子どもに教えてもらっている話。
今朝、次男が保育園の門のところで盛大に転けた。
転けたらいつもはどうしようか考えてから泣くのに、
今朝の転け方は考える間も惜しいくらいにすぐに泣いた。
あ、これは泣くな。とわかるくらいに大きな音を立てて転けた。
幸いにも大きな怪我もなく出血もなかった。
彼はよくこける。
明らかに長男より転けていると思う。
そのためか、彼は度重なる経験を積み、転け方を習得したように思う。
顔に傷を負うことは減ってきた。
出鼻を挫かれたからか、なかなか自分の教室に入っていけない次男。
クラスのみんながどうしたの?と寄ってきてくれる。
いつも明るい次男なのでみんな心配してくれていた。
(本当に優しく積極的に人に関わりにきてくれるクラスなので、途中から入園した次男も救われた)
しかし、今日の次男は違う。
盛大に転けてしまったことと、みんなの前で泣いていることなどの要因により、しばらくわたしの腕の中だ。
なんだったらこのままお家に帰りたいとすら言いそうな雰囲気だった。
先生が察してか、みんなを教室の中へ戻してくれた。
わたしは「痛かったけど、大きな怪我はしていないね。よかったね」と言った。
でも彼は「でも痛い」と言った。
幸いにもその日はわたしにはまだ時間があったので、落ち着くのを待つことにしてみた。
クラスのみんなが朝の歌を踊りながら歌っている。
すると次男が「これはこの前ディズニーランドで聞いた歌だよ」
と教えてくれた。
これは切替えつつある傾向かな?と思い、痛いという足の現状確認をもう一度した。もう大丈夫そうだった。
「ズボンが長くてよかったね。」と言うと、
「ここ(ひざ)の穴をママが直してくれててよかった。」と言った。
わたしの貧乏性が役に立ったようで良かった
そして、彼は教室へ一人でトボトボと入って行った。
いつものニコニコ笑顔ではなく、少し恥ずかしそうな顔だったけど、
うまく切替えられたことにわたしは安堵した。
そして、先日の長男の「折れない心の話」を思い出した。
(前回の記事参照)
わたしは長男の言葉に驚くばかりに、その通りだと思った。
まずは折れなければ良いと思った。
子どもは転けなければ良いし、怪我をしなければ良いと思った。
でも、きっと親の役目は転けた後のケアな気がする。
怪我をしてしまった時のケアが大事な気がする。
そうやって先回りして声をかけるのがいけないって何かで言ってたような気もする。
そういえばわたしはいつも先回りして声をかけてしまう。
わたしは長男にも折れなければ良いと思わせているんじゃないかな。
でも、折れても良いんだ!
折れた後に、もう一度立ち直す力が必要なのだと何かで言ってたんだ。
家に帰ってすぐにその話をしたら、「うん、それは知ってる。そういう意味で言ったから」と言われた。
興奮気味のわたしに引いてたと思う。
やっぱりまたわたしはお喋りが過ぎたようだ。
アドバイスの面したお説教や説得や強要はしないって決めてたのに、
またやってしまっている。
しかも、よく考えれば長男はちゃんとわたしに説明してくれていたのに、自分の前回の記事を読み返してやっと理解した。
子どもってたくさんのことを教えてくれる。
外を歩けば、綺麗な花が咲いていることも教えてくれるし、
遠くの空にワシかタカみたいな鳥が飛んでるのを見つけてどこへ飛んでいったのか教えてくれる。
公園で遊んでいたら芝生の上に寝転がって空を見上げて最高だと教えてくれる。
彼らには大人が教えなくとも、ちゃんと自分がどんな時に心地良く感じるのかを知っているっぽい。
勉強になります。