見出し画像

それは「ルッキズム」なのか「エロティック・キャピタル」なのか


朝が来た来た、朝が来た。2022年4月18日の朝。越後味噌をぶっかけた玄米御飯をクチャクチャしながら目の前に広げた朝日新聞というものをちらちら見ていたら、一面の「折々の言葉」という鷲田清一のコラムに、ペチャクチャ喋らなくても人の賢さや人柄は一目でわかるもんなんだよという日本近代史家の渡辺京二の話が出ていた。

ルッキズム

その本旨は喋りすぎないほうが物事はうまくいくんだよというところにあったのかとは思うが、それで玄米御飯をクチャクチャしながら23面の記事(生活面)に辿り着いたら、今度は和田彩花というアイドルが「ルッキズム」の問題に取り組んでいるという記事が出てきたではないか。

ルッキズムというのは、ひとことで言えば外見至上主義。見た目だけで人を差別したり判断したりしちゃいけないよということを示唆しているんだと思うが、この二つの相反するような記事が同じ日に同じ新聞に掲載されていたものだから面食らってしまったのである。

面食らいながらも、あたくしめの愚かな頭はこの二つの記事というか主張をなんとか矛盾なく呑み込もうとして悶えた。なので、越後味噌ぶっかけ玄米御飯を呑み込むべきタイミングがわからなくなったりして、えらい迷惑だった。玄米御飯はひとくち八十八回も噛まなければならないものなのである。根性のないあたくしは、いつまで経ってもこれに慣れないでひいひいいってるわけだけど。

その混乱というか困惑というか鬱憤があったので、書いて吐き出してしまいたかったのだが、ちょっとぐらい書いてみたってすっきりするものじゃない。

フェミニズムとルッキズム

ルッキズムは、LGBTの人たちとか顔面に障害を抱えた人たちをネガティブにとらえないための人権活動みたいなものが根っこにあって始まったのだと思うが、それが次第に女性の容姿の問題に傾いてきて、女性を顔とか体とかの美醜で判断しないでよというようなオーソドックスなフェミニズム運動の雰囲気になってきている。

実際的なところでいうと私も渡辺京二のような立場で、人の性格とか能力とか立ち位置は目で見てかなりのところまでは察しがつくと思って生きてきたが、差別とか人権とかというレベルに立って考えたら、やっぱりルッキズムはいかんのかなあという気持ちが湧いてくる。

そんなことを真面目に考えていたら、その日は絶対矛盾の自己同一的なモヤモヤと怪しい気分になってしまった。

怪しい気分に引きずられても懲りずにだらだら考えていたら、かつて読んだ本の中に「人の見た目は第四の資本である」という話があったのを思い出した。

セックス・キャピタル

四つの資本のうちの一つめはその人の経済資本、二つめは学歴などの個人資本、三つ目は人脈などの社会資本ときて、現代社会では人の見た目が四つ目の資本になっているというような話だったかと思う。ピエール・ブルデューの説を基にしてキャサリン・ハキムというイギリスの社会学者が付け加えたもので、エロティック・キャピタルとかセックス・キャピタルというそうな。

おお、なるほど、そうか。エロティック・キャピタルか。セックス・キャピタルか。見た目にはやっぱり資産価値があるんだよ。

資産価値があるからこそ、ルッキズムは特に女性の側からの異議申し立てとして機能しだしたのかもしれない。

もちろんこの第四の資本というやつは男性にも適用されてしかるべきものだろうが、その場合、第四の資本どころか第一も第二も第三も、資本らしきものをほとんど持っていないあたくしみたいな人間はますます肩身が狭くなってくるというだけの話じゃござんせんかね、ハキムさん。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?