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難攻不落の城&荒城の月の舞台である"岡城"に行った話~#1岡城攻防戦編
滝廉太郎の「荒城の月」という曲ご存知ですよね?
あの「荒城」は、大分県竹田市にある岡城のことなんですよね。
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少年時代を竹田で過ごした瀧廉太郎は、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象から着想を得て「荒城の月」を作曲したと言われているそうなんですが、その岡城。
実は、難攻不落の城として有名なんですよね。
九州は北部に大友氏、南部に島津氏という大勢力の大名がいまして、北から大友、南から島津がじわじわと勢力を広げるわけですから、いつ衝突してもおかしくない状況になってきたわけです。
イメージではこんな感じです↓
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そしてついに天正14年(1586年)、島津と大友が全面抗争に突入したんですね。
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島津が大友領内への侵攻を開始したんですが、ここで大友側はある人を頼ったんです。
そうです
豊臣秀吉です。
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ということで天下人間近の秀吉を頼ったんですよね。
豊臣秀吉は九州に大軍勢を派遣します。
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かつて強力だった大友軍は、圧倒的な島津軍の兵力を前にして、ほとんどが戦うことも無く、次々に寝返ったりして、もう瓦解寸前だったらしいんですね。
秀吉に援軍を頼んだものの、秀吉の大軍はまだ来ない・・・
ところが!
島津の大軍に勇敢に立ち向かい、孤軍奮闘した青年武将がいたんです。
それがこの岡城の城主「志賀親次(ちかつぐ、20歳)」(キリシタン名「ドン・パウロ」)
親次は降参を勧められたものの、わずか1千の兵で岡城に立て籠もって、3万の島津軍を撃破するですね。
その後も、各地でゲリラ戦を展開し持ち堪えるんですよ。
この戦いで、難攻不落の城として天下に知れ渡ったのが岡城ということです。
では次回!岡城に行ってきたレポートを報告します!
↓つづき