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弟が死んだ日-水曜日-

この日、私のこれまでの日常が壊された。



私はその日も午後からの勤務だった。 

昨晩は3時ごろに寝たにもかかわらず、朝の7時過ぎには目が覚めていた。

何をするでもなく、ただボーッと天井を見ていた。




10時30分ごろ母から、警察に捜索願いを出しに行ってくるとの連絡があった。

母が警察にいた時間はおそらく2時間ほど。
11時から13時頃まで話を聞かれていたようだった。

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A町は、バイト先とは真逆の方向だった。





なんで?どうしてA町?
A町は家を出て、すぐに反対方向へ行かなければ行くことができない。家を出る時はもうすでに覚悟を決めていたのか…。

もしかして、誘拐されたのか、なんて事も考えた。
20歳そこらの男性を誘拐なんて、いくら弟がひ弱でも、顔が幼くても、考えにくいが、ありえない可能性ではないかもしれない…。


色々な考え浮かんでは消えていく。
しかし次の瞬間

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心臓が止まるかと思った。

冷たいスプーンを心臓に突き刺されたような、そんな感覚。
息を呑む、という表現が当てはまるのか、体が硬直した。かと思えば、ありえないぐらい心臓がバクバクと鳴り出した。

自分の体から、感情や感覚が全て切り離されたように、現実味がなかった。1分、1秒が、数億倍長く感じた。




今までの疑念が確信に変わった瞬間だった。





警察によれば、その道路公園は自殺の名所であり、普段から近所の人が、放置バイクや車をよく見回りするとの事である。

崖に打ち付けられているから、顔が判別できないとの事で、これから、崖の下の遺体を解剖して、弟かどうか確認するそうだ。




もはや、仕事どころではなかった。
頭の中はパニックに陥っていた。死んだのではないか、自殺したのではないか、この3日間、ずっと考えていた事ではあったが、いざ、そのことが、事実として突きつけられると、どうしても認めたくなかった。




社会人になって3ヶ月、早退なんてしたことがないし、誰に何を言っていいのかわからない。
母からは、まだ弟だと決まったわけではないから、帰ってこなくてもいいと言われたが、こんな状態で仕事ができるほど私のメンタルも強くはない。


悩んだ末に、いつも優しく話を聞いて下さるパートのおばちゃんに「早退したい時はどうしたらいいんでしょうか?」と相談した。


「具合が悪いんですか、大丈夫ですか?」と聞かれたが、咄嗟に言い訳が思いつかず、「弟が死んじゃった?かもしれなくて」と正直に口にした。

その瞬間、自分でも驚くほど、ボロッと涙が溢れた。


そこからは堰を切ったように涙が止まらず、過呼吸になる私を、パートのおばちゃんは、周りから見えないところに移動させ、優しく肩を抱きながら話を聞いてくださった。

嗚咽混じりに、途切れ途切れになっている私の話を「うんうん」と頷きながら聞いて下さり、「早退しよう」と言って下さった。


が、しかし、何故か私はそこで素直に頷かず、「このまま働きます」と言って仕事に戻った。

『まだ弟かわからないし、弟じゃないかもしれない。』

もし違ったら、仕事に穴をあけるわけにはいかない、早退して怒られるのが怖い、そう思った。



我ながら、何をしていたのだろうと思う。弟がいなくなったと聞いた時点で休めばよかった、すぐに探しにいけばよかった。




パートのおばちゃんが上司に相談して下さったおかげで、「そんな時はすぐに帰っていい」と言われ、結局私は2時間ほどしか働かずに仕事を切り上げた。


この日は、職場から実家に直行するつもりで荷物を車に積んでいたため、数日分の荷物を持って、そのまますぐに実家に帰った。



喪服は、持っていかなかった。



車を運転しながら、弟の事を思い出しては、ボロボロと泣いていた。最近の弟の様子、小さい頃のどうでもいい出来事、なんで、どうしてという思考の渦。
嘘であってほしい、夢であってほしい、何度も何度も何度も考えた。



道中、耐えきれず姉に電話をした。もうこの時は何を話したのかも覚えていない。ただただ、どうしよう、と泣いていたように思う。人間こんなに涙が出るのかと言うくらい、一生分泣いた気がする。


一人暮らしの家から実家までは車で約2時間。こんな状態でよく運転して帰ったのものだ。事故らなくて本当によかった。









実家に着くと、カーテンを閉め切った真っ暗闇の部屋の中、母が1人で座っていた。私が家を出て行ってから変えたらしい洗剤の香りが部屋に充満していた。
私はこの匂いを嗅ぐと、今でもあの日を思い出して胸が苦しい。



母は、私が思っているよりは普通に見えた。
私が声をかけると「帰ってきたの」と特に驚くでもなく、呟いた。そして、警察での出来事を詳しく話し出した。



解剖は明日だが、結果次第ではその後もDNA鑑定が必要になるかもしれないとの事であった。
いつも通りに見えていたが、話し始めると止まらず、あっちこっちと、まとまりのない話を始めている。



そして弟が最後に家を出た時の事を聞いた。


弟はバイトに遅刻しそうな時間に出ようとしていた、そして玄関先で何度も母に「行ってきます」と言っていたらしい。母が「遅刻するから早く行きなさい」と声を掛けると、わざわざ履いていた靴を脱いで母の顔を覗き込み、「いってきます」と、ニコッと笑ったそうだ。





それが、弟が家族に見せた、最後の笑顔だった。




母はその話をするとボロボロと泣き始めた。
弟が帰ってこない3日間、もう十分すぎるほど1人で泣いたのだと、最後に笑顔を見られてよかった、あの時覚悟していたのかもしれないと、数日前に弟を厳しく叱ったからそれが原因だったのか等、母の後悔が止まらなかった。
私は母の話を聞きながら、泣くのを堪えていた。





「弟を探しに行こう」





私はそう言って、母と家を出た。
弟が万が一帰ってきた時のために、付箋にメモを残した。

『〇〇、おかえり。みんな心配してるよ。
今から出かけるけど、もし帰ってきたら、家にちゃんといてね。
冷蔵庫にマグロ丼があるから、お腹空いてるだろうし、ちゃんと食べるんだよ。』


付箋に、そう書き残した。
書きながら、涙が出た。





遺体があったらしい公園を目指したが、母の警察での記憶が朧げで、そんな名前の公園はなく、おそらくこの辺りではないか、という目星をつけて向かった。


その道は山を登る形になるが、海沿いにあり、とても景色が良いドライブコースとなっていた。そのため、途中で車を止めて、景色を眺められる公園や駐車スペースが何箇所かあった。


車が止められる場所があるたびに、弟を探した。
お店があればそこで弟を見かけていないか聞き、人が踏み入らなそうな藪の中に入って行ったり、崖の下や茂みの影など、弟がもしかしたらどこかで苦しんでいるのかもしれないと、バイクを盗られて途方に暮れてその辺を歩いているかもしれないと、とにかく手当たり次第に探した。



その間、1匹の鷹が、何故だか私達の行く場所、行く場所に現れて、こっち見ていたのを不思議と覚えている。
今では、あの時の鷹は、『もしかしたら弟が早く見つけてくれって言ってたのかもしれないね』と母と話をした。




結局、暗くなっても弟は見つからなかった。




母の話が支離滅裂であったため、詳しく状況を知るために、帰りにそのまま警察署に話を聞きに行った。


警察署では、担当の刑事さんが対応して下さった。

今のところ、弟のバイクがあった場所の近くの崖の下に、男性の遺体があった事。
このような場合、遺体を特定するためには時間がかかり、指紋やDNAなどではないと、持ち物だけでは判断できない、とのことである。

遺体を発見したときの状況が第三者の介入があったかどうかわからない状態で発見をされている、身元も今のところ特定ができてない状況のため、司法解剖という形で確認する予定で準備をしている。


警察の人は、順を追って、ゆっくりと丁寧に整理しながら話を進めていく。
色々な方法で特定を試しているが、司法解剖でも判断できない場合は父と母のDNAを提供してほしいとのことである。
親子関係の特定がされたら確定できるそうだ。


父が遠方にいるため、すぐにDNAを提供できるかわからない、弟だと確証が持てなければ休みが取れないかもしれない事を伝える。
すると、警察の人から、『実は…』と話を切り出し、母が警察署に来た後に、遺体の胸ポケットから弟の免許証やマイナンバーカードが見つかった、と話があった。



おそらく、『そう』である、可能性の方が高い、と。




そして遺体が見つかった場所についても、詳しく教えてくれた。遺体が身につけてた物の中に、弟が当日身につけていた帽子やメガネ、靴が見つかっていないらしいが、とても歩いて降りられるような崖ではないらしく、捜査員も危険なため探すことができないとのことであった。



もし弟だと確定した場合は、学校やバイトでの弟の様子、生活状況を詳しく聞くことになると説明されると、母は、弟のこれまでの生活についてや状況をノンストップで話し出した。私も母の話を補足する形で話をしたが、涙をずっと堪えながら話していた事を覚えている。

人間、こんなに感情が抑えられないとうまく喋れないものかと驚くほどに、声が出なかった。
涙で言葉が詰まりながらも何とか説明した。



母も私もずっと声が震えていた。



ひとしきり話し終えると、改めて今後のことについて説明を受け、警察を後にした。




99.9%弟であると思ったが、残りの0.1%にかけたかった。僅かな希望で、弟の衣類を誰かが剥ぎ取ったのかもしれない、性懲りも無くそんな事を考えていた。



家に帰り、玄関に弟の靴がないか、部屋のどこかに隠れていないか、冷蔵庫に残したマグロ丼が減っていないか、弟が帰ってきた痕跡を探した。

そして、母と2人、電気もつけずに過ごしていた。

何をして、どうやって過ごしたのかも覚えてないくらい、いつ寝たか起きたかも朧げだった。

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