「すき」を「おいしい」と言うために(あるいは基礎研究の「有用性」について)
自然科学系の基礎研究ってどうあるべきか、ということを考えたくてnoteを書いているのですが、まずは、コーヒーの話をします。
コーヒーの美味しさがわからない、とは
昔住んでいた街の商店街に、とてもおいしいコーヒー屋さんがありました。そのコーヒー屋さんの主催するコーヒーセミナーに参加したときのこと。
豆の種類や焙煎の度合いが違う複数のコーヒーを飲み比べさせてくれたのですが、ごくごく浅煎りの豆を使ったコーヒーを飲んだとき、参加者の一人が、「うーん、これは美味しいかわからない」と言いました。たしかに、普段飲むコーヒーとは、随分味が違ったのです。
僕は「美味しいかわからなくても、好きかどうかはわかるんじゃないですか?」と水を向けてみたんですが、お店のオーナーはこう言いました。
果物を食べたときに、「美味しいかどうかわからない」、なんてみんな言わないのに、「コーヒーの美味しさがわからない」、というのは、コーヒーを難しく考えすぎでは?
僕としては、やべえ、ここは「好き」でごまかしちゃダメだったのか!とちょっと焦ったこともあって、このときのやりとりがとても印象に残っています。これ、オーナーの言うことも、参加者の一人が言ったことも、よくわかるなあ、と、今だと思います。
つまり、「美味しさ」には「文脈」が必要とされる場合があって、「この飲み物は、こういう楽しみ方をするものですよ」という説明があると「あ、これは美味しいんだ」と感じられるものがあります。僕にとってのコーヒーはまさにそうだったのですが、小さいときには苦くて飲めなくて、大人になって飲めるようになった、という経緯のせいか、「苦いと美味しいって両立するんだな・・・」というのは最初はよくわかっていなかった。「自分がこの黒い液体を飲んだときに感じるのは、美味しさと呼ぶのか・・・」と、だんだんと「文脈」を体に取り込んで、「納得」していたような気がします。
一方、たしかにオーナーの言うように、果物を食べて美味しいかわからない、ということってそんなにないです。「文脈」をそこまで必要とせず「本能」で「美味しい」と感じられる、言えることもあるんですよね。オーナーは、「文脈」じゃなくて「本能」で感じ取ってくれよ、と思ったのかもしれないです。
「役に立たない」科学が役に立つ・・・?
ここで急に研究の話になります。
研究というのは、それ自体で知的好奇心を満たしてくれて、楽しいものだ、ということを僕は知っています。知的探究心が満たされる楽しさ、この本たちを読んで思い出しました。
そして、研究をどの方向に進めていくか、というのは、研究者本人の直感と意志によって決まるものだと考えています。
だとすると、「役に立つかどうか?」という軸で評価することを、研究者に課すよりも、「研究者が好きなことかどうか?」だけを追求したほうがいいんじゃないか?と考えていました。
そんななか、academistという、学術領域に特化したクラウドファウンディングのプラットフォームが、「『役に立たない』科学が役に立つ」というオンライン座談会を開催していました。
これは、プリンストン高等研究所の創設者と、現所長のエッセイであるこちらの本を題材とした座談会でした。
ただ、ぼくは最初、この座談会や、本のタイトルには、若干の違和感をもっていました。
主張としては、短期的な有用性だけを追い求めるのはよくなくて、役に立つかどうかわからない研究であっても、いつかは役に立つかもしれないのだから。ということなのですが、それだと、結局時間軸の尺度を追加しただけで、「役に立つかどうか」という土俵での評価から逃れられていないような気がしたからです。
上の方で紹介した2冊のように、基礎研究というのは、有用性を求めなくても、それ自体を楽しめるものなのだから、「いつかは役に立つ」なんてそもそも言う必要ないじゃないかと。
前職の思い出 変である、と、時間がかかる。
前職で化学系の研究開発をしていたとき、上司と今後の計画を話す中でも、似たようなことを感じたことがありました。当時の僕は「変なことをやりたいんですよね」という話を上司にしたところ、「それは「結果が出るまで時間がかかること」と言ったほうがいい」というアドバイスをもらいました。決して僕の考えを否定するわけではなく、「大人の世界での説明の仕方」を教えてもらった機会ではあったのですが、でもやっぱり、「変である(もう少しかっこよく言うと新奇である)」ということと「結果が出るのに時間がかかる」というのは、違うことなんじゃないかなあ、という思いがありました。
そして芸術起業論を読んで考えを整理できた
ただ、やっぱり有用性の尺度大事かもと思ったきっかけは、科学や基礎研究とは少し経路の違う、村上隆さんの「芸術起業論」でした。
僕は芸術のことも美のことも知らない素人で、ただこの一冊を読んで、そうなのかな、と浅く想像しているだけではあるのですが、村上隆さんいわく、日本の美術の分野は、自分の好きなように創作を行っているだけで、西欧の文脈に対しての位置づけを全然説明しようとしていない。
美術学校に通っても、美術の先生が再生産されるだけの閉じた世界になっている、ということを痛烈に批判していました。
何度もいいますが、これが美術の世界において事実なのかどうかは、ぼくは知らないのですが、ここでけっこうハッとしたんです。ああ、好きだけでやっているとよくないことが起きるんだ、と。
好きと美味しいと基礎研究の関係
冒頭のコーヒーの話をようやく回収します。
研究者が自分自身のやりたいことを研究する、というのは、コーヒーでいうところの「自分が好きなコーヒーを飲む」ということ。一方で「役に立つ」というのは「このコーヒー美味しいよ」と他の人に勧められる状態であること。こういうたとえで考えられるな、と気づきました。
改めて、僕の思う定義を整理すると、こういう感じになると思います。(辞書的にはこういう使い分けにはなっていないんで、勝手に言っているだけですが・・・)
「好き」=個人の趣向
「美味しい」=個人の趣向の側面と、文脈を必要とする側面、二面性があるもの
僕が当初、「研究者はやりたいようにやったらいい」というのは、「そのコーヒーの味が好きならそれでいいんじゃない?ただ、他人が飲んで美味しいかとか、理解してもらう必要ないよね」と言っていた、ということです。
ここで、残念ながら、やっぱり研究者が考えなければならないのは、お金の出どころです。つまり、多くは税金や寄付を原資として研究費が支払われている。
こうなってくると、自宅でコーヒーを飲んでいる人、というよりは、コーヒー屋さんのオーナーに近い立ち位置にならざるを得ない。
つまり、お店でお客さんにコーヒー出しておきながら、「美味しいかどうかはわからないけど僕はそのコーヒー好きですよ」っていうスタンスだと、うーん、たしかにお金もらえないかもしれない・・・と思いました。
だから、コーヒー屋さんのオーナーとしての研究者は、2つのアプローチでお客さんに「美味しい」と感じて貰う必要がある。
一つは、果物的なおいしさを追求する。文脈の説明抜きにして、人が本能で「これ美味しい!」と言ってしまうような研究をする。(たぶん、宇宙に関する研究ってこういう性質があると思う。個人的には)
もう一つは、コーヒーってこういう飲み物で、これはわざと浅煎りにしているから酸味を楽しむんですよ、とか、このケーキと一緒に飲むと最高に美味しい、とか、文脈を説明して「そう考えれば美味しい」と言わせるか。つまり、実際に有用なのか、とかいつ役に立つのか、ということじゃなくて、そこに対する説明責任を果たせるのか、果たしているのか、ということが重要なんだ、という整理が、僕の中でつきました。
つまり、着想を「好き」から得ることは全然否定されていないし、邪魔もされずにいられるんだな、ということです。それを「美味しい」と言えるように文脈を添えて説明できればいい。
そして、「役に立たない」科学が役に立つ、の本の中で書かれていたように、実際にはそのような「好き」から始まった基礎研究が、結果として、人類の役に立つようになることが、あるよね、あるかもね、と。
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