【異国合戦(25)】蒙古再襲来への備え
しばらく更新してなかった分、今週2度目の更新。
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有事の政策転換
文永11年(1274)11月1日、対馬・壱岐への蒙古軍襲来の急報を得た鎌倉幕府は重大な政策転換を行う。それが本所一円地住人の動員である。
「本所一円地」とは、幕府の地頭が置かれず、本所(貴族や寺社)が一元的に支配した土地をいう。日本中のほとんどの土地を武士が統治した江戸時代とは異なり、鎌倉時代にはまだ貴族・寺社が持つ土地が少なくなかった。そうした土地には御家人ではない、つまりは幕府の将軍と「御恩と奉公」の関係にはない非御家人の武士たちがいた。そうした非御家人を「本所一円地住人」という。
鎌倉幕府の根幹である「御恩と奉公」は幕府と御家人の主従関係において適用される。本所一円地住人は幕府の将軍と主従関係にないのだから適用外であり、幕府の軍事動員を受ける立場にはない。
しかし、蒙古襲来という未曽有の危機の前に幕府は政策転換を行い、本所一円地住人を幕府の守護の指揮下に組み込もうとした。国家総動員体制である。当然、幕府は本所一円地住人にも恩賞を保証する。
ここに幕府は日本全国の武士を指揮下に入れることになった。
しかし、前回記事でも書いた通り、蒙古軍は10月下旬には撤退。鎌倉に開戦の一報が届いたころには既に合戦は終わっていた。文永の役において本所一円地住人が戦場に立つことはなかったが、幕府は再襲来に備え、本所一円地住人に軍役を課していくことになる。
元使、斬殺
文永の役から半年が経った建治元年4月、モンゴル人の杜世忠を正使とする元の使節団が長門国(山口県)室津にやってきた。7回目の使節団来日である。目的はもちろん日本の服属であった。
皇帝フビライには文永の役で蒙古軍の脅威を知った日本は軟化するとの考えがあったのかもしれないが、そうした期待は裏切られることになる。
ただ、鎌倉幕府は杜世忠らの来日に慌てた。対外窓口である大宰府のある九州ではなく、本州に直接上陸してきたからである。元としてはこれまでの使節団が天皇にも将軍にも面会できなかったのは大宰府の怠慢と妨害によるものと考えていた。そのため、杜世忠らは元使としてはじめて大宰府を回避し、直接本州に上陸してきた。
当然だが上陸したモンゴル使節団がそのまま京や鎌倉に向かうことなどできるはずがなく、捕らえられた杜世忠らは大宰府に送られ、幽閉された。
日本は島国なのだから、蒙古が九州ではなく直接本州に現れることは何の不思議もないように思われるが、どういうわけか鎌倉幕府は蒙古は九州にやってくるという先入観があったようで、対蒙古防衛のために御家人に課した異国警固番役は博多湾防衛を目的としており、本州は全くの無防備であった。
この杜世忠らの来日により、幕府は新たに長門警固番役を置くこととし、はじめに長門、続いて周防、安芸、備後と現在の山口県、広島県の御家人にこれを担当させた。翌年にはさらに対象を拡大し、幕府は長門の防衛も強化していくことになる。
幽閉されていた杜世忠ら元使一行は同年7月21日に大宰府から鎌倉へ送られた。杜世忠には遂に将軍に面会できるとの思いがあったであろうか。しかし、将軍・源惟康も執権・北条時宗も杜世忠と面会することはなかった。
9月7日、杜世忠ら5名は処刑場である龍ノ口で斬首に処された。対外戦争を経験した鎌倉幕府は、外交使節にすら容赦のない強硬姿勢に変化していた。
鎌倉幕府の元使殺害については江戸時代から長くその是非について議論がある。是とする立場は惨殺することで蒙古を恐れさせた、斬っても斬らなくても蒙古は侵攻してきただろう等の意見、非とする立場からは外交儀礼として非常識すぎる、フビライを怒らせて再侵攻を招いた等の意見がある。
どちらの見解にも一理あるが、忘れてはいけないのは鎌倉幕府が軍事権門であり、武力でその存立基盤を確立させた存在であるということ。そもそも平家政権に反抗する賊軍としてスタートし、合戦に勝利することで国家における正当な地位を築いた。承久の乱で再び賊軍となるが、ここでも力で官軍を叩き潰すことで危機を脱した。
力でその地位を築いてきた鎌倉幕府が弱腰な姿勢を見せるわけにはいかない。一度弱さを見せると幕府の存在価値は失われる。事実、鎌倉幕府は蒙古襲来から50年後、寡兵の楠木正成に苦戦を強いられたことで一気に崩壊への道を辿る。
蒙古への強硬姿勢について是非を論ずる意味はあまりなく、鎌倉幕府には強気に出る以外の選択肢は存在しなかった。
再侵攻に備えて
蒙古再侵攻に備える幕府は、博多湾防備の異国警固番役も強化した。文永12年(1275)2月、九州諸国を四班に分け、春は筑前・肥後、夏は肥前・豊前、秋は豊後、筑後、冬は日向・大隅・薩摩の御家人に3か月ずつ警固に当たらせることにした。
各国を指揮する守護はさらに自分の担当期間を分割して御家人に割り振ったようである。例えば秋を担当する豊後守護の大友頼泰は指揮する国内の御家人を7月、8月、9月と1月ずつの交代制になるように警固を3班に割り振っている。当然であるが、実際に蒙古再襲来があれば担当した月に関係なく全員が駆けつける決まりであった。