見出し画像

『限りある時間の使い方』 - どこまで効率化されても忙しくなる理由

現代のあらゆる技術が進歩し人々の生活は良くなっていく一方で、忙しさは変わらず、日々時間に追われる生活を過ごしている人がほとんどだと思います。

本書では、その理由とそれに対して「こう考えてみてはいいのでは?」と提案をしてくれています。

時間に追われて余裕がなくどうにかしたいと考えている方は、ぜひ参考にしていただけたらと思います。

効率化されても忙しくなり続ける理由

あらゆる技術進歩で、世界中の情報にすぐにアクセスできたり、欲しいものが明日には家に届いていたりと、私たちの生活は効率化され自由な時間が増えていることは間違いありません。

ただ、日々生活をしていると、「これをしないといけない、あれをしないといけない」と”時間が足りない”という感覚を持ってしまいます。

私の感覚では、10年くらい前はここまで忙しいという感覚は持っておらず、もう少し余裕を持って生活できていた記憶があります。

効率化されるに従って忙しくなっていくというのは、どうも不思議な感覚です。

その理由として、本書ではベルトコンベアの例で説明しています。

アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールはかつて、現代社会の生活をベルトコンベアにたとえた。古い仕事を片付ければ、同じ速さで新しい仕事が運ばれてくる。「より生産的に」行動すると、ベルトの速度がどんどん上がる。あるいは加速しすぎて、壊れてしまう。

つまり、効率化できたところに対してさらに効率化できないかと、私たちはそこに対してリソースを使ってしまっているのでより忙しくなっていると提唱しています。

これは、仕事ではあるあるな話でして、社会人であれば心当たりがある方が多いのではないでしょうか。

さらに、それよりも厄介な問題がある。多くのタスクをこなせばこなすほど、期待値がどんどん上がっていくという問題だ。
(中略)
「仕事の量は、完成のために利用可能な時間を全て満たすまで膨張する」という有名な法則がある。1955年にシリル・ノースコート・パーキンソンが提唱した「パーキンソンの法則」だ。これはただのジョークではないし、仕事に限った話でもない。
どんなタスクも、時間があればあるだけ勝手に膨らんでいくものなのだ。正確には「やるべきこと」の定義がどんどん広がっていくといってもいい。

与えられた仕事を達成すると次はさらに大きな仕事を与えられ、その繰り返しで限りなく仕事はどんどんと大きくなっていきます。

いつしか100m走を常に走っているような感覚で仕事をしないと締め切りに間に合わないような状態になっている。そこから抜け出したいと思っている方も少なくないように思います。

さらに拍車をかけるように、最近ではあらゆる情報が飛び込んできて、自分の「やりたいこと」がどんどん増えてきています。

グルメ番組で紹介される食べ物、旅番組で紹介される観光地、YouTuberが紹介している遊び、自分の興味があるものがあれば、時間を作ってやってみたいという感情が出てきます。

従って、自分の時間や心もどんどん余裕がなくなっていく。恐らくこの流れは、これから先も変わりません。


それに対して、本書では心の自由を取り戻す方法として、「全部できるという」幻想を手放すことと提案しています。

心の自由を得るための方法は効率化ではない

やりたいこと、やるべきことはいつも多く、今後も増え続けていく。

その中で心の自由を得るための方法としては、「やりたいこと」が「全部できる」という幻想を手放すこと。そして、ひと握りの重要なことだけに集中することが大切とのことです。

必要なのは効率を上げることではなく、その逆だった。
全てを効率的にこなそうとするのではなく、すべてをこなそうという誘惑に打ち勝つことが必要だったのだ。

私たちは時間がなくなってくると、自由な時間を求めて効率を上げることに集中しがちですが、むしろ逆で、全てをこなそうという誘惑に打ち勝つことが必要だったんです。


人間は生きている間にあらゆる欲を持ちます。

新しい趣味に挑戦したい、世界中の国を旅したいなど、ある目標を達成すると次の目標が出てきて、尽きることのない欲を叶えようとしがちです。

ただ、その欲を全て叶えようとしたところで、人間が生きている間の時間では叶えることは不可能です。


時間の有限性を受け入れる

湧き出る欲を全て叶えようとしがちなのも、私たちが「時間はあるもの」と認識しがちなところからきていると本書では言っています。

実際のところ、100歳まで生きると仮定した時に、人間が生きることができるのは4000週間。

この中で自分がしたいことを全部行えるか、冷静に考えてみると難しそうではないですか?

なので、私たちは湧き上がる欲から「しないこと」を選択する必要がありますが、どうしても「しなかったことを、もしした時の未来」(もう一方の道)が気になってしてしまいます。

もし、あっちの道を選んでいたら、どうなっていただろう。あっちのほうがよかったかもな。。。という気持ちです。

これに関しては、日々そういった犠牲は必然的なものとして捉える必要がありそうです。

人は1日のうちに何百もの小さな選択をする。そのたびに、できるかもしれなかった無数の可能性を永遠に切り捨てている。「decide(決める)」の語源となったラテン語のdecidereは、何かを「切り離す」という意味だ。

限りある時間を過ごしている時には、必ず犠牲にしていた時間もあるということです。

家族ができれば自分だけの時間が犠牲になったり、仕事のために友達と遊ぶのを犠牲にしたり。私たちは何かを選ぶと必ず何かを犠牲にして生きているのです。


有限性を受け入れて、何が重要かを見極めて、「しないこと」を決める。これが限りある時間を過ごすための方法です。

未来のために生きるか、今を生きるか

最後に、本書では「限られた時間で何をするか」についても言及しています。

・例えば、子供が将来人に迷惑をかけないように厳しくしつける。

・例えば、出世のために必要な資格の勉強をする。

一見良いことのように見えがちですが、この時、今という時間に注意は向いておらず、将来のための時間を過ごしていることを指摘しています。

・例えば、子供が将来人に迷惑をかけないように厳しくしつける。
 ⇨今この瞬間子供との時間を過ごすのを犠牲にして、将来の子供のために厳しくする。

・例えば、出世のために必要な資格の勉強をする。
 ⇨今この瞬間、自分がやりたいことを犠牲にして、将来困らないために勉強をする。

上記の例は悪いということを言っているのではないのですが、私自身本当にそれでいいのかということを考えるきっかけになりました。

たしかに、子供は小さいうちにちゃんとしつけたほうがいいとか、若いうちに勉強をしといたほうがいいとか言われがちですが、その不確実なハウツーや将来のために、今の時間を犠牲にしていいのかと考えてしまうんです。

明日には死ぬかもしれないというような状況で、今この時間に注意を向けずに過ごしていいのか、私はすごく考えさせられました。

本当にやりたいことがあるのなら(創作活動でも、恋愛でも、社会運動でも)、確実にそれをやり遂げるための唯一の方法は、それを実行することだ。




#読書の秋2022

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?