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「あなたは、光の中で大人になっていく。」
サブタイトル【映画 「すずめの戸締まり」 感想】
遅ればせながら(?)やっと「すずめの戸締まり」を見ました。
ここ最近見た映画で1番(映像作品として)面白くて、すごい刺さった。
(あらすじ)
九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。
彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、ぽつんとたたずむ古ぼけた扉。なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが…。
扉の向こう側からは災いが訪れてしまうため、草太は扉を閉めて鍵をかける“閉じ師”として旅を続けているという。すると、二人の前に突如、謎の猫・ダイジンが現れる。
「すずめ すき」「おまえは じゃま」
ダイジンがしゃべり出した次の瞬間、草太はなんと、椅子に姿を変えられてしまう―!それはすずめが幼い頃に使っていた、脚が1本欠けた小さな椅子。逃げるダイジンを捕まえようと3本脚の椅子の姿で走り出した草太を、
すずめは慌てて追いかける。
やがて、日本各地で次々に開き始める扉。
不思議な扉と小さな猫に導かれ、九州、四国、関西、そして東京と、日本列島を巻き込んでいくすずめの”戸締まりの旅”。旅先での出会いに助けられながら辿りついたその場所ですずめを待っていたのは、忘れられてしまったある真実だった。
考察
(考察なんて大それたものじゃないです、なんとなくそうかな?って思ったこと)
ダイジンの正体
「すずめ!あそぼう!」「すずめ、すごーい!」どこか無邪気さを感じるダイジン。それは幼い子どものように見える。
ダイジンは、草太と同じ”閉じ師”または、それに関わる家系の子どもだったのではないかと。しかも愛と無縁の場所にいた。
神戸のスナックでダイジンが人間に見えると言った描写があったこと(子どもではなかったけど)
草太の祖父である羊朗が「草太はこれから何十年もかけ、神を宿した要石になっていく」と言ったこと。更に同じ要石のサダイジンに対して「お久しゅうございます」と声をかけていたこと
なぜスナックの人には人間に見えていて、鈴芽たちにはネコに見えていたのかは謎。鈴芽が猫について聞いたときに、隣のおじさんについて聞かれたと勘違いした可能性もあるけど、意味のないシーンなら描かないよね…?
更に、環さん⇔鈴芽と鈴芽⇔ダイジンの関係が似ていて、ダイジンと関わることで鈴芽は環さんの追体験をしてるところから、やっぱりダイジンは人間の子どもだったのかなと。
2匹の蝶
この物語では時々、鈴芽の周りを2匹の蝶が飛んでいる描写がある。わたしは映画を見終わった後、これはきっとダイジンとサダイジンで、2匹の猫(神様)がずっと鈴芽を見守ってくれているのだと思った。
ただ、冒頭の鈴芽が寝ているとき、まだダイジンの存在など微塵も知らないときから飛んでいるし。実際にダイジンとサダイジンが猫として近くにいるときも飛んでいるので矛盾が多少感じるなと思いつつも
「全ての時間が同時にある場所」である常世では、同空間に4歳の鈴芽と16歳の鈴芽が存在していたし、ダイジンたち神様なので。まぁそういう事もあり得るか(?)なんて勝手に思っていた。
でもちょっと他の方の感想を見ていたら2匹の蝶は鈴芽の両親説があって、実にそれのほうがしっくりときた。
でもラスト、草太と再会した坂では鳥が2匹。青空を飛んでいる描写があって。その鳥はダイジンとサダイジンなんじゃないかなって思ってる。
神話では、鳥は神様の象徴でもあるみたいなので、あとは一般的には平和や愛の象徴。再会した2人をあの2匹は祝福してくれているのではと、個人的にはそうだといいなぁ…。
涙
うちの子になる?
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冒頭の鈴芽が部屋の窓辺に表れたひとりぼっちのやせ細った猫、ダイジンに「うちの子になる?」と聞いたシーンと、母親を探して迷子になって鈴芽に環さんがかけた「うちの子になろう」のシーンが重なる。
愛情に飢えていたダイジンは鈴芽からの優しさを愛だと信じ、それを手放したくないから、要石に戻ることを拒否していたのかなと…。
やせ細り、ひとりぼっちだったときに、餌を与えてくれて「うちの子になる?」聞いてくれた、優しい鈴芽に出会い愛を知ったダイジン。
途中、ダイジンが後ろ戸を開けていると鈴芽に誤解されてしまうけど。本当はもっと鈴芽の側にいてもっと愛されたかったはず。
「うちの子になる?」
「だいじんはね─、すずめの子にはなれなかった」
「すずめのてで もとにもどして」
あの時の鈴芽の問いに答えるように。大好きな鈴芽が草太を必要としてることを知って、あんなに拒否していた要石に自らなると言ったシーン。
これにわたしはダイジンから鈴芽への大きな愛を感じて、ここは本当に涙なしでは見られなかった
この映画は、鈴芽の成長物語であるのと同時に、ダイジンの成長物語でもあった。愛情に飢えたまま要石となり、ずっと廃墟で、たった1人で過ごしてきて、だけでど鈴芽のおかげで自由の身となり、人間の世界で旅をしている中で様々な人々に可愛がられ関り、人間の営みの中で様々な感情に触れたことで、愛を知り、だからこそ、鈴芽のために要石に戻る選択ができた。
過去
東北に向かう途中で、鈴芽がいきなり車から降りて丘の上に行き、それを追いかける芹澤。丘から街を見下ろして、「こんなきれいなところあったんだな」と言った芹澤に、鈴芽は「きれい?ここが?」と返す。
何とも言えないシーンだった。12年たったとしても当たり前に鈴芽の中ではあの日のことが過去になることはないんだなと感じた。そしてきっとあの地域も震災によって日常を奪われた場所で、鈴芽にとっては悪夢の場所であっても。芹澤にとってはきれいだと思えてしまう場所なんだと、あの日実際に被害を受けた方と、そうじゃない人ではこんなにも差があるんだと思うと苦しくなった。
(追記)
このシーンについて、改めて思うのが、これって問いかけだよなと。
被災した土地を見て「こんなきれいなところあったんだな」といった芹澤にはきっと全く悪気はない。空がきれいとか、花がきれいとかそういう類の感情だと思う。何気ない一言だ。
でも実際にその土地で被災した人にとって、母を亡くした鈴芽にとってはいつまでも忘れられない出来事なわけで。きっと何年たってもその土地を美しいと思うことはない。
でも確かにあの日を経験していても直接的な人生に関わるような傷を負っていない芹澤にとっては、あの日は過去で。例えばあのシーンが大震災直後であればきっと芹澤はあの場所を「きれい」とは表現しないだろう。
わたし達への問いかけだ。過去になっていないか。風化していないかと。
あなたは光の中で大人になっていく
4歳で3.11を経験し、お母さんと離れ離れになってしまい、でもそのことを幼い鈴芽は上手に受け入れることができず、きっと何処かでは分かっていたはずなのに、諦めず泣きながら母を探す。
そのとき鈴芽が迷い込んだ常世で、幼い4歳の自分自身に会いに行く鈴芽。「お姉ちゃん誰?」と聞かれ、「私は、鈴芽の、明日」と答える。
だから心配しないで。未来なんて怖くない。あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る。朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの。
誰にとってもあの震災は、今までの、これからもずっと続くと信じて疑わなかった”幸せな日常”をいとも簡単に奪っていた。
鈴芽にとってもそれは同じで、あの日震災によってお母さんを奪われた。
今すごく辛くても、「未来なんて怖くない」と、光の中で愛し愛され育った鈴芽が胸を張って、幼い頃の自分に「私は、鈴芽の、明日」というシーンに胸を撃たれた。
今回の旅で、草太はもちろん、神戸のスナックのママ、同い年の千果、草太の友人で、草太を探す手助け絵をしてくれた芹澤、、、大好きになれた人、鈴芽のことを大好きになってくれた人、助けてくれる人、様々な人と出会って、朝を迎えてきた。それ全てが鈴芽の人生の縮図のようで。
鈴芽は、3.11のあの日から12年間、こうして色んな人に出会い、愛し愛され光の中で大人になってきて、これからもそう生きていくんだと。
そして勝手ながら、この言葉は、自分の人生にもどこか重なるところがあって。辛いこともたくさんあったけど、確かにたくさんの愛情の中、光の中で大人になってきたなと改めて気付かされ、とても心が動いた。
あいさつ
後ろ戸をしめて鍵をかけるときに、草太が人々の声に耳をかたむけろ的なこと言う。鈴芽が耳を澄ませるとそこで生きた生活をしていた人々の声が聞こえてくる。「いってきます」「いってらっしゃい」やはり挨拶なんだなと…
「いってきます」の語源は、行って参るが、必ず帰ってきます
「いってらっしゃい」の語源は、遠方へ行って、無事に帰っていらっしゃい
母が、朝どんなに忙しくても、人生何があるかわからないから絶対に「いってらっしゃい」の挨拶をすると、毎朝送り出してくれていたことを思い出した。
1日の始まりも、終わりも挨拶がある。あの日あの瞬間も生きて生活を営み愛する人を送り出し帰りを待っている人たちがいたんだと考えさせられた。
幸
あの日、鈴芽はいつもの変わらない日常の1コマとして、朝お母さんを「いってらっしゃい」と見送った。そしてまたいつもと同じように「おかえりなさい」を言うはずだった。でもそれは言えなかった。鈴芽の日常が奪われたのと同じようにあの日たくさんの「いってらっしゃい」「いってきます」があって、たくさんの言えなかった「おかえりなさい」があった。
常世にいるミミズに2つの要石を刺し、現世に戻ってきた鈴芽と草太。
草太は戸締まりをしながら東京に帰ると1人で電車で東京へ向かってしまう。必ず会いに行くと鈴芽に約束して。
そしてあの旅行から数か月後、登校中の鈴芽はかつて草太と出会ったあの坂で、約束を果たしに来てくれた草太の姿を見つけ「おかえり」とほほ笑む。
鈴芽にとって人を見送ること、そしてその人が同じように自分のもとに帰ってきてくれることは3.11によって日常ではなくなってしまった。
戸締まりをしながら東京に戻ると言った草太を見送った。だけど草太は必ず会いに来ると約束してくれ、その約束を果たしてくれた。それがせめてもの幸せというか、鈴芽にとってあの日言えなかった「おかえり」を言えた瞬間なのかなと。。。ここからまた鈴芽は草太と日常を積んでいくんだと、再スタートのように思えて、心が温かくなった。
いなくなった人はもう戻ってこない、それは本当に辛く悲しいことだけど。光の中で、草太と出会い。また日常を生きていく鈴芽に幸せを。この先も儚くも大切で尊い日常を幸せに生きてほしい。
余
ずっと椅子
SixTONESの松村北斗くんが声優を務めたことや、それがとても絶賛されていたことは、事前情報として知っていて。
更に宗像 草太のビジュが、ハウルに似ていること、わたしが好きそうというの友人から聞いていたので楽しみにしていたら、なんか物語のほとんどずっと椅子だった…。
え!?椅子になっちゃたの!?からいつ元の姿に戻るんだろうとワクワクしていたけど。本当に物語の終わりまでずーっと椅子で、ちょっとそれが面白かった。ほっくんずっと椅子の役なんだ…って。
神木隆之介の「ルージュの伝言」
東京から、鈴芽の故郷まで愛車で送ってくれた草太の友人・芹澤の声優がまさかの神木隆之介で(T_T)しかも道中、流れる懐メロを口ずさむ芹沢…。
神木くんのカラオケでした(?)ありがとうございます!!!
そして芹澤が良いやつすぎる。知らないオバサン(環さん)にうち子を誑かしやがって!(そんな言い方はしてない)と突然怒られ、道行く人に三角関係?最悪と悪口を言われ、なのに突然片道7時間もかかる旅路の運転手を頼まれ、道中で闇深な鈴芽と環が喧嘩しだし、泣き出し、挙句の果て愛車はボロボロになり、田舎の道に放置される。しんどい。
なのに喧嘩中の2人の空気感を変えようと「けんかをやめて」という懐メロをかけるユーモアさ(T_T)本当に絶対いい先生になる。小学校の低学年とか持ってほしい(?)
一足先に見ていたお友達には絶対草太が好きそうって言われてたけど完全に芹澤でした。
超余談
かなりとっても余談ですが、初めて見た新海誠作品は、「君の名は」。
話題になっていたから母と映画館に足を運んだのはいいものの、作中で”口噛み酒”のシーンで若干潔癖が入ってるわたし気分が悪くなってしまって(T_T)
エンディングまでずっとなんか吐きそうだったという苦い思い出が…
それから本当に勝手に個人的な理由で新海誠作品に苦手意識があったけど、今回の作品で好きになってしまった(単純)再度、「君の名は」「天気の子」見返したいと思う!!!
やはり日々生きていると今日が、ただの昨日の続きで、いつもやってく同じような日常の1コマ、人生のどこかの1日になってしまう。
今日1日を一生懸命生きるぞ!なんて思っても段々日常になり、明日も当たり前に今日と同じ明日が来ると思ってしまう。けどそれが当り前じゃないことはあの日を生きたわたしは(直接的な被害はなかったけど)知っている。
大切な人に「行ってきます」が言えて、「ただいま」「おかえり」を交わせることを大切にしていこうと、特別じゃなくていいから。そういう日常を大切にできる人になりたいと思った。
おわり
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