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【いざ鎌倉(18)】平賀朝雅の上洛と平家の反乱

番外編続きでしたので本編の更新は今年初です。
第17回は頼家政権が終わるところまででしたので、今回から実朝政権へと話を移します。

なお前回更新のコラムでは予習的に実朝政権について解説しました。
未読の方は先にお読みください。

実朝政権と北条時政

建仁3(1203)年9月15日、京から源実朝を征夷大将軍に任じる宣旨が届きます。
先代・源頼家と比企氏を排除し、北条氏が支える3代将軍源実朝による政治が始まります。

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源実朝像(甲斐善光寺所蔵)

このとき実朝は数え年で12歳。まだ幼少の実朝に代わり、実質的な政治は乳母夫であった北条時政が執り行うことになります。
そのことを象徴するかのように、10月8日の実朝の元服の儀式は時政の屋敷・名越邸で執り行われました。多数の御家人が名越邸に参集することとなり、御家人の序列の頂点に時政がいることがはっきりと示されました。
頼朝存命時は、「将軍の舅」それ以上でもそれ以下でもなく、政治の実権から遠ざけられていた時政は、この時ついに幕府の最大実力者となったのでした。
ただその地位も親子仲が微妙な娘・政子との協調によって勝ち取ったものであり、政子の意向次第では失われる可能性もある危ういものであることは前回のコラムでも書いた通りです。
翌9日も政所始、御弓始といった儀式が執り行われ、政所別当(執権)となった北条時政が中心となって差配を行いました。

京都守護・平賀朝雅

実朝の政権を発足させた時政は京・西国での反乱を警戒し、対策を取ります。
10月13日、源氏一門の平賀朝雅京都守護に任じられ、京に入ります。
平賀氏は信濃国(長野県)を拠点としていた清和源氏であり、源氏一門に厳しい源頼朝にも信頼されていました。朝雅の父・平賀義信は平治の乱から平家との戦いに参陣しており、将軍家との付き合いの長さも信頼の要因の一つなのでしょう。
朝雅は、母が比企氏の女性、妻が時政とその後妻・牧の方の娘という難しい立場にありましたが、北条氏と比企氏の対立では北条氏に味方しています。
時政は将軍交代による京での動乱を警戒し、信頼する婿の平賀朝雅を京都守護とし、洛中の治安維持を担当させたのでした。

後鳥羽院と平賀朝雅

上洛してきた平賀朝雅を後鳥羽院も厚遇し、「上北面」とします。
院御所の北側の部屋に詰める職員である「北面」は位階が五位以上の諸大夫からなる「上北面」と六位以下の侍からなる「下北面」に分かれます。
教科書でも見る「北面の武士」は一般的にこの「下北面」を指すことが多く、「上北面」は藤原氏の分家など文官からも選ばれる職でした。
朝雅は北面の中でも身分の高い上北面として後鳥羽院に仕えます。
この頃、京の御家人が幕府と朝廷(院)の両方に仕えることは珍しいことではありません。

平家残党の挙兵

将軍交代による動乱を警戒し、朝雅を上洛させた幕府でしたが、懸念は現実のものとなります。
建仁3(1203)年12月から建仁4(1204)年2月にかけて伊勢・伊賀両国で平家の残党が蜂起します。
「伊勢平氏」と呼ばれるように伊勢は平家の元々の本拠です。かつての源平合戦において平家の都落ちで西国に落ち延びなかったものたちを中心に、平家残党が多数潜伏している場所でした。

反乱は平家の侍大将だった伊藤忠清の孫・若菜五郎盛高が伊勢・伊賀守護の山内首藤経俊の館を襲撃したことに始まります。経俊は国外に逃亡し、伊勢・伊賀両国を平家残党が制圧しました。
この事態に幕府は3月10日、京都守護・平賀朝雅に対して追討の命令を下します。
後鳥羽院も3月21日に議定を行い、朝雅を追討使に任命し、さらに伊賀国を朝雅の知行国として国内の軍勢督促と兵粮米徴収の権限を与えました。
こうして平賀朝雅は院と幕府、双方から命令を受け、出陣することになります。

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり

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平氏の家紋「揚羽蝶」

京を出陣した平賀朝雅は平家軍が守りを固める鈴鹿方面からの攻撃を回避し、近江から東の美濃へと迂回し、尾張から伊勢へと攻め入ります。
4月10日から始まった戦いは平賀朝雅率いる幕府軍が連戦連勝。
12日には反乱はほぼ鎮圧されました。
実質的な戦闘が3日間で決着したため、この反乱を「三日平氏の乱」といいます。
平清盛の義弟・平時忠が「平家にあらずんば人にあらず」と言ったとされるときからおよそ30年。
平家による幕府への組織的な反乱は歴史上これが最後となりました。

平賀朝雅の栄達

6月、幕府は三日平氏の乱の賞罰を下します。
伊勢・伊賀両国を捨てて逃亡した山内首藤経俊は両国の守護職を解任され、討伐に当たった平賀朝雅が新守護に任じられました。
11月、後鳥羽院も朝雅を右衛門権佐という官職へと昇進させます。
これで平賀朝雅は幕府の役職としては京都守護・伊勢守護・伊賀守護を兼務し、朝廷の役職としては伊賀国知行国主、右衛門権佐、上北面の院殿上人という御家人としては破格の地位を得ます。
平賀氏は確かに源氏一門ですが、本来、これだけの抜擢を受けるような名家ではありません。朝雅は、北条時政の娘婿という立場を足掛かりとし、権勢を誇る立場へのし上がりました。
信濃源氏で信濃・武蔵を基盤としていた平賀氏はこれにより畿内周辺へと権力基盤を移します。
比企氏の滅亡と平賀氏の上洛により空白となった武蔵国には北条氏が入り込んでいくことになりますが、このことが再び幕府内の争いの火種となるのでした。

次回予告

次回は「実朝の婚姻」です。
なお朝雅が就任した京都守護は、後に権限を拡大した六波羅探題が設置されて廃止されます。

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