学校教育におけるコンプライアンス強化の行き着く先とは 古典教育の現場から
麻雀関連の記事を主に読ませて頂いていたしろてんさんから、次のような興味深い投稿があった。
お笑い、という観点からは大分離れたものとなるが、古典教育の視点から、この「コンプライアンスと表現とのバランス」について日ごろ思っていることを書いてみたい。
まず、端的な話として、そう遠くない未来、古典が、学校教育から消えるだろうと私は睨んでいる。これは、消えてほしいとか消えてほしくないとかいう思いはひとまず置いておいて、「消えるだろう」と思っている。ちなみに古典とは古文と漢文を指し、学校教育とは主に中学・高校での課程である。
確かに、完全に跡形もなく消え去ることはないかもしれないが、現在のように大学入試の国語という科目のほぼ半分の配点を占める、というような状況(大学入学共通テスト=旧センター試験)は変化するだろう。
しかし思うのだが、現代社会は清潔信仰が行きすぎてしまったがために、逆にちょっとした菌や不潔に対しても身体に耐性がなく、過剰に反応してしまう「アレルギー過多時代」になっていると聞く。「ひ弱になっている」と言えるのかもしれない。
すると、コンプラをガチガチに強化させ、子供の頃からそういう表現に一切触れさせない、学校教育においてもその姿勢を強化していくことは、古来日本に根付いてきた言語文化の享受をストップさせてしまうと共に、一人一人の人間が持つ基本的な言語運用能力も大幅に低下させてしまう、日本語力をひ弱にすることに繋がるだろうなあ。
さて、仕事柄私も入試問題の作成に携わることがあるが、国語の入試は作成する際、まずは題材となる文章探しから始まる。これが結構「コンプラ」上、ヤッカイなのである。特殊な家庭環境や状況、病気を背負った登場人物、はまだいいとして、性愛に触れる場面やそれを匂わす表現のある部分は使えない。キスシーンでさえもっての他…だと思う。少なくとも私は高校入試、ましてや中学入試の国語の文章で、そんなシーンにお目にかかったことがない。暴力シーンなども同じようなことが言えるだろう。つまりは映画のR15+、R18+、と言った感覚に近い。お子さまの目に触れさせてはいけないものは入試には出せないということだ。
大学入試でも現代文の分野では基本的には状況は変わらないが、それが劇的に変わるのが、古文の問題においてである。
男女が深い仲になったことをほのめかす表現は当たり前、何なら「次の文章は◯◯が△△と一夜を共にした後の場面である」とかリード文(文章が始まる前の状況を現代語で説明したもの)に堂々と書かれていることも日常茶飯事。結婚している男が一夜の過ちを犯した女性への未練に心を悩ませている、などはまだましなほうで、男が女の部屋に押し入って無理やり××してしまった、といったケースのシーンだって入試に用いることお構い無しである。
国語の教員としてはやや異端なところもあると思われる私は、ある時からこのことが非常に気になるようになってきた。恐らく多くの先生方にとって古文とはそういうものだし、そこに問題意識は感じていらっしゃらないだろう。私も古文そのものを教えることは楽しいし、学ぶ価値がある学問だとも思う。しかし、国の主導によって作られた試験制度(大学入学共通テスト、旧センター試験)において、コンプライアンスに配慮されまくって選ばれていると思われる文章(現代文)の隣にノーコンプラの文章(古文)が載ってる状況って、何かシュールだな、と。悲しいことだが、この状況は将来きっと是正勧告を受け(どこからだろう?)、終わりを迎えていくのだろうな、と思うようになったのである。
漢文も似たような状況だが、古文に比べて色恋沙汰が話題の中心を占めることが極端に少ない漢文は、暴力的な描写・残忍な描写の方が問題となるかもしれない。むしろこっちはコンプラ云々よりも「学ぶ意義そのもの」に理解を得られなくなるおそれがある。
「そういう時代の価値観であった」「現代とは異なる考えが社会を支配していたにすぎない」ということで長年問題を含む古典教材が入試において平気で扱われて来たのであるが、コンプライアンス強化の波が一気に押し寄せている昨今、もうそんな防波堤では止めきれない。
勿論、入試の場面だけではなく日常の授業だって同じ。長年高校で優良教材として扱われ、今も高校教科書に載り続けるそのテクストとは例えば次のような場面だ!
①『伊勢物語』「芥川」
「昔男」(在原業平がモデル)が「女のえ得まじかりける」(とても手に入れられそうにないオンナ)を、仕方ないから「盗み出して」駆け落ちを図るお話。手に入れられそうにないのは男に比べて身分が良すぎるからで、ろくに家の外にも出たことないこの女は男の背中に負われながら草葉に降りた露のしずくを見て「あれは何かしら」とか言ってる、我々庶民の想像を遥かに超えた令嬢である。「手に入れられそうにないオンナ」という女性をいかにも物扱いしたような訳語を教室で生徒に向かって言うのは相当にハードルが高いが(本当なら「モノにできそうにない」ぐらいの方がより近いのかもしれないが、それはもっと高い!)、かと言って「結婚できそうにない女」とごまかすのも違う気がするから、頑張って言っている。この教材は、深まりもあって、個人的には大好き。(コンプラ的にアウト度:60%)
②古文・『古今和歌集』他
物語に付随するものではない単体としての和歌は一見取り扱いやすそうだが、和歌の表す世界観を深めて考えようとするとそう単純でもない。
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(詠み人知らず)
有名歌で、また何の変哲もない和歌だが、授業で「昔の人」って誰? ってことになって、元カレ・元カノのことを指しそうだということになると、じゃあ「花橘」の香をかぐと昔の恋人を思い出す、ってそれはなぜ?一体何を思い出しとるんだ?とニヤニヤしながら生徒を詰めていくと「セクハラ教員」のレッテルを貼られかねない、という教員にとって意外な罠が待ち構えている。(コンプラ的にアウト度:20%)
※「和歌」には大体どれもそういう罠が張られているものでもある。
③『源氏物語』「玉のをのこみこ」
言わずと知れた源氏物語・冒頭部分。「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に~」で始まる有名シーン。一夫多妻以外の何ものでもない古代の後宮のあり方、どのような子を産んだかによって周囲からの評価が上下する虐げられた女性たちのありようがごく当たり前のように描かれている。(コンプラ的にアウト度:40%)
④『源氏物語』「小柴垣のもと」
後の源氏物語のヒロイン・紫の上を光源氏が見出だす場面。「見出だす」と言えば聞こえは良いが、病み上がりに散歩に行って他人ん家を覗いていたら偶然自分好みの美少女を発見して入れあげていく、というまだ二十歳にも満たない青年光源氏の変質性・異常性が余すところなく描かれていく好編である。なお、これを授業で読んだ一般的な女子生徒たちはマジでドン引きしていることも少なくないことを付け加えておく。(コンプラ的にアウト度:100%)
⑤『源氏物語』「藤壺の里下がり」
実母・桐壺更衣の愛を知らないまま育った光源氏は、その後父である帝の元に入内(≒結婚)した藤壺女御への思慕を深めていく。
※つまり、今風に言えば義理の母への恋です。が、年齢は光源氏に近い。
藤壺女御が里に下がるという好機を得た光源氏は、手立ての限りを尽くして藤壺女御に接近し、(無理やりに)思いを遂げる。藤壺女御は、しっかり懐妊する。
色々事情があって私はこのシーンを授業でやったことはないのだけれど、想像するだに恐ろしいです。この場面、よく21世紀の教科書検定通ってるよなあと思います。検定委員も含めてみんな『源氏物語』大好きなんやな。
(コンプラ的にアウト度:120%)
やはり他作品がかわいく見えるくらい、『源氏物語』のノーコンプラ度合いは群を抜いていますね。問題は、これらが大人向けではなくて青少年ばかりがそれを受ける高等学校の授業において、教材として用いられるところにあるのです。
入試に出たら出たでコンプラ意識丸出しの現代文との対比がシュールな古文。教科書の文章を扱うならそれはそれで、授業において他科目にはほぼ必要のない特殊な配慮と気遣いと言葉選びを教員に強いてくる、古文という科目。
私は大好きです。
古文なくなったら国語教える楽しみの半分くらいは消え失せそう。
なくならざらなむ(なくならないでほしいなあ)。