【異国合戦(26)】幻の異国征伐
文永の役を乗り切り、外交使者を斬殺したイケイケの鎌倉幕府は海を越えて朝鮮半島への出兵を計画します。
今回は幻の異国征伐について。
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異国征伐
杜世忠らを斬首した後、建治元年の年末が近づくと鎌倉幕府は異国防御の政策を発展させて、元の日本侵攻の前進基地となっている高麗に逆侵攻する「異国征伐」の計画を進めるようになる。
現代を生きる日本人にとっては豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗をしっていることもあり、強大な元・高麗を相手とする海外出兵など無謀に思えるかもしれないが、鎌倉幕府は無論、本気であった。
その本気の姿勢を示すものとして建治元年(1275)11月から12月にかけて大規模な人事異動があった。少なくとも豊前・肥後・筑後・周防・長門・石見・伯耆・越前・能登・備中・播磨は守護の確認できる。それぞれ北条一門と執権・北条時宗の側近が就任し、異国征伐に備えた。
守護やその親族の現地赴任も進んだ。豊前守護となった金沢実時の代理として子の金沢実政が下向した。北条一門の九州下向はこれが初めてである。。
肥後の守護には時宗の最側近である安達泰盛が就任し、その子息の安達盛宗が現地へと赴いた。さらに、新任ではないが薩摩守護の島津久経が現地へと下向したのもこの年である。以後、明治時代まで薩摩は島津家当主による統治が続く。
また、北条一門の佐介時国が六波羅南方探題就任のために上洛した。13歳の時国の後見として祖父の佐介時盛も上洛している。初代連署である北条時房の長男である時盛はこのとき79歳で、承久の乱にも従軍経験のある北条一門の長老であった。
二月騒動以来空席であった六波羅南方探題への佐介時国の就任は蒙古再襲来と異国征伐に備えた首都防衛の強化と朝廷とのより緻密な連携を目的としたものであろう。
異国征伐に向けた動員
鎌倉幕府・大宰府には対外戦争を遂行できるだけの自前の水軍は存在しない。異国征伐を実施するには個々の御家人が保有する船舶と人員をかき集めて、寄せ集めの水軍を編成するしかなかった。
建治元年(1275)12月、幕府は、翌年3月に異国征伐を実施すること、梶取(操船責任者)、水手(船員)を確保し、大宰府の少弐経資から指示があれば博多に送ることを九州の御家人に命じた。
もし九州だけでは既定の数を動員できなければ、山陰・山陽・四国からも動員する計画であった。この指示から九州各国の守護を入れ替えて幕府要人を下向させつつも、異国征伐の実務を担うのは少弐氏であったことがわかる。
建治2年(1276)3月5日、豊後守護の大友頼泰は領内の御家人に対し、(1)櫓の数を付記した大小の船、ならびに年齢を付した梶取・水手の名簿を報告し、翌月中旬までに博多に送ること、(2)異国へ渡る人員の数と年齢、武具を報告すること、この2点を命じた。
異国征伐は着々と進められた。
石築地の築造と異国征伐の中止
異国征伐の準備と同時に博多湾沿岸に石築地の築造が進められた。これは「元寇防塁」としても知られるが、当初は渡海予定のない九州の御家人に築造が命じられた。
江戸城(皇居)、大阪城、名古屋城などの高く積まれた石垣を知っている現代人には、石築地が地味で大したものではないように映るかもしれない。
しかし、同時代のものとしてこの時築かれた石築地ほど長大な石積みの軍事構築物は他に日本国内で見られない。それどころか石垣が軍事構築物として定着するのは300年後の織田信長の時代まで待たねばならない。戦国時代の後半、鉄砲が多用されるまで石垣は一般的ではなかったのである。蒙古襲来に備えた石築地は最先端すぎる防御施設であった。
石築地は総延長20kmほどと考えられているが、江戸時代の福岡城築城の際に石が転用されたり、埋められたりしており、現在は一部のみが史跡として残る。
攻防一体で進められた第二次対蒙古戦争の備えであったが、結局、異国征伐は取りやめになる。幕府首脳がどのような議論から結論を下したのかはわからないが、水軍戦力が想定以上に貧弱であったこと、石築地築造との同時並行は御家人の負担が重すぎたことなどが考えられるだろう。
幕府は石築地築造に専念し、蒙古の再襲来を待つことになる。
なお石築地の築造により、各御家人の警固場所がより明確になった。御家人たちは割り振られた担当場所に石築地を築造し、自らが築いた箇所をそのまま警固の拠点とすることになった。