パトリス・ルムンバ名称民族友好大学の深謀
パトリス・ルムンバ氏を知ってますか?
1960年、ベルギー領コンゴは、宗主国のベルギーから独立します。
独立運動のリーダーで、初代首相になったルムンバ氏は、「新生アフリカの希望の星」と称えられますが、複雑な権力闘争に巻き込まれて、1961年1月17日に35歳の若さで謀殺されてしまいます。
当時、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国から留学生を受け入れて、社会主義思想と社会主義経済の教育を植え付け、社会主義を世界中に広めたいと考えたソ連邦政府は1960年に設立された留学生受け入れのための大学に、ルムンバ氏の名前を冠します。
約60カ国から600人以上の学生が受け入れられました。
世界中からやってきた留学生の中には、薄地のシャツ・パンツ・ズック靴でやってきた若者もいました。
マイナス40度にもなるモスクワの冬は越せません。
冬用の長靴、防寒帽、外套が支給されます。全寮制で4人部屋、三食付です。
大学は五年制で、最初の一年はロシア語教育だけ行われます。
1年間で、大学がロシア語で行う専門課程の授業について行けるだけのロシア語をマスターしなければなりません。2年目からは、法律、経済、医学などの各専門学科に分かれます。
地獄のロシア語教育
1年目のロシア語教育は徹底していました。
1クラス教師1人に生徒4人、朝から寄宿舎に帰るまでロシア語しかしません。毎日、単語の宿題が300語出ます。
勿論、一度では覚えきれないので、重要単語は繰り返し出てきます。
二日酔いで寝ていても、生徒は4人ですから、出欠を取るまでもなく、教師が起こしに来て教室に引きずっていきます。
寮に帰ると4人部屋の住人のうち2人はロシア人学生ですから、そこで寝るまで、ロシア語で話をすることになります。
同室のロシア人学生にとっては、その留学生が話す母国語(スペイン語、フランス語、日本語、朝鮮語など)の外国語大学のような位置付けがなされていました。
そして、6ヶ月ほど経過したある日、突然モスクワ放送局のニュースが理解できていることに気がつきます。耳に詰まっていた栓がポロリと落ちたような感覚だそうです。
それから次の4年間、各学科の授業をロシア語で受ければ、ロシア語は彼らの第2の母国語になります。5年間の生活費、授業料はすべてソ連邦政府が負担します。(どうしてそこまで???)
やがて真意が明らかになります。
そして、ペーチキンがやって来た
アジア、アフリカ、ラテンアメリカの発展途上国に帰れば、その国内では数少ない外国の大学卒業生で、もともと選抜されて送り込まれた優秀な素質にも恵まれて、その国では政府の要職につくことが約束されています。
外務省などでかなりの地位についたころ、ロシア大使館から電話がかかってきます。
「やあ、元気? ルムンバ大学で同室だったペーチキンだよ!」
かくして、その国の外務大臣とロシア大使館の親密な交際が始まるというわけです。
ペーチキン氏は、その国の言語にも堪能なわけです。
こうして、10年、20年先を見据えたソ連邦政府の目論見は滑り出しました。
わが国は今・・・
翻って、わが国の外務省で、このような遠大なプロジェクトが考えられたことは、あるのでしょうか。
明治時代の政府には、西欧諸国に追いつけ追い越せの強い意志と明確な展望があったように思えます。
現在はどうでしょうか、やや薄ら寒く感じるのは私だけでしょうか。
日本国政府が、アセアン諸国に、何百億円もの有償、無償の援助で外交関係を維持しているのを見ると、「その百分の一の予算で、深い絆を築けた例もあったな」と考えてしまいます。
官僚の用意したメモを棒読みしている各大臣の国会答弁を見ていて、「はて、民主主義とはこんなに効率が悪く、コスパが悪く、短期的視野の体制だったのか」と考え込んでしまいます。
現在、ルムンバ大学は、ロシア諸民族友好大学と名前が変わり、何万人もの学生が学ぶ巨大組織になっています。プーチン首相の娘マリアも在学していました。
そしてそこには、日本人留学生の姿は見当たりません。
「日本はもはや発展途上国ではない」というのは表向きの理由ですが、「日本人留学生が日本に帰っても、政府の要人になることがない」という事に気付いたのと、日本人留学生が日本に帰国後、ソ連邦共産主義に懐疑的な本を出版したりした事があったようです。
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