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最果タヒ展と食わず嫌い

『最果タヒ展 われわれはこの距離を守るべく生まれた、夜のために在る6等星なのです。』へ行ってきた。

恥かしながら最果タヒさんの詩を読んだことはなく、それどころか詩への苦手意識もあったが、インスタレーションとのことで私でも楽しめるかもと思ったのだ。

会場にあるのは、作品があなたに読まれ、初めて意味を持つものであってほしいと願う、最果タヒによる「詩になる直前」の言葉たち。それらを追いかける体験を通して、自分の心が動く言葉やその瞬間、あるいは目が無意識に読んでいる感覚に気づくような、言葉との新たな出会いが生まれるでしょう。

詩になる直前の言葉の通り、文章になっていないただのセンテンスがあったり、どこから始まるのかわからない展示方法のものがあったり、詩に親しみがなくても興味深く楽しめる展示になっていた。

特に印象的な展示は、白と黒が表裏対になったモビールに「言葉」が書いてあるもの。上半身の辺りにまでモビールがあるので、歩く度に「言葉」が近づいたり、離れたり。真っ白な壁に映るモビールの影は造形的で美しく、光と影の対比が、使われている「言葉」とも重なる。明るいイメージの言葉や暗いイメージの言葉がちりばめられている。モビールの白と黒は、使われている言葉たちが表している、生と死、善と悪、ネガティブとポジティブなどの象徴のようだった。展示は写真撮影可が可能なので、あちこちでシャッター音がする。そのシャッター音や歩いている人も展示の一部に思えた。

展示あとがきにこんなことが書いてあった。

詩、という言葉が指すのは、作品そのものより、その内側にある光や痺れ。それらを見つけるのはいつも、読んだその人自身であって、あれは詩だ、と思う時、言葉の向こうに光を見つけた「自分」の存在が証明される。

これを読んだときに、詩ってそんなに構えて読まなくてもいいのかも、と思えた。

私が詩に苦手意識を持っている理由は2つある。1つは詩の意図するところを読み取らないといけないと思っていたから。わかりやすい比喩が使われている程度だといいのだが、詩全体が比喩みたいなものだと、私にはその意図はつかめないと諦めていた。興味はありつつも、感性もないし私にはわからないと決めつけておいた。もう1つは、どういうシチュエーションで作品と向き合っていいかわからなかったから。本を読むのは好きだが、本と同じようにまとまった時間でどれだけ読めるか、という類のものではないような気がして、どういう読み方をしたらいいのだろうと避けていた。

先日、「アート鑑賞、超入門!7つの視点」藤田令伊 という本を読んだ。「アートを見る」ことについて書かれているのだが、その中で「正しい」「間違っている」にこだわらず主体的に見て愉しむこと、とあった。また、「なぜ?」という視点をもち、それに対する答えを多く考えてみると良いとも書いてある。詩とアートを同列にしてよいかの議論はあるかと思うが、私の中ではこの展示を見たときに、詩もそうやってもっと身近なものとして愉しめばよいのだろうと腑に落ちた。

最果タヒさんが、「全人類詩人」とtweetされていたが、本来、詩とはそういうものなのだろう。
今後は食わず嫌いをしていた詩に、もっと触れてみたい。

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