同じ空を見ている
こんにちは、清世です。今日は日記みたいな独り言みたいなお話をするよ。
路上を経て少し変わったなと思うのは人との会い方のような気がする。
一層、何も考えなくなった。
それなりに身だしなみやTPOに合わせて見目を整えるのは変わらないが、無駄な緊張をしなくなった。
会って何をするでもなく、ただただなんでもないその人の気配に触れ、誰でもない「あなた」といて作られるものをより純粋に楽しめるようになった。楽しむというより、空間をいつくしむ、という表現が似合うかもしれない。
先日会った人ともそのような心持ちでいたと思う。
生きる境遇が全く違うにも関わらずなぜか行き先が同じ人であった。
お前の死にたがりはどうでもいいからとりあえず酒飲んで鉛筆で遊ぼうぜというノリで話とも呼べない時間を過ごさせていただいた。
たくさんの空を見た。
千鳥足の酔っ払いが歩く夜更けのグレー
スコールの街の緑
夕暮れのうすむらさき
真夏が来る水色
私はライブに行くと曲順がほとんど思い出せない。その場を全開で楽しんで踊り、鮮やかな瞬間の記憶を混ぜて残存させるからだ。
この日も何を話していたのか、と自問したが案の定思い出せなかった。ライブ同様瞬間的な楽しさを断片的に統合させて記憶していたようで、話せるのは空の色くらいだった。
しかし、その人が何色であるかの記憶は残っている。
少し弱さの残る光、大人と子どもをずっと繰り返しているような影
おそらく幼少期より変わっていないであろう小さな優しい心
仕草と声に垣間見える、まっさらを求める童心。
時間は容赦なく過ぎる。また忘れてしまうかもしれない。
誰かを、その人といて生まれた慈しみや美しいの瞬間を、いつでも宝箱から取り出せるようにしておきたくて絵を人を描いている。そんな一面もあるのだろう。
大切な人たちと会うこと、そして、同じ空を見る時間は、私にとって希望なのだ。
行き先が同じなら希望を紡ぎ続ければ、やがて同じ月に到達すると信じて。