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行き当たりばったりな『今』を考える。

私は昔から「将来のこと」を考えることが苦手な子供であった。
当然、将来の夢なんてものも考えたこともなかった。

「10年先のことを考えろ」
「未来の自分のなりたい姿に向かって行動を変えなさい」

私は、未だにそんな言葉たちを許容することが出来ない。
言いたいことはわかる。
目標を立て、それに向かって計画的に行動していくのは、子供の夏休みの宿題でも言われていることだし、なんとなくは理解できる。
だが、その言葉たちは私の喉の奥でつっかえたままなのだ。

子供のころ、将来のことなんて考えていなかった私は、とにかく毎日が楽しかった。
木に止まっている蝉を真剣に捕まえようとする緊迫感に始まり、家族旅行で行った、ホテルビュッフェに目を輝かせ、近くの市民プールで友達と馬鹿みたいにはしゃぐ日々。
あの頃は「今」というものを全力で楽しみ、そして全身で感じていた。

だが、大人になった今はどうだろうか。
やれ老後資金だ、やれ転職だ、やれ婚活だと、毎日のようにメディアが危機迫りながら、くたびれた大人たちに警告を打つ。
大人たちはそんな分かりもしない未来に目を向けさせられ、漠然とした不安に蝕まれている。

「今」の延長上に「未来」があるというのに、「未来」という地点の副産物として「今」が存在している。

それでは「今」という価値はいったいどれほどのものなのだろうか。
現代の若者は可哀そうである。
「今」という価値を教えてくれる大人なんておらず、絶えず「未来が大切だ」と根拠なんてありもしないお説教を垂れ流してくるのだ。

「今」をがむしゃらに精一杯生きる若者を煙たがる大人で蔓延る昨今は、はっきり言って異常である。

「そんなことしてなんになる」
「馬鹿なことをしてないで、いい加減将来を考えなさい」


大人たちはそんなことを軽々しく口にする。
当たり前だ。自分たちに責任なんて持ち合わせていないのだから。

私は先月、27歳となった。
もう若者という枠からは抜け出しつつあるのかもしれないが、相変わらずと言っていいほど将来のことを考えることが苦手である。
計画を立てることが出来なければ、楽しいことが目の前にあれば過集中してしまい、好奇心旺盛でありながら、飽きっぽさも健在で、頭の中は24時間営業の遊園地なのだ。

私は幼き大人だと笑われることを承知で生きている。
そのおかげか、自分の信念を突き通すことが出来ている。

大人としては失格かもしれないが、人間としては正解だと私は信じている。
「将来」に目を向けなければいけないが、楽しむべきは「今」なのだ。
「将来」の漠然としたもののために、「今」やりたいことを捨ててしまうのは、本末転倒ではないのだろうか。

行き当たりばったりの「今」を生きる。
笑われるかもしれないが、今の私にはそれが幸せなのである。

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静 霧一/小説
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