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中国への他火(たび)

 今日は澁澤さんの最初の中国の他火(たび)のお話です。
42歳でハウステンボスをやめられましたが、やめたは良いけど、何をやるかは全然わからなかったそうです。42歳で自分の方向がどこに向いているのか、あるいは何が天命なのかというのは全く分からなくて、澁澤事務所が丸の内にあって、行ってはみるけど、新聞を読んだらもうすることがなくて、とにかく一日中蕎麦屋で昼間から酒を飲む生活が約1年ほど続いたそうです。
そんなことをしているうちにお金はなくなり、友人から「中国の国営企業の立て直しをしないか」という話を持ち掛けられて中国に向かわれます。
中国は共産主義国家なので、大きな企業は国が経営していましたが、内陸部の国営企業は破綻寸前のものが多く、立て直すために行かないかと誘われました。
その時の澁澤さんの立場は、ハウステンボス経営の経験と、地域とかかわりのある経営というノウハウを持っていらしたことに加え、澁澤という名前が、中国で信用されました。
天安門事件の5年後くらいで、西欧社会のビジネスなんて、上層部は知っていたが、国民はイメージすら持っていない時で、中国は新しい時代をつくりたいと望んでいた。
特に内陸部、澁澤さんが行った烏海(ウーハイ)という内モンゴル自治区の砂漠の中の黄河沿いの町は石炭がたくさんとれたので、石炭から化学原材料を作る工場がありました。「その工場をどう立て直すかといっても、石炭化学なんて全く分からないけど素人の自分で良いの?」と思っていたそうです。ところが、行ってみると、まず、私たちが銀行にお金を預ける時に「金利」というものがあります。その金利によって銀行は利益を上げていくわけですが、まず、金利がないので、「金利」という概念が分からない。まさにベニスの商人の話と似ています。モンゴル族にとっては、貸し借りは当たり前、謂わばシェアーの世界で、利息なんて取るのは「悪だ」と思っている。お金を借りて金利を払いながら、企業経営をしていかなければいけないということから、わからせなくてはいけない。
会社を経営するということを知らないから、会社が開くと家族全員でやってきます。石炭化学なので、石炭がいっぱいある。まずは、自分の家でその日燃やす石炭を子供たちはバケツ一杯家に持って帰る。お父さんは働いて、お母さんは工場の炊飯部だとか、購買部だとかでお料理を作ったり物を売ったりしている。子供たちは帰ると工場の中にある保育所に通う… つまり自分たちの普通の生活の延長が国営企業。公私を分けることができない。取り放題だし、金利もない、減価償却というか、機械が古くなるという概念もない。当然帳簿はお金がいくら入ってきていくら出ていったという大福帳しか残っていない。これでは、持続的な経営は難しいし、「機械が壊れたらどうするの?」と聞いたら、共産党に頼めばよいと。自分たちがやることという意識が全くない。というわけで、『自分たちの経営を自分たちでやっていくんだという意識づけ』みたいなことが澁澤さんの役割でした。
その当時は日本も会社に入ったら、運動会といえば家族全員でやってきて、会社の中で働いて、定年になるまでそこにいて、定年になったらOB会に入るという時代でしたし、今でもそういう会社はあります。なので、中国から見たときに、近代的な資本主義のシステムを学ぶのに、当時の日本はものの考え方も近くて、一番学びやすかったのでしょう。そこで、日本から信頼できる人を呼んで意識改革をして、現状を整理していただこうというので、澁澤さんは中国の内モンゴルへと赴きます。
実は、澁澤さんが最初に中国に行かれたのは1975年のことでした。まだ大学院の学生の時に仕事でアフリカのエチオピアに行くことになったのですが、その当時エチオピアに入るには、中国からしか飛行機が飛んでいなかったので、何日か北京に滞在して、エチオピアの飛行機が出発するぞと言ったら、それに乗るという時代だったそうです。
まずは、その当時の中国のことです。
とにかく印象に残っているのは、食べ物がおいしかったこと。なぜかというと、そのころはすべてが有機野菜だったから。化学肥料なんてありません。全部その土地でできたもの。農薬も化学肥料もやらずに作った野菜は、うまみが全然違ったそうです。ところが、1990年代には、化学肥料漬け、農薬漬けの野菜しか出てこない。1970年代は共産主義、文化大革命のど真ん中で、いろんな制約もあったし、お会いする要人の方々はとても権威があり、とても見識があり、さすが中国三千年の歴史といわれる、まさに孔子の国の中国。文化大革命が進んで、天安門事件に行き、その寄り戻しがあったそのあとくらいが20年後の中国なんですが、その変わりようはものすごかったそうです。
国民すべてが紅衛兵になって、どんどん既存のシステムだとか、既存のものを壊していき、政府の人たちも学問の要人たちもみんな追放されて、紅衛兵たちの国になっていました。それは国民の怒り以外のなにものでもなく、怒りの原因は、昔の中国の格差社会への不満が大きかったようです。現在に例えるなら、コロナでみんながストレスというか、強烈な閉塞感がありますよね。それと同じように、『あいつらがコロナの閉塞感を作っている。ちゃんと政治をしないから、役人たちも政治をしないで賭け麻雀なんかやってるから、こんな国になったんだ』といって、その当時の上層部、例えば国会議員や高級官僚たちを、みんな追放してしまった。そうして自分たちの国になったのは良いけど、じゃあどうするかといったときに国をどう動かしていくかとか、統治していくかというと、ノウハウがない。そこに、鄧小平が中心になって資本主義を入れ始めた。毛沢東の共産主義の延長ではだめだと。資本主義を渋沢栄一がこの国に持ち込んだ時のように、お金の前ではみんな平等だから、身分なくみんなで平等な国ができるんだと思って、資本主義というお金を中心とした国に変えた。そうしたら、メーターが反対に振れて、今まであんまり共産主義でギューッと押し付けられていたものが、急速に拝金主義に変わった。共産国家でありながら、国民は全員が拝金主義で、お金と家族、老友人(らお・ぽんゆう、信頼できる友人)しか信じない国になってしまったんです。その代わり、銀行も信じない。人にお金を預けたらとられてしまうと、皆が思っていた。つまり、社会システムも商習慣も信じない国になった。その時の共産党の幹部の人たちと話をしたら、日本は資本主義国家だけど社会主義国家だといっていた。戦争に負けた翌日から、国の制度である郵便貯金(その当時は郵政公社でした)に預金するのは、日本人だけだ。日本的社会主義を学びたいと。こちらも、日本のシステムがこれからの中国には一番合ってると思うと話したので、証券取引所なども、日本のシステムをまねて、資本主義を導入していこうという機運の時だった。それは大きな価値観の大きな変動の時だったと思う…と、澁澤さんはおっしゃいます。
ハウステンボスをやめた一年後に中国を訪れた時、日中間は国交正常化と言えども、日本はアメリカに触れてみたり中国に触れてみたりしていたので、政府対政府はまだぎくしゃくしていましたが、中国では「交流」といって、民間レベルでのお互いのビジネスを通した共同作業みたいなことを受け入れようとしていました。そんな時の「澁澤」という名前は、中国から見たら、使える名前だったようです。誰もが納得する名前でした。
そうした背景があって、実際に中国での仕事の現場に向かいます。
そのころの中国はハチャメチャだったけど、澁澤さんにはとても肌があったそうです。それは、誰もシステムなど信用していないというところです。銀行にお金を預けるなんてありえない。中国ではレンタカーは絶対に無理だと誰もが言ってます。借りたらのっていってしまうし、国が広くてつかまらないし…と。例えば日本だったら変な商品ができたら、その商品を作っている会社が非難されるし、ちゃんと取り締まらない国が非難される。それが当たり前。中国は、買ったやつがアホだという国です。
また、澁澤さんと一緒に中国に行かれたご友人の小さな事務所が北京にあって、その事務所をもう少し大きなところに引っ越そうということになった。その当時、自由と言えども、中国側の受け入れが決まっていないと受け入れてくれません。当然色々調べられた上で、その時の受け入れ窓口は、軍の参謀本部でした。その参謀本部の連中と飲んでいた時に、「新しい事務所に引っ越さねば」という話をしたら、「それはいつだ」というので、「いつでも良いんだけど」というと、「じゃあ何月何日にしろ」と勝手に向こうで出来上がっていて、その朝、事務所に行ってみたら、事務所の前に軍のトラックが10台くらい並んでいて、それぞれに兵隊が20人ずつくらい乗っていて、それがワーッと降りてきて、うちの事務所の中のものを全部持って行って、新しい事務所に寸分違わずパーッと整えてくれて、私たちは唖然としながら、横で白酎(パイチュウ)という焼酎を飲んでるだけ… 老友人なので、当然、お金もとられない。そんなことが当時の中国では当たり前のことでした。
そういう国の国営企業に西洋型の資本主義のモラルだとかものの考え方を教えてくれと言って派遣されたわけです。それは言葉でいえば「意識改革」「人間教育」ということかもしれないけど、今にして思えば、西欧社会の人間に触れさせようくらいのこと。要するに、江戸時代にペリーがやってきたときの日本人と同じような感覚だったのではないかと当時を振り返られていました。
そして、いよいよ現地では…
まず驚かれたのは、国営企業のゲート。最初にいきなり刃渡り20㎝くらいのものすごく良く切れるナイフを一人1本ずつ、仕事の話もしないうちに、挨拶がすんだらすぐに、渡されたそうです。護身用に持っておけと、盗賊が来ると当然思って、このナイフで身を守るんだと思っていました。すると、『まずは食事をしましょう』となって、食堂に行きます。その時の日本の調査団は5人、そして、その見張りを兼ねた中国共産党の人たちが7~8人、あとは内モンゴルの工場の人たち。モンゴル族から見ると、漢民族の共産党幹部とわけのわからない日本人というのは異質な人間ですから、誰も信用しない。結果、いつも共産党の人たちと一緒に食事をしたり、行動を共にすることになります。
昼になると、羊が一頭ボンと出される。『あんたたち、これでどうぞ食事をしてください』といって、目の前に丸々皮を剥いで、塩ゆでにされた羊が一頭置かれるわけです。そのナイフというのは、お箸と一緒。それで、好きなところを切って、さばいて食べてくださいと。まず、最初に脳みそを私に食べさせてくれる。ある意味では、最大級の歓待です。食事が終わったからナイフを返そうとすると、それはずっと持ってろと言われます。マイナイフです。
夜になると、夕食では昼に残った羊が、今度はしょうゆと香辛料で味付けられて、またそのまま出てくる。そのナイフでまた食べる。夜はコウリャン酒といって、アルコール75度くらいの火がつく、濃い焼酎のようなお酒が4合瓶で一人1本配られる。そのお酒で、脂っぽい羊の脂を溶かしながら食べる。
翌朝は、さらに残った骨とゴロゴロの部位がコウリャンと煮た雑穀粥になって出てくる。
これが、あなたたちの一日分の食料ですよと言ってボンと出てくる。ようするに、羊1頭が、中国人と私たち日本人合わせて14~15人分の一日分の食糧なんです。これは特別なのかと思ってみていると、モンゴル人たちも同じものを食べていました。365日羊だけ。野菜も何もなく。内モンゴルは乾燥しているので、現地にいると匂いはわからないけど、飛行機に乗った瞬間、みんな羊でした。
そこで、「羊が何頭子供を産めたか=何人生活できるか」だということが分かってくる。
羊の出産が少なかったときは、町に出稼ぎに行く…それは、日本の里山や田舎と同じということを教わったんです。羊の群れが里山なんです。
それは、先回お話した、三内丸山遺跡の周辺の栗林と同じだし、中尾さんがお百姓さんから見せてもらった、これが一年分のあなたのお米を採るために必要な田んぼの広さ(10m×10m)だよというのと、全く同じ概念なんです。自然の成長量の中に、人の暮らしがある、それが、持続可能な社会です。
生きる=食べること。その向こう側に自然があり、さらにその先に地球がある。今の私たちは、それを忘れて、暮らしているのではないかということ、それ考える他火(たび)なのかもしれません。

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