鉛筆はロックだろうか?
音楽に詳しい方と相互フォローしあえたのがとっても嬉しいので、音楽を思い出すことにした。
音楽は最近縁が遠のいており一抹の寂しさを覚えていたけど、またなんか聴いたりライブ行ったりできたらいいなと思った。
とはいえわたしの音楽の造詣は非常に浅い。何々という曲のベースのどこそこのラインがいいといわれてもピンと来ないのである。
広く浅くが出来ないので、認知ミュージシャン数も限られている。しかし、一度好きになるとアルバム曲アカペラから遠方ライブ参戦までのめりこむ。
どこかの占いで「10代に好きだったものをずっと好きでいられるタイプ」と書かれており、はいそうですとしか言えなかった。
なんて拡がりの少ない人間なんだ。
そんな音楽と縁遠めのわたしが、この記事を読んでロックについて考えたくなったので、書いてみる。
ロックで思い出すのがわたしの敬愛するミュージシャン、清春のエピソードだ。彼は昔「タマネギがロックじゃないから嫌い」という発言をしていた。ジョークか否かはさておき、
芯が無い=ロックではない
という認識が窺える。
んー、芯があるとロックなのだろうか。
鉛筆はロックで、絵筆はロックではないのかもしれない?
じゃあペンタブはなんなの?
書いていて思ったが、「鉛筆はロック」はなにかしっくりくるものがあった。
これは「鉛筆」が絵描きにとって初期装備であり、絵をつくりだす根源とわたしが捉えているからだと思う。
わたしの絵づくりは基本、鉛筆クロッキー(人物速描)から始まる。
鉛筆で対象を描く行為、描き始めの「探す」感覚、美しいを感じた瞬間…そういった瞬間的感動が起こるとき扱っているのが鉛筆なのだ。
向井秀徳ばりの初期衝動である。
わたしの中でロックとは「瞬間の湧き上がってくる感動」「根源的なもの」を含んでいるのがわかった。
そう考えるとペンタブは、ロックじゃない。
最初からデジタルで描く人だとペンタブはロックになるのかもしれない。
では、筆はロックかと問われると、「ロックかと言われると違うが、ロックじゃないっていうのは嫌だ」が素直な感情だ。
絵筆は、鉛筆で描いたものをもとに、色をのせて表現するときに扱う。
つまりわたしにとって絵筆とは、根源から美しいものを抽出・精錬・昇華するための装備である。
と書くとロックではないのだが、絵筆にも瞬間的感動はある。
絵具をのせる瞬間だ。
日本画だと、和紙に筆で絵具をのせる。
第一投(一筆?)を入れるわずかな緊張。
和紙のやわらかな風合いに色がじんわり伸びてゆく静謐な時間。
その緊張とか時間は、ライブでアンコールやMCで観客がワイワイしていた時間から急に静かになって、「始まり」を待つ瞬間と似ている。
静かな高揚感が、そこには確かに存在している。
だから「絵筆はロックじゃないけどロックでないこともない」ってわたしは考えているのだろう。
言い方がややこしくなっちゃった。
「瞬間的感動・根源的なもの・静かな高揚感」の一部またはすべてを伴うものというのが現時点でわたしの考えるロックという概念。
歳を重ねたらまた解釈も変わりそう。
概念を考えるのは、ロックじゃないかもね。