少年は 人の気配に気づいてか 顔をしかめ 小さく唸りながら 寝返りをうった。
区切り一つ一つで呼吸をしなおすような、そんな切れ切れの認識だった。
何故か?答えは単純で、興奮していたからだ。
やっと やっと はじめられる
そうして手を伸ばし、少年の頬を軽く叩いた。
少年は頬に走った衝撃にしかめていた顔をさらにしかめ、迷惑そうな顔をしながら目を開けた。
「記憶シュ、やらないか?」
その一言はしかめっ面に、強い追い討ちをかけた。
のどかさと歴史を証拠付けるもので生計を立てている街。
そこのとある住宅地の一番奥に、『立ち入る分には構わないけど、傷をつけて開拓しようとすると、土地の贄にされる』ことで有名な山がある。
なんでもその伝承はこの街の誇りの歴史たちがあった頃からのものらしく、城やら井戸やらがあった時代の資料にも似たようなことが記されているらしい。
そんな山に立ち入ろうとする無謀な大人が一人。
手には大きめの刃物と、同じ手に、縄。反対には旅行用らしき鞄。背には巨大なリュック。
この男は何をしてくれるのだろうか。
刃物で山を荒らしにきたのか。はたまた縄を使って衝動に身を任せようとしているのか。
旅行用らしきその鞄の中身は、食料だろうか。はたまたこの男のくたびれたスーツのような着替えたちが入っているのだろうか。
それとも前述の二つのものと合わせて女性の身体でも入っていたりするんだろうか。
どれも違う。
この男は、強盗をしようとしているのだ。
この山のどこかにあったはずの、小屋で。
男は、相田浩二。年齢は二十代のどこか。詳細は――年齢を数えて覚える習慣を、忘れたので知らない。この間、生きる目的を見失ったところだ。と思ったところで、苗字ギャグに気づいて小さく口角を上げた。
そして別にこの相田が生きる目的を見失ったのは、この間でもない。
充実した日常というものは、相田浩二の人生の中では当てはまったことはない。
幼いころから臆病で、疑うことで自分を守り続けてきた。
きっと原点は幼稚園の頃。たまたま活発な子供が浩二のことを気に入り、熱心に声をかけてくれた。
そうしてその子供に甘えていれば、周りに大勢の味方を作って気に入られてばかりだったその子の友達の一人がやってきてくれて「友達の友達」から、「友達」へとなっていけた。
それを繰り返し続け、寄りかかるばかりの幼稚園生を卒業し、その子とは小学校が変わった。
地獄の始まりだ。
どうすればいいのか、頭ではわかっていながらも、声を掛けられるのをひたすら待っていた浩二は、どんどんと周りと溝ができ、気づけば進級し、クラス替えがあり、そこでどうにか動こうと、あの子がしていたことを必死で思い出し、立ち上がり、かつてのあの子に近いものを感じた席の前へ行ったものの、声が出ない。
どう声をかけていいのかわからず、あ・・とかすれ声が出た。
席の正面に立たれたその子は、訝しげな様子でこちらを睨み、あのさあ、と機嫌が悪そうに口を開いた。
あの子とこの子は違ったんだ。と悟った瞬間だった。
それと同時に、機嫌が悪そうにされることと、沈黙が心底嫌いになった。
そんな寂しい浩二には、よく行く山があった。
ご存知の、「入る分には構わないけど」山だ。
心配した親が探しに出向いても、噂がよぎり、「あんな臆病な子が来るわけない」と感じて別の場所を探しにいく山。
なので浩二には、好都合だった。少し韻を踏んで、今の浩二がニヤッとした。
別にそれを狙ってかくれんぼをしていたわけではない。ただ、山に入れば近所のどこかが目に入らない。
だから、あちこちを見つめて、「あの家には今頃、おうちに遊びに来た友達がいるんだろうなあ」だとか、「今入っていった子、スーパーの中で何買って遊ぶんだろう」だとか、その両方の感想の後に続く、「何か運命的なものが働いて、ぼくんちのインターホン鳴らして、あーそーぼーっていってくれないかなあ」なんてことを考えなくてすむから、山に入っていただけであった。
山には自然しかない。子供にはこの山は、かなり急で、あまり動物も見かけないため、誰も虫取りに来ない。でも心のどこかで、『虫取りに来た子供と仲良くなる』想像をしている自分がいた。
一日かけていける場所まで山を登って、そのうち疲れて下って。それを繰り返しているうちに、段々と体力がついていって。
その内、登りながらあちこちを散策する気にもなって、目に付く所に入っていった。やっぱり山はたいしたものはなかったけれど、二つだけ、気になるものを見つけた。
山の木々が生い茂っているどこかにあった壊れた小さな社と――その社を目印に歩き回ると見つかる、新めの小屋だった。
何度来ても毎度留守のその小屋に、友達を欲してそうっと入ると、植物の種のようなものが、溢れるほどに入った籠で視界がいっぱいになった。
中にも入らずじいっと観察すると、その種は歪なものばかりで、まん丸やガラスの破片のようなもの。三角だったり、折り紙のように折りたたまれていたり、少しだけ繋がっていたり、平らだったりする。
そして、物珍しいのはそれだけではなかった。
そのかごが置いてあるのは、木のカウンターの上だったが、それを囲うように棚が置かれ、やっぱり中にはさっきの種まみれの籠が。籠には、白い紙で値段が書かれ、見たこともない数字の多さに、さらに困惑したのをよく覚えている。
そして棚の中の種は――色別に別けられていた。
長くなったがそういうわけだ。
まとめると、相田浩二は、ギャグや韻が好きな社会人。臆病で物静かな幼年期から何も変わらないで大人になった。
昨日は疲れ果てて布団で寝て、今日は、シワシワでヨレヨレのスーツ姿で、連絡もせずに休み、ぼうっと大きめの鞄二つとナイフと縄を持ち出し、見慣れた景色を観光中だ。
そして今、大人の常識から見ても異常な色と見た目と値段をするくせに、閑古鳥が鳴いていたどうしようもない小屋から、ありったけの種を盗もうという算段だ。
ナイフと縄は、仮に中に人がいたときのためにとってある。
どうせいても、浩二が子供の頃からの店のことだ。どうせいるのは老人、それも一人だけだろう。
じゃなくちゃあ、誰かしらあの頃に出会っているはずだ。
そんなことを思いながら、辺りを見回す。
先ほどから、汚れきった大人の浩二にはもう見えない、とでも言うかのように、あの社への入り口が見つからない。
いつも何となく、入り口になるそこが、そこだけが他と違って見えていたのだ。
霞がかった記憶を辿り、ギリギリ思い出せる感覚は、「キラキラ」?しているように見えていた。
そこになんだか寂しさを埋める何かがあるような、そんな予感がしていたのだ。
キラキラァ・・・キラキラァ・・・・
呼びかけるように、あの頃の感覚をたたき起こして、背も屈めて再現をして、また周りを見回した。
呼びかけに答えるようなキラキラは現れない。
でも何故か浩二の目は、一点を射止めたまま離れようとしない。
あそこだ――!と直感が感じた。
何の変哲も無いように見える林の一点。その中に勢いよく駆け込んでいった。
ガザガザと木の葉が音を立て、枝や葉が顔中を切り刻んでくる。
でも浩二の足は止まらない。止められなかった。無心で衝動のままに突き進んでいく。
なにかいる―――!!
目に飛び込んできた紫色の頭。いや、違う。正確には紫がかっているのは頭の先や毛先。きている服のてっぺんのみと、裏地だけだ。
後はみんな白の大きすぎるシャツの後ろ姿が見えた。
何故だかそれに、大きな高揚感と感動を覚えながらも、足が止まらず、ぶつかることなんて、紫頭が目の前にきてから感じた。
足がスーツにつまずき、ぶつかるっ、と目を強く握り締めるようにつむった。
予想していた衝撃が自分に――ふりかかりはしなかった。
「あ、れ?」
驚き、緊張の糸が緩んで目が開いた。
目の前には紫頭ではなく、木があった――次の瞬間、鼻と唇と額に衝撃が走った。
予想以上の衝撃であった。
「ああああ・・・・大丈夫かな・・・」
背後で、か細い高めの声が小さく言う。
浩二は動けないまま数秒固まり、林との長い口づけから離れると、ふらっと後ろ向きに倒れこんだ。
「あ・・・!あ・・・ああ・・・・どうしよう・・・・」
薄れゆく意識の中、その反応に、自分と似たものを感じた。
男の人が倒れたまま動かない。
でもどうしよう。自縛霊じゃ触れない。というか、自分が見えてなかった様子だったのに、どうして突っ込んできたんだろう。この人は。
頭の中に、普段よりも落ち着いて冷静な自分と、どうしようどうしようと、目を白黒させている自分同士がいるが、とにかく今は人命救助が優先だ。
男が顔面を強打した木の後ろにある社に急ぐ。朽ち果て、今にも錆びてきそうなこの社には、この少年自縛霊の行動の源である土地神様がいる。
自縛霊の現在は、彼女がいるから生きていける、という状態だ。まるで恋でもしているようだけど、そんなことはない。
階段を二段上がった位置の、賽銭箱の奥の小さな建物の引き戸を開けようと手を伸ばして、やめた。そういえば今はものがつかめないのだった。
ふよふよと浮いて近づいて、声をかけた。
「ねえねえヨミ。今大丈夫?」
少し遅れて冷めたように落ち着いた反応が返ってきた。
「どうしたの、自縛霊。今はお客もいないし手は開いているよ」
自縛霊。と個人的に、名前じゃなく職業名のような感覚のもので呼ばれ、慣れないなあ、と顔をしかめる。
「あのね、そこで――っていっても見えないだろうけど、木に突っ込んで気絶しちゃった人がいてね、運びたいから力を分けてくれないかな」
その言葉に反応して、引き戸が独りでに開き、中の鋭い目つきと目が合う。
「どこ?手も開いているし、私も行く」
一瞬目の合った、月のような色の瞳は、すぐに気絶した男を探し動かされた。
「丁度この木の裏で伸びてる・・・・」
困り果てたように言うと、ヨミは自縛霊の言葉の裏のなさをよく知っているため、瞬きを二度して原因を考えた。
「――ああ。引き寄せられたんだね、社に。よし、じゃあ触れるようにするからできる限りがんばって。そのうち合流できると思うから。クルメは――どうせ店から出ないか。じゃあまたあとで」
そういうと返事も待たず瞳が閉じられ、スゥッと透けたかと思うと、部屋は殺風景な社の中身のみとなり、ゆっくりと引き戸が閉められた。
ヨミの物言いからおそらくもう触れるのだろう、と自縛霊は来た道を引き返し、仰向けに伸びたままぴくぴくしている男にそっと手を伸ばした。
手は頬を突き抜けず、触った感触もあった。
これが最近の彼の行動の源だ。自縛霊である彼は、土地神に力を分けてもらうことによって、行動の幅が広がっている。
なら大丈夫だ、と自縛霊は男のお腹側に回ると、脇から手を通して両手を祈るようにつなぎ、男の身体を起こした。
「あああ・・・・酷いや。これって治るのかな・・・」
意味不明な行動を取った男の人の顔面は血まみれだった。
死んでいない以上、救急車でも呼んだほうがいいんだろうか。
でもそうしたら実はその中の誰かが自分がふざけた見た目の紫頭じゃなく、この山で自縛霊になった者で、もう死んでいる事実に気づくかもしれない。
覚えていないけれど、この頭だ。目立たないわけがない。
そう思いながら別の話題が頭をよぎった。
自縛霊には本来、未練があるはず。だからその場から動けずに浮遊し続けるはずなのだが、僕には記憶がない。
悲しいことに自縛霊になって日も浅いため、自分の中にある情報すらも、かなり少ないのだ。
そして他はともかく、自分自身の記憶が帰ってくる気配は毛頭ない。
いいや。そんな考えてもしょうがないことは、どうでもいいよ。と、話題の中止をして、また、自分の外見の奇抜さを考えながら、起こしたまま背中側に回り、体勢を変えないまま、ズリズリとひきずった。
自分のように、死んでいるんだったら対応は酷く単純で、死体を主に、店の商品の材料や実験道具に。
それらではなくとも、物好きに売り払ってみたり、研究所に送りつけてみたり、山に捨てずに良い具合に再利用した上で、自縛霊となって動けぬ身になれば小屋に住まわせ、そうでなければお寺の場所を教えてあげるだけ。
対応が簡単に済むのだ。
これが生きていると厄介で、応急処置をして何日かベッドに寝かせて、目が覚めても当分の間、看病をする。
看病自体はいいのだが、その間人間の社会では色々と問題が発生するらしい。
「行方不明」だの、「無断欠勤」だの――騒がれてしまうと、帰るときに気まずいではないか。
話し相手になりそうな唯一の人間はこうして伸びている。自縛霊は寂しい気持ちを思考で塗りつぶし、社を起点にまっすぐ上へと上がっていった。
昔は社からすぐの場所に店を構えていたらしいが――今も最終的にはまっすぐ行けばつくが――もっと遠く山道の途中の目に付く場所に移転したのだ。
昔のままだったら店までは相当近かっただろうなあ、と思いながら自縛霊はただ引きずるのみだった。
顔に――違和感がある。あるべきはずの感覚がないような、妙な感じ。
その違和感に何となく、嫌なものを感じて目を開けたくない。
でもあけなくてはこの背中にある柔らかいベッドの感触と、お腹から下にかかっているものが何なのかわからない。
そうして違和感を無視して目を覚ますと、木目の天井が目に映る。
自分にかかっていたものは、薄手のブランケットのようだった。身体を起こすとあたり一面血の海だった。
どうやらこのお宅には、相当迷惑をかけたらしかった。
後で謝り倒そうと覚悟を決め、ベッドから降りて床に足を付いた。
ふらふらと壁に手をやりながら扉を開けると、そこには見覚えのある光景があった。
籠ではなく瓶詰めされた種の軍団がまた、カウンターを囲んでいた。
やってしまった。よりにもよってこのお宅にお世話になるとは。
嫌な汗が流れ、全てが終わったことを自覚した。
「お!起きたかー」
間延びした声がカウンターからした。けれどカウンターには人がいない。
「ちょっと待っててなー裏側に荷物つめてるからー」
言われて見れば、何かをテキパキと置くような音がする。
手伝わせてください、とでも言いたかったが、そんな勇気があれば今頃ここにはいない。
「うし、終わり。よう!ドロボウさん!」
バッと勢いよく顔を出しながら男がとんでもないことを言い出した。
な、何を根拠に!失礼ですよ!
そういいたかったが、やはり長年の習性なのだろう。黙り込むしか出来ることはなかった。
「何かいいたいなら言えばいいのに。意外とお前が思ってるほど、世の中は怖くねぇよ?」
自分の考えを見透かしたような男の発言に、目を見開いた。
それを見てケラケラと笑う男。男の動作につられて高い位置のポニーテールも動き回っている。
もしや、店主だろうか。それにしては相当若いが。代替わりでもしたのだろうか。
「なあ、喋ってみろよ。俺、お前のこと大分詳しくなったから、どんなヘンなこと言っても大丈夫だぞ」
何故か喋ることを強要された。強要されても習性だから困るんだって。
「だんまりだなあ。なー相田くぅーん。俺、お話聞きてぇなあー」
「はっ!?」
思わず声が漏れた。男はうれしそうにニヤニヤとしている。
やられた。どうせ胸ポケットの名刺でもみて――と、そこまで思ってから、それは昨日寝る前に机に置いたままだと気づいた。
「・・・んで、知って・・ですか?」
所々言葉にならず胸の内で消えていきながら、浩二は尋ねた。
待ってました!と男はハキハキと喋りだす。
対極過ぎて苦手だ、とやや思い始めている浩二は、この男と会話をすることになりそうな未来に嫌気がしていた。
「俺ね、相田君がここに担ぎこまれてきて、ウチのかわいい助手が手術してる横で」
「し・・じゅつ?」
表現がおかしいではないか。そういう時は決まって『応急「君の記憶をね」処置』というはずだ。そして助手が「吸い出して、一回」いるのか。いいなあ――「全部見たわけよ」少し羨ましくなってしまった。
―――――今、何て?
なんだか思考の途切れ途切れの場所で、とんでもない一文を聞いたような気が。
浩二はぼんやりと聞き取れていた言葉をつなげてみることにした。
「手術している」 「記憶を」 「吸い出して」 「見た」
今年最大の衝撃が、瞬く間に更新されれていく。今年最大は、きっと木にぶつかったときだろう。と思っていたら「よう、ドロボウさん!」でベスト更新をし、たった今、塗り替えられた。
「・・・・じ・・・じゃあ・・・その・・・・・た、た、・・・例え、ば・・・・ほくろの・・・・位置、とか・・・・」
なにかの話で似た状況の登場人物が、そんなのを聞いたのを思い出し、思わず声にした。
でも、僕の聞き間違いだったらどうしよう。全部聞き間違いで、実は全部英語とか・・・空耳とかだったらどうしよう。
そんなありえないことが頭をよぎっては消え、よぎっては消え、返答を待つこの時間が無限のようにも思えた。
「そ、う、だ、なあ・・・」
言葉のつまりに合わせて首をねじり、顎に手をやりながら、店主が考え込んだ。
「・・・・右足の、裏もも。修学旅行に行ったときのお風呂場の鏡で、はじめて気づいた」
息が詰まった。まさにそれは、浩二がたどってきた記憶だからだ。
「ど?合ってるでしょ?んで、他に同じ位置にほくろ持ちがいないか、そわそわしながらお風呂に浸かって探してた。結局、中々隠れて見つけにくい位置だし、湯煙でよく見えなかったから該当者がいなくて、落ち込んだ」
その通りだ。そして帰ってきた布団で声を殺してひっそり泣いて、我ながら女の子みたいだと思ったのは、きっとこの人の優しさから言われなかったのだろう。
「ちなみに・・・俺、左のひざ裏にほくろあるぞ。位置は違うけど、中々自分じゃ気づけないよなあ」
しみじみと店主が言ってくれた。
別に悪い奴じゃないのかもしれない。対極そうに見えて、この男も寂しかったりしてくれたら、うれしい。仲良くなれそうだ。
「あ・・・・ありがとう・・・ございます」
はにかみながら、全力の勇気でお礼を言った。正直これでもう限界だ。
「いーえ。でな?共通点もあることだし、俺たち仲良くなれそうだろ?」
撤回する。この男はやはり馴れ馴れしくて苦手だ。
「まー・・・あれだ。お前のことは俺は何でもお見通しだし、何言っても失望されねぇし、むしろ大分気に入ったわけよ。そんな生意気な俺になら――欲望の一つや二つでも言えるんじゃあねぇだろうか」
欲望――その言葉に、幼かったころの思い出が駆け巡る。
でもこんなこといってどうするというのか。
自分が変わらないのはいつものことだったじゃないか。
浩二は必死で言わない理由を探した。
ここまで言いように言われ続けて、それでもまだ、いい子ちゃんで言われるがままなんておかしいじゃないか――いや、確かに僕の人生はそんなことばっかだけどさ――どうしよう、いい言い訳が思いつかない。
この男は不気味だ。対極で苦手だ。でも、なんだかそこまで離れた感じもしないし、ほくろの話で励まそうとしてくれたり、悪い奴ではないはずだ。
ひょっとして、浩二のことを理解してくれようと、しているだけじゃないのだろうか・・・?
そんな考えがよぎり、『言うだけいって、駄目ならそれで・・・きっと、店主がよくしてくれるだろう。』と、自分の脳みそが結論を出した。
「じ、じゃあ・・・・その・・・望みを、言いますね・・・」
少しばかり、緊張がぬけた口調になった浩二は、すぅっと強く息を吸って、飲み込むように口の中に留めると、出せない吸えない苦しさのあまりハアーッと息を吐き出し、強制的に緊張から違うことへ頭を向けた。
浩二が発言しなくてはいけないときにやる最終手段だ。
店主もそれをわかっているらしく、顔を上げると優しそうに目を細めていた。
「ぼ・・・・僕の、望みは・・・『友達がたくさん、いて欲しい』」
かなりの沈黙の後、小声で「です」、と付け足してまた俯いた。
「・・・・そうかあ」
どうやら店主は考え込んでいるらしく、また顎に手をやって遠くの棚を見ていた。
よく見ると店主の目はめまぐるしく動き回り、何かを探しているようだった。
沈黙が苦痛で、でも何かいえるわけでもなく、黙り込んでいると、
「よし、あれだ!」
店主が叫んでカウンターから駆け足で出てきた。
「相田くん安心しろ!」
肩を強くつかまれ白黒する自分の頭。
「俺がその望み、叶えてやるよ!この、『記憶シュ』で!」
言いながらポケットを探った彼の手には、あの種が握られていた。
記憶シュといいながら取り出された種と、店主の勢いに困惑しながら、やはり何も言えずにいると、フッと笑って店主が種を、ジーンズの横側を縦に裂いたようなズボンの中にしまった。
「おうい、もう出てきていいぞー!」
と店主がカウンターの向こうの薄手のの垂れ幕がかかった場所に声をかけた。
声に反応して誰かが動き出すような物音が聞こえる。
な、なんだろう。やっぱり望みを聞くだけ聞いた後に、嬲り殺されるんだろうか。
ああ、泥棒なんてするもんじゃなかったんだ。こんな小心者が。
なんてこの世とのお別れを感じながら遠い目をしていると、垂れ幕が手に押しのけられて、中から誰かが出てきた。
「あっ・・・」
「ああ・・・よかった」
見覚えのある紫頭が、浩二を見るなりホッとした顔を見せた。
一瞬の上、後ろ姿しか見えず気づかなかったが、紫頭は、大きめのシャツの下にロングブーツという、中々せめた格好をしていた。誰狙いなんだ、一体。
浩二は、あのときには見えなかった正面顔を見て、すごく中性的だと感じていた。でも何となくの勘が、少年じゃないか?と言い出していた。
「うん。治療、うまくいってるみたいね。順調そう」
そしてもう一人。今度は知らない少女がいた。
黄緑色の髪を少しずつ段を付けて伸ばしたような髪形に、着物のような上着と袴らしき何かを着ている。
両方の隙間と袖には、秋冬に着そうな、ラインの入ったインナーが見えている。
しかし何だ・・・コスプレみたいだ。
着物風のそれは、右前にされた部分が、下に向かうつれてどんどん細くなり、袴のベルトあたりに来ると、それは雫型の装飾物に変わっているし、袴は二枚、布が重なっていて、両端で意図的に分かれた二枚目には、六芒星が縦に密集している。
コスプレではないだろうか?やはり。
「んじゃあ、双方自己紹介よろしくー」
店主が自分も名乗っていないのに、ひらひらと手を振って垂れ幕の向こうへと行こうとする。
ところが、一切振り向かずに少女に服を鷲掴みにされて、「先にあなた」と静かに言われていた。
「あーハイハイ。じゃあ俺からね」
けだるげに両手をあげて来た道を戻り、彼は紫頭達と同じくらいの位置で止まった。
「俺はクルメ。みあけクルメ。「記憶シュ」の店長してるみあけクルメ」
やたら名前を主張してくるみあけ店長。
みあけ?みあけとは、どんな字を書くのだろう。実開とかだろうか。
「この人、ニュース番組で、『今日未明、久留米市の・・・』から始まるニュースの冒頭を聞きそびれてね、未明を『ミアケ』って読んで、『久留米』と一緒に、響きが気に入ったから、って名前にしたの」
コスプレ少女が滅茶苦茶な由来を教えてくれた。
何だそれ。ペット感覚で自分の名前を改名するなよ。しかも読み間違えてるし。
やはりいい奴ではあるが、コイツとは仲良くなれそうにもない。
人から付けて貰った名前の重みを分かっていない。
「しょうがねぇじゃん。この仕事してくうちに、自分の記憶すら合ってるのか分かんなくなるし。だったらそう思った日にやってたニュースの方が、記憶よりも正確じゃんか」
なんだか理解の外にある哲学的なことを言い出した。
それに仕事って、この店お客さんがきちんと来ているんだろうか。大繁盛とは言わずとも、そこそこにぎわっていたら、その言い分も分かりはするが。
「だとしても、読み間違えたまま名前に使っていいわけじゃ・・・ないんじゃない?その、名前に失礼じゃないかな?」
紫頭が言いたかったことを代弁してくれた。浩二は、こういうことを言ってくれる人と仲良くなりたい、早く名前が知りたい。などと思ってから、自分の性格の悪さに気がついた。
何でもかんでも人に言わせて自分は傍観者か。と。
「確かに。でも読み間違えて覚えたとしても、それも縁じゃない?俺は縁を大事にしたい」
縁で紫を言い負かそうとする未明店長。
「じゃあ・・・・みめいにすればいいんじゃ・・・」
てっきり紫が言ったのかと思ったら、自分だった。紫の行動で背中を押されたらしい。
予想外の僕の発言に、未明は目を丸くして黙り込んだ。
しまった。なんていわれるんだろう、とビクビクしていると、
「・・・喋った!余りの俺の横暴っぷりに相田くんが喋った!でも一応未明ってよめるから、俺これがいい!」
すごくうれしそうに興奮しながら言われた。
けれど断固として苗字の読みを譲らない未明店長。そんなにこの人にとって縁というのは大事なんだろうか。
「もういいから。自己紹介しておけと言いつつ、私たちさせてもらえてないし。いい加減喋らせて」
未明店長を横に押しのけるようにして、コスプレ少女が前に出た。
「私は、ヨミ。この山の土地神よ。」
コスプレ少女は脳内までコスプレしているんだろうか。
「クルメのしているこの仕事には、土地神の許可を得なくてはいけないから、判子だけ押したらつれてこられたわ」
ヨミさんは、はぁーと長い溜息をついて、眉間をもんだ。
「ちなみに、怪我人だったあなたの手術をしたのは私。怪我の様子を見るために、これから定期的に通ってもらうけど、病院だけは行かないで。穢れる」
この人も癖が強そうだ。病院はむしろ清潔にするところではないだろうか。
それに、おかしいではないか。
「あ・・あの・・・しゅ、手術をしたってことは・・・どこかで、医師免許・・・もらったんですよね・・・?」
と、言い出してから、もしかしたら病院に勤めていた頃に何かあったのかもしれない、と感じて黙ってしまった。
「いいえ。無いわ」
――ああ。ここの人は紫以外まともなのはいないらしい。
浩二は自分がとんでもない人に手術をされたのだと、自分の愚かさと運の無さを呪った。
「だって、医師免許を持っていたのは私じゃないから。ほら、あれを見て」
よく分からないことを言うと、ヨミさんは未明のポケットを指差した。
「クルメ。その種をよこして、紅茶を出してきて」
落ち着いた良く通る声で、未明店長に指示を出した。
「はぁーい」
嫌そうに未明店長はヨミさんに種を渡し、奥へと引っ込んでいった。それを見た紫がそうっと奥へと戻っていった。手伝うのだろうか。
「この種にはね、誰かの記憶が詰まっているのよ」
また、とんでもない冗談が始まった。記憶を見る、の次は記憶が詰まった種か。
もう滅茶苦茶だ。
「私は種を飲んで、外科医の知識を頭に詰めた。そしてあなたに手術を施した、そういうわけよ」
浩二は頭を抱えたい衝動に襲われた。言っていることがファンタジー過ぎて、もうどうしたらいいのかわからない。
「まあ習うより慣れろ、よね。ほら、紅茶が来たわ」
ふてくされた顔をした未明店長が紅茶を二つ運んできた。
「おまちどーさま」
「はい。ご苦労様。机と椅子は?」
「僕が」
未明の後ろに隠れていた紫が、机に椅子を二つ乗せてやってきた。
小屋の木と同じような材質の机と椅子を下ろして、慣れた手つきで机の左右に椅子を置いた。
そして未明店長がその上に紅茶を二つ置いた。
「はい。じゃあこの中に種を入れるわね」
種なんか入れて飲めるのだろうか、と思っていたら入れられた種がじわあっと溶けていく。
まるで砂糖か何かのようだ。
「では、相田浩二くん」
名前をきっちり呼ばれた。もしかしたら自分の情報はここ三人に回されているのかもしれない。なんて浩二は思った。
「ここに、種の入った紅茶と、そうではない紅茶があります。そうではないほうからお飲みください。」
「え・・・・えっ・・・と、どっちに・・・座・・・れば?」
少しばかりお喋りができていたはずなのに、聞きにくい質問を挟んだためか、また口ごもりながら喋ってしまう。
「お好きなほうに。でも決めにくいなら、私がこっちに座るわ」
そういって、ヨミさんは浩二から見て奥の方の席に腰掛けた。
「あとでここの選択すら簡単になってしまうわ」
そういってヨミさんは小さく微笑んだ。
その笑みにつられて、恐る恐る腰掛けると、湯気のたつ、種の入っていない紅茶が、目の前にあった。
飲まなくちゃ、どうしようもないんだろうな。と周りの空気でわかってきていたため、とりあえず口にした。
ほんのりと苦味のある、あたたかい紅茶だ。特にこれといって変わったところは無い。
「では、こちらをどうぞ」
ヨミさんがそっとカップ同士を入れ替えて、種の入った紅茶が目の前に置かれた。
飲まなくては、いけないんだろうか。飲まないという選択肢は無いんだろうか。
種の解けた謎の紅茶。いや、おかしいのは種の方だろう。そんなもの、飲みたくも無い。
黙りこんだまま固まっていると、紫が口を開いた。
「それね、相田さんの願望が叶う種なんだよ。それを飲んだら、変われるよ」
願望――変われる――友達がたくさん――浩二の頭は、もう動いていなかった。
状況に流されるがまま、喋れもせず、動揺してばかりで、いよいよ強盗までしようとした自分が、変われる・・・?
そう頭の中で思った頃には、カップが手に取られていた。
カップが口に付けられる。
そして、口の中に注ぎ込まれた。
とたんに頭の中に映像が高速で流れ出す。
映像に合わせてぐちゃぐちゃとその瞬間瞬間に感じられてきた感情があふれ出してくる。
目の前が真っ暗になって、感情と映像だけが反響するかのように何度も何度も流れていく―――
「ご馳走様でした!おいしかったです!」
飲み干した浩二は満面の笑みで三人を見た。
「こんなおいしい紅茶をどうもありがとうございました!もう種ってよりかはこの紅茶のおかげでしゃべれるようになった気がするんですよー!だってそれくらいおいしかったでですから!またきてもいいですか?今度は紅茶のパックかなんか教えてください!買っていきますから!」
口からスラスラと言葉が出続ける感覚に動揺し、浩二は目を丸くしながら話し続けていた。
「ええ。経過観察があるから次は三日後に着て頂戴。盗みに入るくらいだから、金品なんて持ち合わせていないでしょう?お代もそのときでいいから」
「ああ!ありがたき幸せ!」
浩二はわざとらしく片膝をついてヨミをあがめるように両手を挙げた。
頭の中でバチバチと電線が壊れたような妙な音がしている。
「それじゃあわたくしはこれで!今度は誰か連れてきましょうか!?きっと声をかければここを必要としている人がたくさん――」
「あー大丈夫。今度も一人で来てくれよな。それに記憶シュのことはあまり広めるな。後々自分が後悔するぞ」
クルメが面倒そうに言った。
こんな不甲斐ない自分に何か忠告してくれている!!
「了解しました!また来ますね!それではっ!」
両手をブンブン振ってうれしそうに犬が尻尾でも振るように、浩二は扉を閉めた。
「ふー・・・・・」
閉めた瞬間、ずっと身体を動かしていた謎の衝動が収まり、浩二は余りの変化にすっかりくたびれていた。
そして、記憶を飲んだためかずっと、声が聞こえ続けている。
『何とか喋りきった・・・怖かったー・・・』
この声色は、間違いなく浩二が記憶を飲んだ『長谷川君也』のものだ。
長谷川君也は、現在社会人。
昔からそのトーク力で多くの友人を得てきた――のだが、その記憶を飲んで、好き嫌いから、それこそ、ほくろの位置まで完璧に把握してしまった浩二は今、二つの記憶が混じりあって奇妙な感覚に陥っている。
「さてぇ!帰ってお上さんにごめんなさいっ、って謝んなきゃ!無断欠勤なんて人間がしていいことじゃあない!!」
この発言は浩二にかなりのダメージを与えているが、そんなことはお構いなしに、浩二となった長谷川君也は喋り続けている。
「・・・それで、菓子折りもって明日出勤したら、その後休みだし!斉藤君と柊誘って・・・あー、俺今、君也じゃないんだった」
ついついいつもの癖が――と、思いながら浩二は脳内で斉藤と柊が誰なのか思い出していた。
斉藤大我は、後輩のよく遊ぶ相手。彼の父と兄が政治家で、人脈が広いため、仲間が多いが彼自身は不良に近い。
柊誠は、長年の友人。小中高は同級生で、大学が違っていて、社会人になったら取引先で再会した。こちらも一時期芸能界にいたため、人脈が広い。
そんなわけで二人ともよく遊ぶ――遊ぶのだが、今は無理だ。
何せ顔が違う。
声も違うし、二人には俺しか知らないこととかないし、上手く俺が君也だってことを立証できねぇなあ・・・
浩二の思考を半分のっとった君也は歩きながら考えていた。
それにしてもコイツ、顔はまあまあしっかりしてんだから、もう少し磨いたら光りそうだな。
俺の新しい人生はこの顔で行くしかないんだし、とりあえず休日は自分磨きするかあ。
どうにか半分残った浩二は考えていた。
コイツは――未明店長が可愛く見える程、対極で、かつ苦手だ。
どうにかしてコイツを追い出したい――それに、自分の思考に入ってきて気持ち悪い。
まあただ記憶を共有してる分、思考回路はわかるし、情は沸くが・・・。
君也には、『喋らなくては』という脅迫概念が備わっている。
おそらく原因は、八つ上のお姉さんだろう。
彼に物心がつく頃には、お姉さんは十一歳前後。そしてお姉さんはとても寂しがりやで心を痛めやすく、よく泣いていた。
その泣き顔をどうにか晴らしたい、と小さな君也は奮闘した。
色んなことを試してみた。沢山沢山話しかけた。
お姉さん、こと結衣歌ちゃんは、君也が喋っている間は黙って涙を流しながら聞き続け、喋っている時間が長いとそのうち泣き止んで、ごめんね、と小さく泣く。
反対に、喋りつかれて君也が黙りだすと声を上げて大声で泣き始める。
お姉さんとしても、幼い弟の話は聞いていなくちゃ、という必死な気持ちで起きた事故だったのだろう。
でもそれが君也にとっては、喋り続けていなくちゃ泣かれる!という、「喋らなくてはいけない」自分自身への追い込みとなっていたのだ。
浩二にはそれがよく解った。
しかし、君也は見て見ぬふりをし続けているのか、自分の異常な追い込みに、全く興味を示さない。
浩二は記憶を全て取り込んで、『新しい君也の記憶』なんて現れないことはよく分かっているはずなのに、君也のことがすごく心配になった。
家路に着くと、君也は独り言の通り、電話をした。
よく口が回る君也は、無断欠席の理由を『かける電話番号を一つ間違えて、運よく繋がり、あせっていたので留守電に全部ぶちまけて慌てて外出した。
欠席の理由は、彼女のご両親が危険な状態で心身ともに弱って過呼吸気味の彼女を助けるため』とした。
そしてその言い方は、浩二のオドオドとしたしゃべり方そのものであった。
演劇でもしていたんじゃないか、と疑いたくなるが、残念ながらコイツにそんな経歴はなかった。
ただ事実として、かける番号を一つ間違えて正しく繋がってしまった記憶と、姉が過呼吸で、どうにかなりそうになりながら、救急じゃなく自分に電話をかけてきた記憶が、君也の中にはあった。
噓の中に真実を混ぜ込ませる技術はどうやら常習犯らしい。かける前、ろくに思考していなかった。ほとんどアドリブだ。
そうして上司から『じゃあ明日も休みでいいよ』との言葉をもらい、『申し訳ありませんでした・・・』としょぼくれた返事をして君也は電話を切った。
いまさらではあるが、ただ記憶を飲んだだけなのに、まるで操られているような感覚だ。
相田浩二、という人格は、そもそもなかったんじゃないだろうか?
…そんな気さえ起きてくる。
それとも浩二の、さほど主張をしない性格が裏目に出ているだけだろうか?
浩二は自由気ままに動き回る君也の、感性や行動を抑制しようと、すっと息を吸って、大声を出すことにした。
「あのっ!」
大声は確かに出た。
周りの通行人が立ち止まって、目を見開くくらいには。
「あ・・・」
どうしよう。どうしよう。やってしまった。
君也以外は見えていなかった。
――でも、なんとなく。勇気がわいてくる。
そしてわく勇気と比例して沈黙が恐ろしくなってくる。
「お・・・ぼ、僕、人探してるんですよー!」
とっさに頭が回りだす。この思考をしているのは果たして浩二なのか君也なのか頭の隅で気になった。
「『長谷川君也』っていうんですけど、ご存知ありませんかー?」
ニコニコ笑顔を浮かべながら、周りの人に近づいていく。
周囲は少し引き気味に、え、いや・・・だとか、知らないなあ・・・と言葉を濁す。
「長谷川くんなら・・・知ってます」
一人華奢で黒髪の女の子に近づいたとき、打ち明けるように彼女がもらした。
「え?ど、どう知ってるの?」
この話し方は浩二のように思えたが、浩二の脳内では、反応しているのは君也の方だと確信した。
――彼女は、長谷川君也が恋心を抱いていた相手だ。
川上亜子。
それは友人の人脈によって、様々な人間を見てきた君也にとって、唯一の癒しであった。
友人や知り合いが多いということ。
そこからは、人がいることで得られる沈黙の少なさ。終わらない話題に充実した時間。そんなものばかりではなかった。
確かに人脈も友人も多い。が、人と触れ合いすぎたが故に、人間の黒い部分も多く見てきた。
打算的でずる賢く、腹黒い。人というのは飽き性で、深いかかわりをしているように見えて、結局皆表面上の付き合いしかしていない、というのはざらにあった。
その中でも、いくつもの事を同時にできる、性別:女。は非常に厄介だった。
考えていることがわかりにくく、こちらはどんなに裏をかいても最後はいつもしくじる。
だから仲良くなりたい異性というのは、あまり物を考えていない子でも、賢すぎる柔軟なやつでもなく、丁度その中間に位置する、『知識はあるけど経験の少ない、土壇場で緊張するような子』だった。
それが彼女。川上亜子であった。
彼女は君也が知る限り、中学時代の同級生の中でも、特に優等生であった。
授業態度はすごく真面目で、勤勉。そしてよく図書館にいる。
借りている本は基本的に遭遇するたびにジャンルが違う。
そういう君也は何故図書館なんて場所にいたかというと、中学時代の友人の一人が時々勉強のために訪れていたからだ。
そいつが遊びに出かけるための「勉強してきます」という決まり文句を、ごくまれに忠実に守っていた時に、君也も同席していたことがあった。
勉強が終わったらに出かける約束だったのだ。
そいつを待ちながら暇をもてあましていた君也は、図書館に並べられた興味のわかないどうでもいい本のタイトルたちを眺めて過ごしていた。
そうしたら彼女がいた。
うれしそうに本たちをいとおしそうに眺めるその姿に、心が動かされた。
思わず声をかけて、パッと花が咲いたように微笑んで見せた彼女につい、
「お、俺もさ、よく本読むんだわー亜子さんはどんなのが好き?」
なんていってしまったのがいけなかった。
数日は話に花が咲いてニコニコしながら難しい話をする彼女に、必死で追いつこうとする君也。
言われたことは彼女と別れた後に記憶が許す限りメモを取って、時間があれば本を読み直し、彼女に追いつこうとしていた。
しかし今まで遊んでばかりの、何より沈黙を作ることが苦手な君也に、読書が長続きするわけがなく、それに加えて友人まみれで予定が山積み。誘いを断れば、ノリが悪い。と沈黙が発生する。
沈黙がおきると頭の中はパニックになって、目の前が、白黒。そしてその後は何も手がつかないのだ。
どうしたものか。
そう、困り果てていたある日、ついに気づかれてしまった。
「君也くんってさ・・・本当は読んでないんだよね?・・・上辺だけ調子を合わせてるって感じ。それに――正直、周りにいっぱい人がいる人って、上っ面だけって印象だったから、そんな人と本の話で盛り上がれるのか、不安だったし・・・」
最後に本音らしき言葉を残して、川上さんは去ってしまった。
よりにもよって、君也が欲していた沈黙を破る存在たちがあだとなって。
それで彼女との縁は切れてしまった。
そんな川上さんが目の前にいる――!!!
君也は興奮しているようだった。
そして俺のことを覚えてくれてる!!
浩二の出る幕などない様だった。そもそも出会えたのも、僕が君を追い出そうとして、声を上げたおかげなんだけど。
なんてチラッと思いながら、君也と彼女のやり取りを傍観することにした。
「ね、お、俺のこと、どう、知ってるの?」
自分が今誰の身体を借りているのかも忘れて、君也は声に出した。
川上さんの目が見開いた。
「も・・・もしかして、長谷川君、なの?」
浩二は思った。
見た目も、身長も、(記憶で感じる目線が明らかに上なため)声ですら何もかも違うのに、そう思われるってことは、相当忘れられてるのだろう、と。
「そ、そう!そうなんだよ!」
君也はうれしそうに肯定した。まるでかつての川上さんのように、花が咲いていた。
「うれしいなあ!実は俺、色々わけあって、身体が違うんだよ!あーでも整形とかじゃなくてね?なんか、乗り移った、みたいな?んで、この体の中にもう一つ人格があってな、ソイツと今、共同生活してる・・・カンジ?」
そんなこと信じてくれるんだろうか?いやでも、確か彼女が好きだった本の内容に、似たようなのがあった気が――
「・・・なにそれ!面白そう!」
川上さんが目を輝かせた。君也の記憶の中にあった、彼女の『不思議なものがあって欲しい』という願望は健在だったようだ。
「ちょ、ちょっと待ってね。とりあえず一旦うちに帰って、昔の連絡網引っ張り出してくるから、そこから君也君のお家に電話してみよう!」
頬を赤くしてうれしそうに笑う川上さん。
そして会話の主導権を一切返してくれない君也。
「あ!ありがとう!実は番号、登録してそのまま使ってたから全く覚えてなくって!」
なんだろう。この疎外感は。
勝手に僕の体を使って盛り上がるんじゃないよ。
と、浩二は色々なことを諦めながら、主導権が返ってくるまで、君也の記憶を遡りながら暇をつぶすことにした。
君也の記憶は、ザッと中学から社会人一年目あたりまであるようだ。それから、基本情報である、姉のくだりのみ。
それ以前は見当たらない。記憶に残っていないだけか、あの種に収められるのには限界があるのか。
それとも都合が悪いところだけ抜き取っているのか。
なんにせよ、そういった真実が分かるのはあの店に行く三日後か、主導権が返ってきてからだろう。
君也の記憶は、どれもこれも沈黙を怖がっていて、周りには沢山の友人がいた。
でも君也の記憶の中の友人達にも、友人が大勢いて、それぞれそこまで、深い関係にはならないでいた。
女性との交流もたくさんあったし、性別関係なく裏切られた経験も多い。
君也の中には常に、充実感と恐怖心が混在していた。
それを経験したように感じている浩二もまた、
もう人間関係とか、友達とか、どうでもいいや。満足感は得られたし。
という気持ちであった。
『友人が沢山』。
その願いで得たかった気持ちは君也の記憶を解して知れたし、君也みたいなちゃらんぽらんな人間にも、トラウマだったり、怖い物があると知って、少しばかり好きになれそうなので、もうそろそろいい加減主導権を返してはくれないだろうか。
浩二の体を使って、川上さんと昔の連絡網を必死で探す君也に、浩二はそう告げてみた。
――川上さんに夢中な君也からは、一切の返答は返ってこなかった。
こいつ。本当にただの記憶なんだろうか?
浩二は頭の中で深いため息をついたのであった。
トゥルルルル・・・発信音が鳴る。
浩二が考えるのを止めて呆然と君也越しに目の前の光景を眺めだすこと一時間――ようやく連絡網が見つかり、君也は浩二の携帯で電話をかけ出していた。
『はい。長谷川ですけど。』
疑うような、怪訝そうな女性の声がする。
浩二はそれが君也の母だと確信した。そして怪訝そうにしているのは、知らない番号からの電話だからだろう。
彼女はいつもそうだ。知らない物に対して疑ってかかる。
「あの・・・君也くんは、いますか・・・?お、おれ、君也くんの同級生なんですけど・・・」
君也がまた、浩二の物まねをし始めた。しかも事前に川上さんにこれで行くという、設定を話していたが、完全に浩二のそっくりさんだった。
浩二はうんざりした様子で目頭をもみたくなった。何でこんなに似てるんだよ、畜生。
それに勝手に同級生にするなよ。
『あ、そうなの・・・?ええっと・・・君也に会いたいのかしら?・・・だったら、遠慮してくださいせん?』
母は意外なことを言った。普段なら絶対、そんなことを言わない。
母は疑り深いのに非常に素直で、それ故に大抵のことは挙動不審にならずに言えば理解してくれる。
まあ、そんな母だから色々なものに騙されて、それ故疑うようになったのだし、だから母は君也の中で、『例え他人でも信頼できる女性』、になっている。
流石にその母でも『息子』がいるのに『息子』から電話がかかってきたら疑うだろう。
と、君也は同級生に成りすましたんだと思う。
浩二は結局、考えていた内容とは別の結論を出した。
「あ、えっ・・・と、それはどうしてでしょうか?・・・おれ、すごく会いたいんですよ。会って話がしたいんです」
このとき、横から内容を聞いていた川上さんが、片手を伸ばして「電話を変わってくれ」、というジェスチャーをしていたが、君也は片手を上げて断っていた。
『でも・・・君也、変わってしまったんです。あなたがいつ頃のお友達か存じ上げませんけど、会わないほうが悲しくなりませんから・・・』
母の声は落ち込んで、今にも泣きそうだった。
君也の脳裏に、姉と沈黙の姿がよぎる。
君也は今も生きて、実在している。
そしてその君也に変化が起きたのなら、かなり精度の高い確率で、原因は今浩二が保持している記憶が欠落しているからだろう。
浩二はこの記憶を返さなくては、という強い使命感にかられた。
「行きます!君也君が今どうなっていようと!僕には会って話さなくてはならない義務があるんです!」
突然立ち上がり、強い口調になった君也をみて、川上さんが目を丸くしてこちらを見ていたのが、目の端に映った。
そうだろう。この口調は、かつて知っていた君也でも、さっきまで話していた臆病な浩二の物まねの口調でもない。
この身体の真の持ち主である浩二自身の声だった。
「君也がいるのは、変わらず実家ですか!?だったら今すぐにでも行きますから動かないようにお伝えください!」
言うが早いか、母の「ええ」がギリギリ聞こえるか聞こえないかというところで電話を切り、川上さんを見た。
「ありがとう!どうにかなりそうだよ!今度はちゃんと、君也として話に来るからね!」
「え・・・?あ、う、うん」
呆気に取られた様子の川上さんを気にも留めずに、浩二は走り出した。
川上さんの家ははじめて来たけれど、このあたりの地理はよく知っている。
君也が友人と遊び歩いていたおかげで、抜け道や住宅街に詳しいからだ。そして、その記憶は君也のものだ。返さなくては、君也は君也ではいられないのだ。
浩二は無我夢中だった。自分の中にある君也の人格に愛着がわいていたのもあるし、何より自分が持っていることで人が変わってしまうきっかけになるのなら、返して元のままでいて欲しい。
その一心で山登りで鍛えられた身体を動かし続けた。
「ハァ・・・ハァ・・・」
ひざを手で抑えて、肩で息をしながら浩二はその家に到着した。
顔を上げると『長谷川』と、表札の文字。記憶の中にある家もこれだ。
そしてこの場所は、かつての浩二の家の近所であった。浩二が奇跡が起きることを願いながら眺めていた住宅街だった。
インターホンを鳴らしながら、浩二の頭には君也に対する愛着が、ただ単に記憶を飲んだから、ではないような気がしていた。
今思うと君也の雰囲気に既視感がある。なにかこう――ずっと前にあったことがある気がする。
既視感の正体を探ろうと、自分の記憶を漁っていると扉が開いた。
「あなたが・・・電話をくれた方?」
その瞬間、君也の記憶に引き戻された。
ああ、母だ。すごく見覚えのある。
「はい。そうです。君也くんはいらっしゃいますか?」
彼女は少し黙り込んで、じっと浩二の方を見た。
何だろう、何か審査でもされているようだ。しかし浩二は君也のことで頭がいっぱいで、それを見つめ返しながら、どうやったら通してくれるかを考えていた。
「・・・・もしかして。こうじくん?」
「え?」
目を細め、ううんと考えながら彼女は正解を言った。
やはり既視感はただの記憶ではなかったんだ。
「ちょっと待っててね。確かアルバムがあったはず」
そんなことをいいながら奥に引っ込んでいく母。
正面に誰もいなくなったので、いそいそと玄関まで行き、それでも待っていて、といわれたので大人しく待っていることにした。
でも、誰だろう。どんなに記憶を探っても思いつかない。
あんな派手な男なら関われば覚えているし、アルバムがあるくらいなんだから、浩二と君也の仲は中々のものだったのだろう。ニッと口の端が緩んだ。
そしてまさか、たまたま覗いた記憶の一部になれていたとは。すごい確率だ。浩二の持っている記憶にはどちらにも残っていないが。
それが唯一惜しいところだ。と考えていると、母が戻ってきた。
「お待たせ。ほら、あったよ」
そういって彼女が開いたアルバムのタイトルの端が一瞬映った。『稚園』。
稚園なんて書く場所はひとつしかない。
そして写真の中にいた浩二は、あの子だ――あの子に肩を組まれていた。
あの、浩二によく声を掛けてくれていた活発な子供。
熱心に声を掛けられて、その輪にいるだけで楽しめたあの時間。
それを作り出した張本人。
――長谷川君也と相田浩二には、幼稚園時代の共通の記憶があった。
「やっぱりそうよ!」
君也の母がうれしそうに声を上げる。
「君也が昔すっごくお世話してた子!あ!お母さん元気?もう何年かしら・・・あの頃はお母さんともよくお茶したわあ!」
さっきまでしおれていた母の元気が、一気によそ行きモードと本気の興奮で復活した。
そう、君也の記憶がいっている。
「あ・・・えっと、ハイ。母さん、元気です。」
「そう!よかったわあ!今度会いましょうって電話しなくっちゃあ!」
興奮のまま、一人色々と思い出話を始める母。こういうときの母には、返事や相槌などはなくても構わない。
浩二は自分のことに目をやることにした。
頭の中では君也の数年間の色々な記憶がグルグルと回っていた。丁度、あの紅茶を飲み干したときのような感覚だ。
でも、確かに。今思うと、浩二が苦手とする自分と対極の相手――そもそもそれを苦手になったのは、幼いころのあの子供、君也との生活が恋しくて声をかけに、似た雰囲気の人の席に立ち止まったことが原因だった。
そして彼が歩き回った記憶の場所は皆、浩二の知っている地名ばかりで、何よりも既視感。
―――もっと早く気づけた!
今更ながら後悔した。
「あ、ええっとその、君也君は今、どこに?お話してきてもいいですか?」
頭の整理が一通りついて、君也の所在を尋ねた。
この間、一人で何も合いの手がなく話し続けていた母は偉大だ。
我が家のおっとり物静かで、小声ツッコミを得意とする母さんとは違うタイプ。
「あ!・・・そう、よね。そうだった」
ハイテンションの母の様子がシュンとまたしおれだした。
そんなに今の君也は酷い状況なのだろうか。
「お通しするわね。きっと・・・期待してたあの子の姿ではないだろう、けど」
言いながら落ち込んだ顔で二階へと上がっていく、母。
浩二には、中学から社会人の序盤までの記憶しか知らない。君也が浩二と同級生なら、今は社会人三年目のはずだ。
二年間で、なにがあったのだろうか。いいや。それを差し引いても、きっとこの記憶さえあれば――
「君也。お友達」
短くいって、彼女は扉を開けてその扉で自分を隠すようにした。
君也の今の姿がそんなに見たくないのだろうか。それとも、君也に自分を見られたくないんだろうか。
浩二は、目線を正面へとゆっくりと向けた。
閉じられた射光カーテン。ラグの上に折りたたみのテーブル。近くに勉強机と、本棚。正面奥にベッド。
カーテンの柄だったり、置いてある本だったり、少しずつ相違点はあるものの君也の記憶のままの部屋だった。射光カーテンとベットの上で胡坐をかいて、軽く首をこちらに向けている青年を除けば。
「長谷川・・・君也、くん。だよね?・・・僕は、相田浩二。幼稚園の時、一緒だったんだ・・・でもそれはついさっき聞いたばっかりなんだけどね」
言いながら少しずつ距離を詰めていく。
「・・・僕の勘違いだったらいけないんだけど、君さ、中学から、社会人なり立ての頃の記憶・・・ないんじゃない?」
君也の目が見開かれて、身体がこちらへと向いた。
「・・・・なんで」
そのかすれたような声に、傍から見る君也の印象は一切感じられなかった。ただ唯一、内面を知っている浩二からすれば、沈黙を恐れていた君也の面が強く出ているだけだろう、と解った。
今の君也には、トラウマも、実績もほとんど経験していないはずだ。だから沈黙に強く、そして社会に脆いのだ。
「・・僕と一緒だ」
思ったことがそのまま出た。突然の発言に、浩二自身もあわてる。けれど、呼吸を整えて、じっと彼を見つめた。
僕は今、そんなことに焦っていられないし、もう焦らない。
度胸の塊のような君也の記憶を持っているから。
「君のね、なくした記憶を預かっているんだ。今は僕が。前は――きっと、未明って名前の、ポニーテールの店長さんが」
いいながら浩二は両手でポニーテールを結ぶような、はたまたちょんまげでも結うような、髪をまとめるしぐさをした。
「ミアケ・・・・・・・クルメ、だったか」
どうやら、あの店に来たことがあるようだ。当然といえば当然だが、浩二にはまだ少し偏見が残っていて、君也みたいな、軽そうなノリの男も、あんなに苦労して山を登って店まで行ったんだろうか、なんて思った。
「確かに・・・・預けた。というより、あげた・・・・いや、すてた・・・・だから君は・・・・それを持っていってくれ」
流石に君也だ。言葉につまりはするけれど、そこに迷いや緊張は感じない。
「いいや。君也にはこれが必要だ。僕が保障する」
「違う。いらないよ。俺はそれを、捨てたんだ・・・・捨てた瞬間、晴れ晴れしくて愉快な気持ちになれた・・・・あの興奮と感動は、紛れもなく、その記憶が要らない証拠だ」
段々つまりが減ってきた。もしや、最近話していなくて言葉の出が悪かったんじゃ、と心配になる。
「・・・じゃあ、今の君は充実しているの?」
半分、諦めるような気持ちで聞いたそれに、それは・・・と、言葉が濁った。
じゃあ今は押すときだ。君也の会話も、そうやって話を進めてきた。
「そうじゃないなら、一緒にあの店に行こう。・・・・僕は、君の子供時代なら大抵のこと、知っているけど、それでもどうして記憶を捨てたのか見当がつかない。それってつまり、記憶を捨てたくなるようになった理由は・・・君の中にあるんでしょ?そしてそれを確実に把握しているのは・・・おそらく、君と、あの店だけだ」
君也の口が、半開きになったまま止まった。すっと息を吸うが、その先が言葉にならないようで、その動作を二度、三度として――諦めたように長い溜息をついた。
「しょうがないなぁ・・・・他ならぬお前の頼みなら、聞いてやるよ」
よっこいせ、と立ち上がってベットから降りた君也の表情は、諦めたように笑っていたけれど、明るかった。
「こ・・・ここ、登るの・・?マジ?」
「そうだよーほら、行こう?一回いったんならいけるって」
久しぶりの登場の、『立ち入る分には』山は、かなり急なのだ。
毎日毎日歩き通しでここで体力をつけた浩二ならともかく、さっきまで声も満足に出なかった君也には中々厳しいものがあるのだろう。
少し登るたびに、ハァハァとすぐに息を切らして、苦しそうに座り込んでいた。
「・・・・そうだ・・・滅茶苦茶苦労して、ついたの思い出したわ・・・・お・・・・・おまえ、よく登ったな・・・・」
「そりゃあ、ちっちゃい頃通いつめてたから」
「・・・なんでさ」
「・・・寂しかったから?」
「ワケわかんねぇ」
君也の記憶のおかげで、すっかり真顔でおとぼけができるようになった。
たった一日足らずでここまでになれるのなら、やはり積み重ねてきた記憶というものはそれだけ偉大だった、ということだろう。
だからこそ、その偉大な記憶を元の持ち主に、君也に返したい。
「な、なあ・・・もうさ、素直に全部はなすからさ・・・帰ろうぜ?」
余りの険しい登山に、君也が音を上げて浩二の袖を引っ張った。
「いいや、帰らない。」
キッパリと言い放つ。
「君に事情を話して欲しいよ。話してくれるのはすごくうれしい。でも、それ以上に返したいんだ。記憶を」
こんなにも自分の舌は流暢に意見を言えるのか、と険しい顔をしながら感心した。
そして浩二の険しい顔つきを見た君也は、諦めたようにうな垂れて、立ち上がりとぼとぼと再び歩き出した。
「・・・お前さ、覚えてなかったわけ?」
唐突なその質問に、少し考え込む。何のことだろう。この君也と浩二の間の共通の話題というと、幼稚園時代か。
「小さかった頃のこと?・・・・うん。会うまでは、ぼんやりとしか」
今でなら霧がかってよく思い出せなかったあの子の顔は、君也だと記憶にも鮮明に映るし、記憶で共有していたとはいえ、実物の声や体格、仕草や言葉遣いを聞いていると、思い出してくるものも多い。
そういえば、うちの母さんと、君也の母はよく一緒に出かけてて、その間いつもみたいに一緒に付き添うんじゃなくて、どちらかの家で遊んで待ってる!なんて言って座り込んで駄々をこねていたなあ――君也が。
結局、二人だけじゃ危ないから、と連れて行かれたが。
でもその次の機会かその次の次くらいで、一緒に長く家で遊んだような気もする。
「・・・・・・・名前も?」
「・・・うん。ごめん」
流石に、名前どころか顔も出てこなかった、とはいえない。
ハァ・・・俺に、今、教えろっていってんの・・・お前にも、いろいろあったんだろ?」
山の急さがまた応えてきた様で、君也は苦しそうにひざに手をやって押し、猫背になりながら、いってきた。
ああ、そういうことか。
「僕は――ずっと君也が恋しかった。あんな風に世話を焼いて、話しかけてくれて、そのおかげで周りにずっと人がいたのは、あの頃だけだったから。だから追い求め続けたんだ、君也のような誰かを」
結局は見つからず、それで自暴自棄になったおかげで、今会えているわけだが。
「それは・・・・素直にうれしいな。なんだよ、それ・・・もっと早くいえよ」
声色が、また変わった。最初の方はまた照れたような声だったのに、最後の方は苦しそうにいった。
きっとそれは、急斜面で苦しいからではないのだろう。
浩二の知らない記憶のどこかからなのだろう。
辿っていったら最終的に今保持しているこの記憶に、結びつく何かになるかもしれないが、それは聞いて見ないと分からない。
「君也みたいな子に、話しかけようとしてみたこともあったけど、僕はずっとされるがままでいたから・・・・声が出なくて。それで諦めだしたら、そこからは早かった」
どちらにせよ、店に着いたら解ることだ。浩二は詮索せず、話を続けることにした。
「僕は本当に、今日までずっと、人とまともに話せなかったんだ。話すのが恐ろしかった」
「・・・・・・とてもそうとは思えないな」
その言葉に、目頭も胸も熱くなった。
「それはね、君也の記憶で背中を沢山押されたから、だよ」
入り込んできた君也に、どうにか抗わなくちゃ、と必死だった。そうして勇気を出して大声を上げたら川上さんに会って、そこでまた君也が出てきて、諦めて君也のことを知る時間に回した。
そしてかかった電話で、僕の心が動き出したんだ。
手招きをしたのはすべて君也だった。浩二はただ、身体と記憶の間に挟まって、招かれるがままに動いただけだったのかもしれない。
「僕には・・・・君也がいないと駄目なのかもしれない・・・昔も、今も」
言ってから、そんなことを言ったら君也はますますこの記憶を取り戻さなくなるんじゃないか、と不安になってきた。
「・・・俺の捨てたそんなもんに、そこまで価値を見出してくれんのは、浩二だけだわ」
こちらも、浩二につられたように、なんだか泣き出しそうな声色だった。
「・・・・・・話してもいいか。俺の、今ある記憶の話」
しばらくの沈黙の後、君也が口を開いた。
「うん。聞かせて」
浩二はあまり動揺しないように、できるだけ優しく答えた。
「・・・昔の俺はさ、知ってるかも知れねぇけど、すごく人と喋ることが好きだったんだよ。だって、喋ることで相手が俺の知らないことを教えてくれるんだよ。それは、相手自身のことだったり、俺の知らない話だったり、色々だけどさ」
それはあまり覚えがない話だ。こちらの君也にはない記憶かもしれない。それとも、沈黙の恐怖で、見えにくくなっているだけだろうか。
「でも・・・大人になればなるほど、『話す』っていう、それは、ただの手段になってって、で、昔の俺みたいに自由に楽しめなくなってった」
それは浩二も知っている情報だ。そうなっていくにつれて人に対する疑心暗鬼の目が深まっていったんだと、把握している。
「話す、って言うのは、普通もっと、こんなに、俺みたいにさ・・・・大切な存在なんかじゃ、ないんだろうけど・・・・俺にとっては、ゲームとか、食事とか、旅行とかさ、色んなストレス発散方法よりも、コレだったんだ」
そんなに大切な存在なのに、どうして部屋で一人きりだったんだろう。浩二の背に嫌な汗が流れる。
「それだけじゃあ、ない。なんていったらいいんだろ・・・生きがい?とか、恋人?みたいな・・・もちろん純粋で健全なヤツね・・・そんな、感じだったのよ」
浩二には、君也のさまざまな記憶の統計から、先の展開が読めてきた。予想が当たれば、それは君也にとってとんでもなく苦しかったのだろう・・・・。
「話すの、好きだしさ、営業の仕事に就いたわけよ。始めは・・・楽しかったんだと、思う。そっちにいってるし、もう、覚えてないけど。
でも、段々他の人と差を感じ出した。やっぱり話すのって、「仕事」で。楽しみたいのは、俺だけで。やっぱみんな、話しながら全然違うこと、考えてんの。「話すことでどうやって誘導しようか」だとか、「どう利益に結び付けようか」とかさ・・・」
やはりそれで、話すことが嫌いになってしまったのか。
「俺、考えたのよ。この「会話に対する執着」を捨てれば、仕事をする社会人として、全うになれるって。もっと、好きでいる対象を別のことに置き換えられれば、って。でもどうしても、長年好きでい続けたけたものだから、手放せなくって。
俺、「記憶シュ」の話を聞いたとき、思ったんだ。「だったらその、「長年」を捨てればいいんだ」って」
そうか。おそらく君也には「会話への好意」を捨てることは、身を切るのと同じだったんだ。
例えその裏に「会話が止まって起きる沈黙への恐怖」があろうとも、会話への好意はずっとあったんだ。
だから今、浩二の手元にはないんだ。
「だから、長年を捨てた。俺には「会話」を捨てられるほど、非情になれる男じゃ、なかったんだ」
そして、君也は立ち止まった。
小さな木製の小屋。少しやつれたような木の具合で、立てられてからの年数を感じる。
周りの木々が、揺れている。浩二の心を表わすようだ。
扉の上の看板には「記憶シュ」と書かれていた。
あの店、こんな外観だったのか。
店を出たときはすっかり君也に乗っ取られてて、それどころじゃなかったし、入ったときにも浩二の意識はなかったから、奇妙な話ではあるが、今がこの店の外観を見た第一印象の時間だ。
看板の「記憶シュ」のシュの部分には_がひいてあり、今の浩二になら、それが「種」の「シュ」であるとわかる。
看板ばかりに目がいっていたが、この小屋、窓がない。
やはり浩二のようになってしまう人間がいるから、外から見えないようにしてあるのだろうか。それとも、あの密集していた棚が多すぎて窓をふさいでしまうから、作らなかったのか。
「・・・どうしたんだ?早く行こう」
不思議そうな顔をした君也が、引き戸に手をかけていた。
何で引き戸なんだろう、と新しい疑問が浮かびながら、君也の後に続いた。
「いらっしゃい・・お。おかえり」
また内側の棚の整理でもしていたのか、気配に気づくと未明店長がカウンターから顔を出した。
「相田くん、と、長谷川くん。一緒に来たってことは――呼び出したのは相田くんだなあ?そして御用は・・・返品と見た!」
びしっと指を指して得意げな表情でこちらを見る店長。
今日の内にあったばかりなのに、その動きや声に懐かしさを感じてしまう。
「え、あ、いや、俺はまだ、納得してません」
君也が戸惑いながら自分の意思を伝えた。
「そりゃあ、そうだろうねぇ。中々に固い決意でここまできてたし・・・ね、相田くんに、事情は話したの?」
カウンターから身を乗り出すようにして、いまだに少し距離のある位置にいる浩二と君也を覗き込むようにする未明店長。
「あ、はい。さっき。経緯だけ」
「ふぅん・・・・じゃあさ、その後も言わないと相田くん突っ走っちゃうんじゃない?」
全て知り尽くしているかのような口ぶりに、頭に疑問が浮かび上がる。
君也は山に登る時、すごく辛そうだったのに、なんで未明の店長はそんな飄々と君也に聞き出すのか。
「あ、別に内容は俺知らないよ?」
僕の疑問を解消するように教えてくれた。これも人を沢山見続ければ習得できるんだろうか。
「たださー記憶を扱うものとしてのカンがさあ、全体的に『上手くいってない』ってカンジするんだよねえ」
頬杖をついて、退屈そうにうつむき気味で未明店長が喋る。
君也はここに来るまでに身だしなみは、もちろん整えてきたし、服の趣味も、傍から見ればいつもの君也に見える。
記憶を扱う者のカンは、刃物並みに鋭いようだ。
「えっと・・じゃあ続きを・・・」
少し戸惑い、ちらちらと浩二と未明店長とを行き来した視線が、ピタリととまった。
「記憶を手放した俺は、その後いつも通りに出社した。確かに、仕事が昨日までよりずっと、普通に出来るようにもなってた。でもそれは最初の内だけで、日に日に、どんどん執着がよみがえってきた」
記憶を捨ててもなお、君也の中にその気持ちが少しでもある限り、きっとまた大きくなっていくのだろう。
君也の会話への愛はそれほど深いのだ。浩二はそう理由付けた。
「結局は元通りで。俺はもう嫌になって仕事を止めた。人と話すのも、どんどん会話に毒されてくみたいで、嫌になった・・・風を装って本当は逃げたかっただけかもしれないが」
君也は、会話への気持ちに噓が付けないようだ。
「相田くんはどうよ?どうして記憶を返したいワケ?」
突然指で作られた二本のピストルが浩二に向けられた。
少し驚いて肩が跳ねたが――焦らずにはなし始める。
「僕は・・・ここを出てからの何時間かで、すごく沢山の変化がありました」
「そうだねえ。こんなにスラスラじゃなかったよ、相田くん」
人からそういってもらえると改めて、変わったんだと自覚できた。
「その何時間の間で、僕は沢山君也の記憶を見てきました。それを通して人との関わり方とか、たった一つの例でしかないですけど・・人がどう思ってどう感じて、どう考えて動いているのか――それも知りました。」
横の君也が小さく微笑んだような気がした。それはきっと、何度か見た諦めの微笑なのだろう。
「そして今、君也にはこんなに素晴らしい経験の塊が、全部抜け落ちている。それも自分の意思で。だから僕は戻したい。この記憶の中にある全てを持ち主の元に。この中には良い経験ばかりじゃないし、確かに君也が手放したいと感じるものも沢山あるよ」
でも。それでも。原因を知ったらなおのこと。
浩二の視線は君也を見つめて離さなかった。
「君也の思う『話すことに対する愛情』は、紛れもなく個性で、才能だよ。その才能が生かせる場所は絶対にあるよ。安易だけど・・・カウンセラーとか。利害とかなく、人の話を聞くための場所でさ」
『話を聞く場所』。きっとそれが君也に向いている、君也が長年求めていた居場所なのだろう。
「そうしたらさ!やっぱり話すためのスキルが必要になってくるじゃない。僕の中に留まってる君也の記憶にはさ、そういうものがいっぱいあるから――つまり、君也の中にはあ沢山抜け落ちているんだよ。拾って帰ろうよ?」
僕はどうしても君也に自分の記憶を認めてもらいたくて、君也の手を取った。
触っていれば少しは戻らないかな、と馬鹿らしいことも思ったけれど、それよりも納得して戻してもらいたかったんだ。
君也は黙り込んだまま、握られた手に視線を向けていた。
そしてパッと手を離すと、顔を上げて浩二の頭を人差し指で押した。
小突かれた浩二が目を丸くしていると、ニッと記憶の中に沢山あったいい笑顔の君也がそこにはいた。
「しょうがねえなあ!浩二がそこまで言うなら仕様がないな!やってやるよ!要は俺の性格を熟知した俺が、新しい仕事先を見つけてきてやればいいんだろ!?楽勝よう!」
明らかに少し無理をした様子の君也が、それでもすごくうれしそうに笑みを浮かべて腕を振り上げた。
「りょーかい。じゃ、ヨミ呼んでくるわー」
気の抜けた軽いノリで未明店長が垂れ幕の向こうへと消えていった。結局、店長には話聞いて貰うだけで、店長らしいことしているところは見なかったな。
今更だが、記憶の抜き取りってどうやるんだろう。
記憶の吸収は紅茶だったから、何の身の危険も考えずに来てしまったけど・・・。
「な、なあ。記憶抜いたときって、どうやったんだ?」
こそっと耳打ちをすると、君也があざとく微笑んだ。
「――チックン」
注射針を刺す位置に人差し指を立てられた。
「え?」
何故記憶の吸収のときは紅茶だったのに、その逆が注射針なのか。
引っ込んでしまった未明店長に問いただしたくなってきた。
「戻ったぞー」
「いらっしゃい、二人とも」
「い、いらっしゃいませっ」
ヨミと一緒にあの紫少年が顔を出してきた。また机と椅子を抱えて。
あれ?そういえば、名前聞いてないな?
記憶の作業が全部終わったら聞こう。間違いなく記憶に残そう。と固く決心した。
「あ、未明店長。君也から聞いたんですけど、どうして紅茶と注射針なんですか?記憶の出し入れ」
聞こう聞こうと思っていたことのもう一つを未明店長に近づいて尋ねてみる。
大丈夫だとは思うが、もし記憶が抜かれるときこういう変化した部分も丸々君也へと行くんじゃないか、と不安がよぎる。
「あーまあ、俺らがやりやすいからなあ。とはいっても別に一種類だけじゃねぇのよ?記憶をきちんと脳から取り出す手術とかもできるし、針じゃなくて薬を飲んで口に手をいれて出したっていいし・・・記憶を埋め込む方もまあ色々あるけど、どっちも針や紅茶よりかは、やろう、って気ィしないっしょ?」
と言いながら、紅茶の方の安を知らない浩二はぼんやりと頷き、記憶の埋め込みの方を一切知らない君也は不思議そうな顔をし、両者の中途半端な表情をみて、今度は未明店長の目線は、紫少年へと向けられた。
うんうんうんうん、と首を縦に振る紫少年。早く名前が知りたい。
「じゃあ・・・覚悟はいい?」
いつの間にか、ヨミさんに腕をつかまれ袖が捲り上げられていた。
本当に注射を打たれるんだ、と注射が大の苦手だった浩二はふいっと君也のほうに目線を向けてしのぐことにした。
「ん?もしかして苦手?」
目線に気づいた君也が近づいてきて耳打ちをした。
小さく首を縦に振る。苦笑気味に君也が反対の手を取った。
「はい。手握っててあげますねー」
「・・・・恥ずかしいな」
「だろ?その恥ずかしさで紛らわしちまえよ」
それに小さく笑って返そうと思った瞬間、チカッと目の前が点滅した。
君也の記憶同士ばかりが、混じりあって濁流のように右下へ右下へと流れていく。
右下の腕には針が刺さっているはず。ということはこれが、記憶を抜かれる感覚か。
すすられた長い麺になった気分だ。それも極太で、脳内がズルズルと吸われる記憶のことでパンパンになる。
視界は明滅し、身体全体の感覚はないし、ぐにゃぐにゃと世界が歪む。
頭の中では君也の記憶が容赦なく吸われていく――
――止まった。
記憶がぬけていく感覚が止まり、そして針が抜かれる感覚の後に、自分の体の感覚が戻ってきた。
「お、おお。やっぱり皆泣くもんか。すごかっただろ」
君也が驚き、少し安堵したように言った。僕は泣いていたらしい。
「だ・・・って、こんなの頭滅茶苦茶なる・・・・!」
まだふらふらとしているらしく、君也に近づこうとすると前のめりになり、とっさに公也の腕にしがみついた。
「おー。種も一個だったし、サイズも変わんない。喋り方見ても問題はないな?」
君也の背後から未明店長が顔を出した。
「は・・・はい」
浩二としては、作業を事務的に進められて不満だらけなのだが、きっとこのぐしゃぐしゃの気持ちになっているのは浩二だけなのだろう。
何か、とんでもなく大事なものがぬけたような感覚だ。終わってみるとものすごく気持ちが良い。それになんだか妙に笑いがこみ上げてくる。
君也の言っていたことはこれだったのか。じゃあ君也にとっても、とても大事なものがぬけた感覚があったのだろう。
もう本当にないのか、と記憶を探ってみる。
君也が考えていたことや、たどってきた道のりが、自分が考えたことから考察するしか手段がなくなっていた。
考えてなかったあれやこれの記憶は、何も思い出せない。
覚えているものも、ぼんやりと川上さんとか、柊がどうとか、斉藤?だとか・・それくらいしか出てこない。実際に会ったはずの川上さんもぼんやりと記憶に霧がかかっている感じだ。
君也の記憶から出ていた人格にすっかり乗っ取られていたからだろうか。
「あれ?じゃあ俺の大きな種、紅茶を作る材料になるんですか?」
君也が不思議そうに運ばれてきた紅茶を眺めている。今回も未明店長が運んできている。もしかして、今日の出来事をとことん再現しようとしているのだろうか。
今回も紅茶は二つ。
でも机のほうに配膳される前に、一つ目の方は未明店長からじきじきに手渡された。
ないとは思うけど、間違えたら大変だしな。とボソッと呟かれた。
そして紅茶が置かれるとおいでおいで、と未明店長が手招きをした。
されるがまま動揺しながら席に着く君也。
ヨミさんがさっきの注射針の中で挟まっている、見覚えのある種を取り出した。
同じ記憶だから同じ形になるんだろうなあ。とあの時と何の狂いもない形の種が紅茶に沈められるのを見守っていた。
種はまた砂糖のように溶け出し、すぐに消えて溶け込んだ。
「それでは、相田くん席についてくれるかしら。ご一緒に飲み干しましょ。特に意味はないけれど」
ヨミさんまでこの謎の再現に乗り気のようだ。最も前回はタイミングは一緒ではなかったが。
そこまで異論はないので素直に座る。
「では・・・さん、はいっ」
紫少年の合図ですっとカップを傾ける浩二と、傾けたはいいものの中々勇気が出ずに飲む音が聞こえない君也。
あれ?君也も再現に協力してる?と思いながら飲んでいると、グッと傾けて飲み干すような音がした。
思い切りがいい。流石に浩二とは違うようだ。
飲み干して、紅茶を置いた。今、君也の中では色んな感情と記憶が混じりあって何度も何度も記憶が行き来しているだろうなあ。と思いながら若干ピクピクと痙攣している君也を見つめる。
自分がやった、同じ記憶だから安心して見れるけど、これ、一緒に付き添いか何かで来た人は殺人を疑っちゃうだろうなあ、と静かに君也が戻ってくるのを待っていた。
そういえば、自分のときは飲み干すまでに時間がかかっていたからか、飲み干してから痙攣している時間はなかったな。
やはり自分自身の記憶だと違うのだろうか。中々戻ってこない。
「も、もしかして・・医療ミスとかじゃ」
なんてヨミさんを見ると、
「もう戻ってきてるよ。構ってもらえなくて、ふざけてるだけ」
と指を指された君也に目線を戻すと、さっきより酷い体勢で白目をむいてわざとらしく痙攣していた。
「はあー・・・君也。悪質だよ、君也」
立ち上がって、君也の頬を二度三度叩いてやる。
「だってさあ、痙攣してるってのに、すっごい冷静でおっかねぇし。浩二」
どことなく効きなれた雰囲気の口調に、酷く安心感を覚える。記憶にはほとんどないが、君也と似ているんだろう。
「だって僕は飲んだことあるから。それにさっきも、ヨミさんにやってもらって無事に終わってるし、今更疑わないよ」
「ひっでーもうちょっと心配しろよー」
口数の増えた君也がなんだか愛おしいと感じる。もちろん、純粋で健全な友愛だ。
「さて。お二人さん。お財布はあるかな?」
「あ」
忘れてた。そういえば次来る時に財布を持ってくる約束だった。
そして君也もそれは同じで、半ば強引に連れ出したのもあってか、浩二と同じようなしまった、という顔をしていた。
「・・・なるほどねえ。息の合った二人組だわあ」
未明店長が苦々しい顔でさっきまで浩二がいた席に座り、机に頬杖をついた。
「じゃあ。また三日後にもってこいよ。怪我は記憶だけじゃ治らないし、怪我に対する痛みの認識が段々飛んでってる感じがするのは、ただ単にヨミがそらして日常生活に支障が出ないようにしてるだけだから」
「ん?怪我してるのか?浩二?」
そういえば怪我も忘れていた。と思っていると君也が不思議そうに口を挟んできた。
「まあ・・・そうなんだ。ここに来る前に木に思いっきりぶつかっちゃって」
「は!?それ大丈夫なのか!?」
机をバンと叩いて君也が立ち上がった。ボケーッと遠くを見ていた未明店長が振動で頬杖が崩れて机に顔面ダイブしていた。
「う、うん。それで倒れちゃって手術?してもらって、なんかいつの間にか君也の記憶を貰う話になってたよ」
あれ?そういえば、何か忘れてるような・・・
「ああ。それね。私が仕組んだからしょうがないの」
しれっと手を上げて、ヨミさんが爆弾を投下した。
「は!?」
「え!?」
「そうなの!?」
二人してヨミさんに顔を向けてどういうことか、と顔を歪ませる。そして何も聞かされてなかった様子の紫少年。彼もヨミさんに頭を向けていた。
「だから。相田くんが道に迷ってるのを見かけたから、社まで誘導してあげようかなあ、と。そのまままっすぐ行くと、ここにたどり着くし、自縛霊もいるから大丈夫かなあ・・・と思ったの。でも引っ張る力が強すぎたみたい」
ほとんど表情を変えずにケロッと白状したヨミさん。
彼女との初対面の時、なんだっけ・・・ああ。「土地神とか、頭までコスプレなのか」とか思ったけど、大丈夫。
ちゃんとコスプレじゃない、土地神様だったよ。昔の自分。ケロッといえちゃう価値観がもう神様だよ。
「え。というか、『自縛霊』って、なんて呼び方してるんですかっ!」
「何?いじめ?その呼び方」
確かに彼も初対面のときすり抜けたような気がしたけども。
「だって、自縛霊だもん。ほかに呼びようないし、仕方ないよ」
ほかならぬ本人がさらっといってのけた。
「それでも!いけないよ!」
「おう!自縛霊からどっかとって名前にしようぜ!えーっとえーと、ジ・バクレイ、みたいな!」
それは――いかがなものだろう。でも君也がのってくれてうれしい。
「じゃあ、濁点抜いてハクレイにしましょう!漢字!何が良い!」
いいながら胸ポケットをまさぐって、思いつく限り、漢字を書き綴っていく。
【白 泊 迫 箔 伯 拍 ・・・】
「一枚くれ!レイを書く!」
君也がそういってこちらもポケットからシャーペンが出てきた。
手帳を一枚破いて渡すとこちらも書き出した。
【麗 例 令 礼 麗 玲・・・】
「・・すげぇなあ」
「そうね。元々仲がよかったのがよく分かる・・・。ごめんね、ハクレイ。名前、考えてあげるんだった」
一番の身近な二人がそんな風にしみじみと言っていることに、記憶をつかさどる変人と土地神だから、この問題に気づけなかったのだろうか。なんて思いながら手を休めない。
「よし!」
「こんなもんだろ!ハクレイ!何がいい?」
君也がハクレイを見てうれしそうに笑いかける。
「え?え?・・・じ、じゃあ、白と、美麗の麗、で。なんか、相性よさそうな二文字、ですから」
丁度書き始めの二文字を指でさして白麗は微笑んだ。
うん。確かにいい漢字だ。
「じゃあ今日から君は、白麗!よろしくね!僕は相田浩二!」
なんだか感極まってしまって、名乗ってしまったけれど。
「俺は長谷川君也!」
そんな風にノってくれるのがうれしいのだ。
お互い誰に言われるでもなくなんとなく顔を見合わせて
「「これからどうぞよろしく」」
と、二人して頭を下げたのだった。
「なー帰っちゃったなあ、白麗」
「そうですねぇ。ちょっと寂しいなあ」
椅子と机を片付けながら、白麗が呟いた。
「珍しいね、そんなことをいうなんて・・でも、名付け親だから、恋しくなって当然ね」
ヨミがそういいながら今日使ったカップやら注射器やらの器具を消毒液に放り込んでいる。
ここは垂れ幕の向こう側。店の三人の住居スペースだ。
「それにしても、生きててよかったね。あぶなそうだったじゃない。自我が大事なのよ、記憶との同居には」
ヨミがそういいながらクルメを見上げていた。
「まー・・・確証は、なかったケド。自信はあったからなあ。何せ、幼稚園時代の幼馴染だろ?どうにか接点作って、相田くん、お人よしだから返しに行くと思ったんだよ。で、そんときに他者への関心が強い相田くんは、自我に目覚める――と。」
机に足を投げ出して、アンティークの紅茶をすするクルメ。当然中には記憶入りだ。
「その話も・・・前々から予定してたんでしょ。小さい相田くんを私に引き寄せるように毎日のように言って。で、最近白麗が見つかってようやく開業できたから、お客さん一号と二号を、あの二人にしたんでしょ。悪質だわ」
クルメは、幼少期のあの二人に会ったことがあるらしい。
そのときすでに、両方の問題を見つけて、小学校に上がった浩二くんには山へ登る趣味と、社。それから開業前の記憶シュを見せびらかして、君也くんには頃合いを見計らって記憶を捨てに来るように誘導して、両方の問題が解決するように、今日までずっと暖めていたようだ。
「でも・・・もし誰かが介入して、問題が解決しちゃったらどうするつもりだったんですか?二十年近く暖めちゃってるのに」
片づけが終わって白麗とヨミがそれぞれクルメの向かいの席に座った。
「絶対それはないな」
いいながら紅茶を置いた。
「相田浩二は「自分」に対して曖昧で自我が薄く、それを解決するには自分に対してもっと興味を持たなくてはいけないが、彼の関心は他者に向きっぱなしだった。
長谷川君也は「自分」に対して自我が濃いが、他者への評価に怯えっぱなしで、加えて「会話」への執着があった。
・・・大きな問題を起こすか、自分でこの現状に気づきでもしなきゃ、解決にはならねぇ。
問題が起きて、誰かが介入しようとしたらそれは言いくるめて止めてたし、自分で気づけばそれをエサに記憶シュへとつなげる。俺はどうしても自分でやりたかったんだ」
「エゴですね」
「うん。悪質よ、やっぱり。それって放っておいたらもっと早く解決できたんじゃないの」
何でそこまでクルメが二人に執着するのかわからない。
「だってよー・・・嫌じゃんか。せっかく長い間友人で入れる二人をくっつけずに、問題解決させちゃったら。問題を乗り越えるから、友情が深まるわけよ。あと、ああいうドラマチックなのってさ、一号と二号にはもってこいじゃん?」
結局は自分のためだった。とことんクルメの思考回路は色々な記憶が混ざっているからか、わかりにくい。
「さーて。明日からは俺が仕込んでおいたお客もガンガン来るし、もう寝ようぜ。想定外の何かが起きるまでは、また退屈になるかなあ」
とぼやきながら垂れ幕をくぐり、寝室へと消えていった。
「予定調和が嫌なら仕込まなくちゃいいのに」
白麗は心底そう思った。
一記憶。
引用先
閲覧くださり、ありがとうございました!!