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【異国合戦(23)】文永の役

 今回も引き続き文永の役の解説。最大の激戦となった10月20日の戦いについて。

前回記事は下記のとおり。

これまでの全記事は下記から読めます。

壱岐、そして九州へ

 元軍は占領した対馬を補給基地とし、日本侵攻を進める。次に元軍が姿を現したのは壱岐であった。上陸の日は史料によって異なるが文永11年(1274)10月13日もしくは14日のことと思われる。壱岐守護代・平景隆は100騎ほどで上陸してくる元軍を迎え撃ったが、対馬同様に多勢に無勢であった。
 平景隆の軍勢は、壱岐島を南下する元軍を押しとどめることができず、10月15日、最後は景隆の居城である樋詰城で一族ことごとく自害した。
 元軍に殺される者、捕らえられるもの、逃亡の末に海に飛び込んで命を落とした者、壱岐でも多くの島民が犠牲になった。
 
 対馬と壱岐を攻め落とした元軍はいよいよ九州へと向かう。10月16日から17日にかけて肥前国松浦地方を襲撃した。ただ、この松浦侵攻は主要な史料が記さず、松浦が元軍の目的とする大宰府とは反対の方向に位置するため、実際には無かったとする見解もある。
 一方、日蓮は松浦の武士団である松浦党の数百人が討たれるか捕虜になったという伝聞情報を手紙に書き残しており、一部別動隊による松浦襲撃があったのかもしれない。

元軍の博多湾侵攻

 10月19日、ついに元・高麗連合軍が博多湾に姿を現した。
 鎌倉幕府は文永9年(1272)頃から異国警固番役と呼ばれる蒙古襲来に備えた軍役を御家人に課し、防衛体制を整えていた。対馬・壱岐陥落以前から、蒙古襲来の具体的な時期を幕府は商船や渡来僧を通して把握していたと考えられる。
 
 防衛箇所を割り当てられた九州の御家人が一定程度、博多湾岸に集結しており、対馬・壱岐への侵攻の報を聞いて更なる動員がかけられた。  
 しかし、御家人の中には「自らの領地を守る」と述べて出陣しないものもいたという。源頼朝の幕府創設から約80年、幕府に危機があれば御家人が駆けつける「いざ鎌倉」の精神は過去の幻影となりつつあった。
 とはいえ、参陣した御家人たちは源平の戦いや承久合戦を知らない世代である。集結した御家人にとって集まった幕府の軍勢は今までに目にしたことが無い大軍勢であり、自然と士気は高まったのではないか。
 
 10月20日未明、ついに元軍は九州への上陸を開始した。最初の上陸地点についても諸説あるが、早良郡百道原(福岡市早良区百道)と記す史料が多く、有力である。その後、元軍は今津や箱崎にも上陸している。

『鎌倉びとの声を聞く』(石井進著)より引用

 上陸した元軍は早良郡の東端、赤坂を攻撃目標とした。この地は後に福岡城が築かれることになる軍事上の要衝である。
 日本側の司令官の一人である少弐景資は息の浜(博多浜)に本陣を置き、元軍を迎え撃とうとした。赤坂周辺は干潟となっており、馬での進軍が難しいためであったという。
 なお、文永の役の幕府軍の指揮は鎮西奉行である大友頼泰少弐資能が執った。北条一門は九州に下向していなかったから、在地の守護である大友・少弐が中心に対応するしかなかった。ただ少弐資能はこの時、77歳。家督の移行時期で、職務の多くは子供たちが代行していたと考えられる。
 息の浜に陣を敷いた少弐景資は資能の三男である。

陣を敷く少弐景資(『蒙古襲来絵詞』より)
郎党が曳く馬がまとう虎皮の鮮やかな馬具足が印象的

菊池武房と竹崎季長

 戦うに不利と思われた赤坂に布陣した元軍に攻撃をしかける御家人がいた。肥後の御家人・菊池武房が100余騎をもって元軍に襲い掛かったのである。菊池氏は平安時代中期から武勇で知られる名門であったが、壇ノ浦の戦いでは平家方、承久合戦では後鳥羽上皇方に味方したことから、鎌倉幕府の中で恵まれた地位にはいなかった。蒙古襲来は菊池氏にとって名誉挽回、地位向上の機会であり、戦意は特に高かったことであろう。
 元軍は菊池勢の攻撃により、日本の武士から初めて手痛い反撃を食うことになった。菊池勢の猛攻に元軍は赤坂を撤退せざるを得ず、大勢が麁原山(福岡市早良区祖原)へ、小勢が別府の塚原(福岡市城南区別府)へと退いた。
 
 塚原へ退いた元軍を追撃したのが『蒙古襲来絵詞』で知られる竹崎季長である。季長も肥後の御家人で菊池一族であった。しかし、季長は合戦前に一族内の所領争いの訴訟に敗れており、所領を持たない「無足の御家人」であった。経済的に苦しい立場にあり、戦場に連れてきた武士団は自分を含めてわずか5騎。軍勢の体を成さない小武士団であった。
 その5騎で季長以外に氏名がわかっている武士が3名で姉婿の三井資長、郎党の藤元太資光、旗指の三郎二郎資安である。この3名は「資」の字を共通に名乗っており、資光と資安は竹崎季長ではなく、姉婿の三井資長の家来であった可能性が高い。そして三井資長は長門(山口県)の御家人であり、九州の御家人を対象とした異国警固番役を務める立場でもない。このことから、困窮し自前の武士団を構成できない竹崎季長のために姉婿の三井資長が自身の家来を連れて助太刀に来たという可能性が想定できる。
 
 竹崎勢のような小武士団は決して希少な存在ではなく、幕府軍に多数存在したと考えられる。部隊ごとに構成数にバラつきがあっては有機的な軍事作戦の展開は難しくなる。
 師団 - 連隊 - 大隊 - 中隊 - 小隊-分隊というように画一的にピラミッド型に構成される近代軍隊とは全くことなる。モンゴル帝国も十進法区分で軍を編成し、十人隊長・百人隊長・千人隊長・万人隊長を置いたことはよく知られており、これがモンゴル軍の強さの一因であったともいわれる。
 兵数がバラバラの武士団の寄せ集めであることは幕府軍の弱点であった。
 
 いずれにしろ、わずか5騎の竹崎勢は軍を指揮する少弐景資、季長と同族の菊池武房にとって戦力としてあてにできるものではなかったであろう。季長は菊池勢の赤坂襲撃に参加せず、息の浜の本陣に待機させられていた。
 しかし、菊池勢の出陣と勇戦に居ても立っても居られなくなったか、季長は「わずか5騎ではここで待ち受けていても役に立てないので、先駆けの軍功を挙げたい」と景資に出陣を申し出た。
 景資は「戦いが終わって自分も生きているかわからないが、存命していれば貴殿の先駆けの功を将軍に報告しよう」と述べて景資の出陣を許可した。 
 一般的にわずか5騎での行動は効果的な軍事行動をとれるようには思われないが、こうした命知らずな勇敢な行動が評価されるのが当時の価値観だったと言えよう。所領を失っていた季長はまさに命がけで軍功を立てる必要があった。
 敵を求めて馬を駆る季長は、途中、赤坂での戦闘に勝利し、意気揚々と引き上げる菊池武房勢とすれ違った。同族でありながらも両者は初対面であったようで、それぞれ名乗りを交わしている。

有名なあの場面

 季長は鳥飼潟で元軍に追いついた。菊池勢に敗れ塚原へと退いた小勢で、麁原に退いた本隊へ合流する途上であった。しかし、干潟で地盤が弱く、馬が足を取られて敵を取り逃がしてしまった。馬での進軍が難しいから迎撃戦を選んだ少弐景資の選択に合理性があったことがわかる。
 しかし戦意盛んな季長は諦めず、麁原に布陣した敵本体への攻撃を狙った。この時、郎党の資光が「もうすぐ味方がやってくるだろうから、軍功の証人となってくれる人を見つけてから攻め入ったほうがよい」と助言した。軍功の証明も必要だが、わずか5騎での突撃は無謀で、冷静な助言であった。
 しかし、季長はこの助言に耳を傾けない

「弓箭の道、先を以て賞となす。ただ駆けよ」

 現代語に訳すと「弓矢の道(武士の戦い)は先駆けが最も尊ばれる。つべこべ言わずに馬を走らせろ」といったところか。
 竹崎勢をわずか5騎の小勢に過ぎないと見た元軍は反転して攻撃に転じたが、季長もひるまず元軍へと突撃を敢行した。これを描いたのが日本人誰もが歴史教科書で目にする『蒙古襲来絵詞』の有名なあの場面である。

教科書で誰もが知る名場面、竹崎季長の突撃(『蒙古襲来絵詞』より)

 元軍が投げ込む「てつはう」の爆発に季長たちの馬は驚き、その馬の腹部に次々と矢が突き刺さった。「てつはう」とは鉄製、または陶器製の丸い器に火薬を詰め、導火線に火をつけて爆発させると破片が飛び散るという手りゅう弾のような兵器であった。元軍の矢には毒が塗られていたという。 
 「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」である。射られた馬は脚を止め、竹崎季長は窮地に陥った。絶体絶命かと思われたが、そこに肥前(佐賀県)の御家人、白石通泰が100騎余を率いて駆けつけ、季長は九死に一生を得る。

日本軍の辛勝 

 御家人たちが次々と鳥飼潟に集結し、この地は文永の役最大の激戦となった。結果、日本軍の猛攻の前に元軍は麁原へと退却する。元軍の副司令官にあたる左副都元帥・劉復亨も矢傷を負ったという。
 元軍では、赤坂・鳥飼潟方面で戦闘を行ったものとは別の部隊が博多より東方にも上陸したようで、筥崎八幡宮の社殿が戦火により炎上した。しかし、こちらの部隊も博多・赤坂を橋頭保として確保するような有力な戦果は挙げられなかったようである。
 「元軍の集団戦術に日本軍は苦戦した」と理解されることが多いが、元軍こそが日本軍の予想外の抵抗に苦戦したというのが実像に近いように思われる。少なくともこの10月20日の戦闘において、元軍は博多を日本侵攻のための拠点として制圧することができなかった。
 日本側の辛勝と評価できよう。

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