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こどもの教育のために必要なのは、おとなのアンラーニングと思った出来事

SAPPOROこども特派員2021🌏今年度の取組を終えた。

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多文化共生のために、子どもたちが外国人にzoomでインタビューをして発表する。ポイントは、動画を使った反転学習と、miroをつかって集合知を見える化すること。大学生がそれをサポートする。

外国人という他者との対話、観察に基づくデザイン/編集という人材教育と、コミュニティビルディングをサポートするのが、私たちだ。

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たくさんの観察と学びがあったけれど、特に印象的だったのは、こんな場面だった。

それぞれ3人組になって発表の準備をする。とあるグループは、元気な女の子3人組だった。彼女たちは、2回目のリハを終えた。

2人の子が言う。「さっきよりも、まとまっててよかった」。

もう1人のC子が言う。「1回目のほうが、よかったな。アドリブの感じとか。相手の目を見て、伝えようとする感じとか。 2回目はまとまったけど、手元の原稿を見ている感じがおもしろくないかも」

「じゃあC子ちゃんだけ、アドリブすれば?」

「ひとりじゃなくて、みんなでアドリブができれば、もにょもにょ…。」

「そうかあ」

そのあと、自分たちのホームに戻り、3人で話し合った。聞き手への配慮としてある程度の秩序はもちつつも、自分たちの基本姿勢としてチームでのアドリブを大切にするほうへ向かうのを見守った。

これは私の解釈だけれど、実は、まとめる派のふたりも、本当は、ミュージカルのような掛け合いとジェスチャーで、アドリブ的な発表がしたかったようだった。

しかし、発表会なるものにおいては、「ちゃんとまとめる」こと、つまり、意味ではなく形式をキラキラさせることが、多くの大人や先生からの評価を得られることを知っていた。

「ああこうやって私たちオトナは、オトナが気持ちよくなるために、子どもたちに遠慮をさせるんだな」。そう思うと、切なくなった。

しかし、今回は、子どもたちが大人の承認欲求を満たしてあげる忖度よりも、自分たち好奇心が勝ったようだった。

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そのグループは、調査からありたい姿と現場のギャップ=社会の課題を明らかにしはじめた。

食料の確保が難しいほど暮らしに困窮する人がいる。言葉や文化の違いから、悪意のない排除があり、人との交流やコミュニティがないことがつらい。外国人の日本での子育てはかなり大変だ、などなど。

そこから、こんな仕組みのタネを考えるにいたった。

「まちじゅうの道路の中央分離帯を、安全に食べられる野菜をつくる農園にする」

私が聞いた限り、彼女たちの構想を言葉にするとこうだ。

・ベーシックインカムの“支給”を、お金ではなく、自分たちがつくる安全な野菜で行う。
・その維持管理の作業を、たのしいアクティビティーとして、地域のコミュニティービルディングの機能を持たせる。
・そこでは、基本的に野菜は「取り放題」だけれども、コミュニティがあるから、役所が管理して、外形的な要件で平等な支給をするのではなく、必要な人に必要なだけ、公平に行き渡るように自分たちで調整ができる。

そうすると、貧しいからといって工業製品のような弁当を食べる人や、皆の畑を汚すガスを出す車は社会から、いなくなるらしい。そして、ゆくゆくはその辺に映えているフキノトウを安心して食べられる世界になるらしい。

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すごくない?最近子供たちと学びをご一緒する機会が増えてきたけれども、そういう光景を、このところ、くりかえし、何度も見ている。 

”子供たち“は、出会って30分もしないうちに、隣にいる人に「一緒に遊ぼう?」といって、手探りで新しい表現をどんどん創り出す。体験の中へとダイブする。

彼らは「目的/意味」さえあれば、みんなで表現/チャレンジをしたがる。デジタルツールも、歌も踊りも、絵も変幻自在に使い倒す。

それに比べると、“大人“は「今ある手段/機能」に固執したがるように見えることがある。ワークショップの外側で、腕を組んで場を見ている。場の内側に入らず、外側から眺めて、評価をする。彼らは体験をする前に、オープンイノベーション事例のデータのダウンロード。「これからどうなる2040」「話し方の本」みたいな本を読んで、セミナーと資格。ずっと準備と構想をしている。そしてみんなで同じことを再生産している。

それがいい・悪いわけではなく、そういう風な教育を受けてきたのは、私も自覚がある。

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さきほどの農園プロジェクトについても、「そんなことをしたら車の排気ガスがかかっちゃうよ」「変な人が農薬かけたらどうしようか」など、リスク管理と、できない理由を考えて、つい言ってしまいそうになったのは“大人たち”だった。

”子どもたち”は、できる・できないではなく、したいこと実現するための探求をしていた。「畑にかかると栄養になる排気ガスを出す車を、どのようにつくるか」「どうやってコミュニティのメンバーどうしに信頼を取り戻すか。」

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もし社会の要請に応えたいイノベーションを生み出すそとを大切にするなら、“こども”の教育のために今必要なのは、”おとな”のアンラーニングではないだろうか。

たとえば、こういったものは、常に正しいわけではないが経験則として、多くの場合、見直された方がいい思い込みだと思うけれども、どうだろうか。

・子供は何の力も持っていない
・大人は子供よりも多くの知識を持っているのだ
・大人が必要なものを選んで外側から力を注入してあげるべきだ。
・学年ごとに学ぶ内容とレベルを大人が調整すべきだ
・大人が子供に対して助言と指導、適切な評価を与えるべきだ。

一緒にサポートにあたったくれた大学生が、こう言った。

「普段はオトナに囲まれているだけど、心から尊敬できる人たちに会えた。私も、これから今日会った子どもたちみたいになりたいと思います。」
「私たちが“子ども”になりやすい仕組みってどうしたらつくれるだろう」

こういった「価値の転倒」というのか。過去の延長にあるものがヒビ割れ、そこから差し込む光の方向に、私たちは気づきたいと思った。

ちなみに、「””」がついているのは、おとな・こどもが、年齢ではなく、「知性のやわらかさ、感性のフレッシュさ」のことを指したいから。そのように表記してみた。

解なき複雑な時代に適応と変化を生み出しながら、ごきげんに生き抜くために、今こそ私がアンラーニングしないといけないことはなんだろうか。そんなことを問われている気がする。

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