「時」を生かすか、浪費するか
セネカ(大西英文訳)「生の短さについて 他二篇」という本が、今月の人間塾での課題本だった。本会には参加できなかったのだが、良い本だったので紹介したい。
ローマ時代のストア哲学者(ストア哲学についてはまたいつか)セネカの書いたもので、『生の短さについて』『心の平静について』『幸福な生について』の3つのことについて書いてある。
今回はその中から『生の短さについて』 を取り上げる。この篇は、どう生きてどう死ぬか、について語られている。
生の短さについて私たちの人生にはわずかな時間しかないのではなくて、多くの時間を消費しているだけである。善いことに使われない時間は、生ではなくただの時間でしかない。今日が最後の日かもしれないのに、いつか時間ができたら自分のために生きたいと思いながら、今という時間を何かのために浪費している。
生きることの智慧ほど難しいものはない。何かに忙殺される人間にはわからないだろう。どれほど短くても自由になる時間を自分のために使うからこそ、生は長くなる。
生きる術は生涯をかけて学び取らないといけないし、死ぬ術も生涯をかけて学び取らないといけない。多くの人には、死は遠い先、未来にあるもので「今」とは結び付かないものだろう。その「死」を知って、今という生を見てみると違った今があるのではないだろうか。
時間を残らず自分のためにだけ使い、一日一日を、まるで最後の日であるかのようにして過ごすと、いつか時間ができたらと将来を楽しみにすることもなく、将来を恐れることもない。
先延ばしは生の最大の浪費である。将来はこうしたいと不確実な未来を計画して、足早に駆け去る今日を大切にせずに、何かに忙殺されて終わってしまう。時間があっても怠惰に過ごす。そして、気づくと何の準備もないままに老人になってしまう。そして死を目の前にして、本当に生きることをしなかったと後悔をする。何かに忙殺されず、また時間があっても怠惰にも過ごさなかった人は、死を目の前にしてもためらわない。
英知のために時間を使う人が、本当に生きているのである。そのような人は過去の偉大な人物と対話をする。様々なことを彼らから学び、そして、大きな幸福や美しい老年が待っている。彼らはまた、高みへと昇らせてくれて、死んだあとにも賢者として生を悠久のものとしてくれる。
賢者の域にまで達しなくても、日々、最後の日という意識を持って過ごすと、今まで大切にしてこなかったことも大切に出来そうな気がする。闇雲に将来に不安を覚えていたり、怠惰に過ごしたり、ただ時間が過ぎていて、生ではないことが多かったなと、わが身を振り返った。
最後に解説から、セネカがこの篇で言いたかった「時」について。
現在という時は、人間がそれを意識し、思考し、自発性を発揮し、自由に意志する場合にのみ存在し、そうでない場合は存在しないということ、つまり現在という時は思考や意志といった心のあり方に依存し、存在すれば「活用」でき、存在しなければいたずらに流れ、「浪費」されるということ、また、現在は過去と未来から成り立つものであるゆえに、活用されれば広大な広がりをもつ(すなわち長くする)ことができるのに対して、現在が存在しなければ過去も未来もないゆえに、時間は「無」となる。