐(おきはぎ)命という御子神をふたりの間に設けたという。
 

貫前女神を母として生まれた興波岐命は、建御名方神の八男とされている。
彼は、しばらく佐久平の土地にとどまり、戦いによって荒廃したこの地の復興に力を尽くしたであろうか。興波岐命を、佐久の開拓神として祀っているのが、佐久神社の別名を持つ新海三社神社である。
新海三社神社の伝えに則れば、この地に鎮座する興波岐命が、父である建御名方神に会うために、遠く諏訪湖へ出向いていくその軌跡が、佐久之御渡りとなるという。冬の諏訪湖の御神渡りと呼ばれる氷丘脈には、実は三本あることは割りと知られていない。
諏訪湖の御神渡りは、上社に鎮座する建御名方神が、下社に鎮座する妃神・八坂刀売神のもとを訪れる軌跡とされていて、諏訪の人たちは、湖が全面結氷することを望み、冬の凍てつく寒さを願う。
建御名方神の往復によって作られる南北方向の氷丘脈が、一之御渡り・二之御渡りであるが、あともう一本、稀に現れる三本目の東西方向の氷丘脈が、佐久之御渡りとされている。
興波岐命が、父に会うためにはるばる諏訪湖にやってきた、その氷上の軌跡ということであるが、その母となる神は、下社に祀られている八坂刀売神ではなく、貫前女神なのであるから、興波岐命の立場としては、やや微妙な立ち位置の来訪ではある。
ただ、佐久の周辺では、興波岐命の諏訪湖訪問として語られている佐久之御渡りも、諏訪地域では、また異なる伝承による佐久之御渡りが伝えられているようで、さまざまな上塗りが重ねられている諏訪信仰の、底なし沼のごとき奥深さに触れてしまって、とても悩ましい。
 

利根川から西側のあたり、群馬県の西部地域には、経津主神を戴く物部氏がすでに進出していたであろうか。群馬県富岡市には、貫前女神を祀る貫前神社が建っているが、貫前神と抜鉾神とを混同したとかしないとか、言い伝えが言い訳めいていて、あまり釈然としてこない。
現在では、貫前神社とは言いながらも、その主たる祭神は物部氏の祖神と伝わる経津主神となっている。
貫前神社については、どうも途中から祭神が入れ替えられているかのような感じがして、このあたりの事情は複雑そうで難解である。
まるで、もともとの信仰を圧し潰すかのように覆いかぶさる、主祭神・経津主神の名前なのである。それは、もともとの洩矢神信仰を圧し潰すかのように覆いかぶさる、上社の主祭神・建御名方神の姿と重なってくるように思える。
 

碓氷川は、浅間連峰から発し、利根川を目指して流れ下る。碓氷川に沿って国道18号をゆけば、群馬県安中市にある咲前神社に辿り着く。咲前神社は、物部氏の祖神・経津主神が、建御名方神との戦いに備えて、陣所を置いた場所であるという由来を持っている。経津主神の信州攻略が、綿密な計画に基づいて行われたような、そんな用意周到さを感じさせる。
経津主神は、咲前神社からまっすぐ延びている妙義山・北側のルートを嫌って、妙義山塊・南側へと軍勢を差し向けたようだ。表妙義と浅間連峰の間にある碓氷峠の難所は避けて、裏妙技と荒船山との間にある内山峠を駆け上がり、佐久平まで押し寄せた。
佐久平の戦いは熾烈を極め、言い伝えでは、千曲川の流れが七日間にわたって血に染められたという。荒船山を隔てて両陣営が睨みあった記憶からか、現在までも、上州側の荒船神社は経津主神を祀り、信州側の荒船神社は建御名方神を祀っている。


激戦の果て、両陣営は、荒船山山頂において和議を結ぶ。この和議についてであるが、どちらかと言えば、峠を越えて佐久平の地にまで攻め込んできたのは、経津主神の側ではないかと思えるので、むしろ何も得るものなく撤退した経津主神側は、多くの妥協をしなければならなかったであろう。
よく見積もって「痛み分け」といったところで、経津主神側にとっては、事実上の敗戦だったのではないかとさえ思えてしまう。
これをもって、建御名方神を、信州・諏訪の地に封じ込めましたと主張するのは、どうにも記紀神話の取り繕いのような気もする。
もしも、建御名方神が、弱腰のままに諏訪の土地に引きこもっただけの敗軍の神であったなら、どうして、のちの世の武士たちは軍神として崇めたのであろうか。むしろ寡兵にして劣勢ながら、大勢力を相手にみごと戦い抜いて、これを撃退せしめたと考えた方が、軍神としての面目は立つ。
 

一方で、建御名方神は、記紀によって作られた神であるという説もあるようだが、そうなってくれば、佐久の土地を開拓した神は、穂高見命ということになるであろうか。佐久市内には、九州志賀島からその名をとった地名・志賀川が流れているなど、安曇氏来訪の伝承もあって、むしろ整合性がとれてくる部分もあるから面白い。
興波岐命が佐久の開拓神であると以前書いたが、別の伝承では、宇都志日金拆(うつしひかなさく)命が、佐久の開拓神であるとしている。宇都志日金拆(うつしひかなさく)命とは、穂高見命の別名である。
そのほか、佐久市には、半ば忘れられたような状態で、宗像大明神を祀る山田神社が建っていて、やってきたのが安曇氏なのか宗像氏なのか判然としない。安曇氏の本拠・志賀島の名称、泉小太郎の伝承、佐久開拓神としての穂高見命、宗像系の山田神社、建御名方神の痕跡。
あまり細かなところに持論を持ちすぎると全体像を見失う。物事の大局を見失わないように、大雑把にざっくりと処理をして、塩田平と佐久平は、安曇平と同じように、海人系氏族によって拓かれたということにまとめておこう。
 

これまで疑問にはしてこなかったものの、建御名方神は、なぜ、諏訪という土地を目指したのであろうか。普通に考えるならば、母方の故地でもある上越にとどまって最後の決戦を挑む方が、自然な流れのように思える。わざわざ、内陸の信州を少しずつ南下しながらやってくる、その理由付けがあまりにも薄いような気がしていた。
なんの縁故もない孤立無援の土地をいくつも通り過ぎ、諏訪で最終決戦を挑む理由がよくわからない。建御雷神に追われたからだと言っても、土地勘のないはじめての場所へ逃げ込む理由にはならないだろう。
建御名方神は、諏訪という土地が、ほぼ手つかずの豊かな土地であると、事前に情報を仕入れていたのかもしれない。海の民の情報網によって、すでに、それを知っていたのかもしれない。
そしてもうひとつ、犀川ではなく、千曲川の遡上を選択した理由は、なんだったのか。信州に入る以前に、貫前女神との婚姻は成立していたものかもしれない。もともと婚姻政策によって、このあたりにツテがあったために、建御名方神は、千曲川を南下してきたのかもしれない。
建御名方神が目指していたのは、諏訪ではなくて、はじめは荒船山を目指していたのだという可能性はないだろうか。荒船山神社を、元諏訪と呼ぶ伝承も残されている。建御名方神の最初の鎮座の地は、荒船山の地だったのかもしれない。

To Be Continued…

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