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2023_0607_本読み
<1696字>
冒頭の写真:
ホソオビヒゲナガ(2回続けて、蛾!)とハコベホオズキ。
ヒゲナガガ科の蛾。科名にはちゃんとガ(蛾)がつくが、種名にはガ(蛾)がつかないんだなぁ、と何度もカタカナを確認して思いました。
ハコベホオズキは初めて知ったけれど、葉の感じがいかにもハコベっぽくて、わかる!って思いました。花は似てないけど、かわいいかたち。
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6月7日(水)は以下を読みました。
『あまりにロシア的な。』
亀山郁夫 著
青土社
第4章 記憶の冬、冬の記憶
3歴史の影ーー東欧から
アウシュヴィッツ=オシフィエンチムまで1・2・3・4ーー(未完の)回想2
暗殺、そして終末都市のコンサート
(263〜268ページ)
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アウシュヴィッツに続けて、ダッハウの話題。筆者がダッハウを訪れたのはこの留学の時ではなく1989年。ダッハウのロシア語の綴りや音の話などがあったので、ロシアに近いのか?ロシア語の名?と思いました。
アウシュヴィッツについては現在のポーランド語の名オシフィエンチムを使っていたけれど、ダッハウは?と地図を検索。
ダッハウはドイツもドイツ、ミュンヘン近郊でした。そんなことも知らなかった。オシフィエンチムまで800キロ以上。全然別の場所なのに、強制収容所というイメージで位置まで近く感じてしまっていた。
(音読した人:山崎)
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『沖縄ノート』 大江健三郎 著
岩波新書
Ⅲ 多様性に向かって
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「沖縄とはこういうものだ」というふうに十把一絡げにまとめてしまうことが最悪に目を曇らせる、と強く主張していました。
実際、島ごとに言語も違ったり、すごく多様なのをまとめて「沖縄」と呼んでいるということなんだろうな、と思います。
そしてもう一つ、書き手自身の多様性の欠如も最悪だ、と。
著者のいりくんだ文は、そういう気持ちの表れでもあるんだろうな、と思いました。読み手に簡単に一義的に読み取られにくく仕組む、というような。
でも、今日のところは分かりやすかったです。
それで、多様性が大事なのは当たり前、と、そこで考えが止まっている自分に気づきました。なぜそれが大事なの、と問うと、言葉に詰まる。誰とも違っている自分を認めてもらって自由でいたいから、かな。
多様性に関係あることだ、と感じた時に、それについてしゃべったり書いたりしてみるのが必要と感じました。でないと、それこそ「多様性」ってことばを使っただけで、なにか言ったかのように錯覚してしまう。
(音読した人:こいでさん)
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『正岡子規 新潮日本文学アルバム〈21〉』
新潮社
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俳句の周辺をなんとなくうろうろしつつ、子規のこともいろいろ知り始めたところで、この「アルバム」はその名のとおり沢山写真が入っているようです。収録されている、いろいろな人の文章の引用をとても面白く聞くことができました。
司馬遼太郎の
「子規は大真面目な人であったが、どこかおかしいということは漱石が保証している」
というような表現があって、書簡を少しずつ読んでいる私たちは、うんうん、と頷きながら聞いていました。
どなたの文か、メモし損ねましたが、
高浜虚子が
子規は自分が俳句をやる前から人の俳句を(というより漢詩からなにからなんでも)添削する癖があって、元々の性質が師表(はじめて聞いたことばでしたが、師範と同じ意味)だったというのが笑ってしまった。
(音読した人:めいさん)
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『俳句的生活』 長谷川櫂 著
中公新書
第11章 平気
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笈の小文から、
〈 いざさらば雪見にころぶところまで 芭蕉 〉
という句を引いていました。
古今和歌集がすべての和歌のお手本となりすぎて、使うことばすらもその中にある「雅」なものでなければならんというような状態に成り果てた時代となり、
それへの、反抗というの?くずしというの?から俳諧が生まれてきた(のか使われたのか)ようです。
「ころぶ」ということばはそういった反抗味のあることばらしい。
子規にしろ、芭蕉にしろ、できてしまっている枠を壊す位置に居た人ってやっぱり、かっこよくって、「おかしい」のですね。
(音読した人:きよもとさん)