【異国合戦(24)】蒙古軍の撤退を考える
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蒙古軍の撤退は暴風雨が原因か
10月20日の戦いは上陸してきた元・高麗軍の猛攻を防ぎ、軍事的に価値のある橋頭保を確保させなかった日本側の辛勝であった。かつて歴史教科書は「文永の役は1日で終わった」と子供たちに教えてきた。優れた研究者の著作も「元・高麗軍は一夜で姿を消した」と記した。つまり、この20日の合戦で文永の役は終結したとの見方が常識であった。
しかし、これまで世界各地で戦争を繰り返してきたモンゴル帝国(大元)が、相応の準備をしてわざわざ海を越えて戦争に乗り出していながら、わずか1日で撤退するなどということがありえるだろうか。繰り返すが日本側の辛勝であって、元・高麗軍が戦闘不能となるような大敗を喫したとは思われない。
それなのに元・高麗軍が撤退したのはなぜかという理由として、その夜に暴風雨があって大打撃を受けたとよく説明される。
京にいた貴族の広橋(勘解由小路)兼仲は日記『勘仲記』に「ある人が言うには数万艘の凶賊の船は突然の逆風で帰国した」と記し、朝鮮側の『高麗史』も「たまたま、夜、大いに風吹き雨ふる」と記すから元・高麗軍が暴風雨にあったのは間違いなさそうに思える。
長くこの暴風雨は台風と考えられてきたが、昭和33年に気象学者の荒川秀俊氏が「文永の役の終わりを告げたのは台風ではない」という論文を発表し、衝撃を与えた。荒川氏は文永11年10月20日が現在の暦で11月26日にあたり、過去50年の気象統計上、この時期に西日本に上陸した台風はないと指摘したのである。
一部の歴史学者らは荒川説に台風はなかったかもしれないが大雨、強風はあったのではないかと批判を加えたものの、荒川氏は冬の日本では北西の季節風(元・高麗軍にとって逆風)が吹くのは常識であり、軍議の中で季節風が強くなる前に自発的に撤退を決めたにすぎない。多少の風雨はあったかもしれないが、暴風雨と大仰に考えるのはいかがなものかと再反論を加えた。
たしかにこの後の弘安の役の戦場となった長崎県松浦市鷹島ではモンゴルの沈没船が発見されているが、博多湾では沈没船は今日まで発見されていない。モンゴル軍の撤退理由が暴風雨ではなかった一つの証拠といえるだろう。
現在、嵐を理由とした元・高麗軍の撤退を支持する研究者はほとんどいない。嵐については撤退理由ではなく、自主的に撤退を決めた帰路の外海でたまたま遭遇したと考える説が有力と見なされている。
『八幡愚童訓』とは何か
嵐が撤退理由でないならば、わずか1日で元・高麗軍が撤退した理由をどう考えればよいか。
20日夜に元・高麗軍が撤退したと記すのが『八幡愚童訓』である。ただこの書物は「八幡神がいかに偉大であるかを愚かな童でも理解できるように」と書かれた宗教書であり、八幡信仰の宣伝書である。史料としての取り扱いには注意を要する。
『八幡愚童訓』のストーリーでは白衣の神兵が筥崎宮(日本三大八幡の一つ)から現れて矢を射かけ、恐怖で我を失った蒙古兵は退却したとなる。これが荒唐無稽な話であることは誰にでもわかるが、こうした不思議な話は自然現象と結び付けられやすい。なので、神兵の矢とは暴風雨=神風のことだろうと解釈され、10月20日夜に神風が吹いて元・高麗は撤退したという説を多くの人が頭の中で組み立てた。
ただ、幕府の『関東評定伝』には10月24日に大宰府に押し寄せた元・高麗を幕府の御家人が撃退した記事があり、10月20日以降も戦争が継続していたことを記す。戦前に陸軍少将の竹内栄喜という方も指摘しているが、万を超える大軍が上陸するにも撤退するにしても数日を要すると考えるのが妥当で、やはり10月20日に元・高麗軍が撤退したとは考えられない。
これも八幡神の偉大さをアピールするがあまり、わずか1日で追い払ったという話に捏造されたと考えたほうが良さそうである。
『八幡愚童訓』への批判も進んでおり、現在は文永の役が一日で終結したと考える説は支持を失っているというのが現状だ。
なお、蒙古襲来において武士が名乗りを上げて一騎打ちを挑み、元・高麗軍の嘲笑を買ったという有名な話を載せるのもこの『八幡愚童訓』である。
『八幡愚童訓』のストーリーラインでは、元・高麗軍を退けるのは武士の奮戦ではなく、八幡神の神威でなくてはならない。なので、武士はひたすら愚かな存在として書かれる。役立たずの武士に代わって八幡神が元・高麗軍に勝利するというわけだ。
ただ、言うまでもなく武士とは単なる野蛮人ではない。この時代の武士団の長ともなれば身分ある教養人である。モンゴル人が自分たちと異なる言語を話すことは当然多くの武士は知っていただろう。無意味な名乗りを上げて一騎打ちを挑んだという有名な話も事実かどうか疑ってかかるべきだ。
文永の役の終結
最後に10月20日以降の文永の役の流れをもう一度整理しておきたい。
前日に博多湾に姿を現した元・高麗軍は20日未明に上陸を開始。ここまで対馬、壱岐をあっさり制圧してきた元・高麗軍であったが、襲来に備えていた幕府軍の予想外の反撃にあい、攻略目標である大宰府に至れず、橋頭保となる軍事上の要衝を抑えることもできなかった。
24日になって元・高麗軍は再び大宰府攻略を目指すがまたしても失敗。日本の武士の頑強な抵抗で戦線の維持が難しくなり、さらには北西の季節風が吹くと撤退が困難になることから元・高麗軍は撤退を決断する。その帰路で嵐に遭遇し、被害を受けた。
文永の役の戦闘についてはこのように考えるのが最も矛盾や疑問点が少なくなるように思われる。
戦前の日本、昭和初期には蒙古襲来の勝利における神風と大和魂が戦意高揚に利用された。しかし、戦後になるとその反省からか蒙古襲来における鎌倉武士の勇敢さと強さを声高に唱えることは憚られるような風潮が生まれた。
文永の役における日本の勝利の要因を嵐に求める意見や、元・高麗軍は予定通りに撤退したにすぎないとする意見もいまだ少なくない。つまりは鎌倉武士の戦いぶりを認めたくない研究者はいまもいる。
しかし、『蒙古襲来絵詞』という一級の史料は鎌倉武士の勇戦を十分に物語る。
実戦経験を失っていた鎌倉武士にとって容易ではない戦いであっただろう。「てつはう」のような未知の兵器や戦術にも苦しんだ。それでも鎌倉武士は勇敢に戦い、その頑強な抵抗を前に元・高麗軍は撤退を決断した。
私はそのように考えたい。