頼ること、甘えること。
ひとに頼ったり、甘えたりするのがへたくそです。
とくに恋愛関係では、ものすごく苦手でした。
だから、たいがいお別れの理由は「だって、おまえ、ひとりでも生きていけるだろ」だった。きっと相手から見ると、甘えてこないし、可愛げがなかったんだろうな。
うん。そうだね。ひとりで生きていけるかもしれない。
じぶんでもそう思っていたので、なっとくだった。
でも、もちろん、もう一面のわたしもいた。いつでも誰かに甘えたいけれど、甘え方がまるでわからなかった。よくある括りだけれど、長女だからなのか、がまんづよいし、打たれづよいし、つらいことはとりあえず飲み込んで、対処できちゃうほうだった(そのせいか、反抗期もない子だった)。
だから甘えられないくせに、じぶんのことをわかってくれそうな人に出会うと、飛び乗って、依存しがちだった。
それでも最終的には、いつでもひとりで生きられるように在ることが、自分にとってのプライドだった。それはたぶん、今も変わらない。
ただ歳を重ねるにつれて、少しずつだけれど、甘えたり頼ったりができるようになってきた。
20代のピチピチの頃にできればよかったんだけれど…笑。40過ぎて、やっとこさ、やり方がわかるようになってきたんだ。
そのきっかけをくれたのは、お子①だった。
未婚の母になったのは34歳のとき(もう9年も前!)。とにかく、なりふりかまっていられなかった。
子どもについての経験値も知識もほぼゼロのじぶんの目の前に、ふにゃふにゃなベビがやってきて、お世話をするだけでもあたふたなのに、生活も回さなきゃいけない。
ひとりで子育てするのに何が大変だったかって、文字どおり“手”が足りないことだった。
稼ぐ手、子育てする手が、どうがんばっても計2本しかないというのは、痛手だった。しかも犬2匹つき。じぶんで選択したのはわかっているけれど、何度じぶんの分身がほしいと思ったことか…笑。
とくによく覚えているのは、シャワーを浴びるのが至難の業だったこと。あかちゃんと湯船に入って洗って、「はい、おねがいっ」と渡す相手がいないばあい、じぶんは素っ裸のままベビをタオルで拭いて包んで、片足でドアを押さえてベビの様子が見えるようにしておきながら大急ぎで頭を洗って…と、どうしたってドタバタ劇のようになる。ボロ家だったから凍えそうで…。
未婚の母じゃなくたって、夫が手伝える人ばかりとはかぎらないから、母になった人たちはみんな、こんなんをひとりでこなしているのかと驚いた。
そして、人間関係のプライオリティが変わった。
あんなに四六時中求めていたはずの、じぶんのことを誰かに理解してもらいたい欲が、消えた。
そんな自己肯定感を得るよりも、フィジカルに“手”を貸してくれる人が重要になった。
そこから、じょじょにだけれど、生き方も変わったのかもしれないな、と今になって思う。
むかしのじぶんは、いつでも仕事が最優先で、プライベートなことは理由にできないと思い込んでいた。
けれどもその頃から、もちろん仕事も大切だけれど、じぶんの“いま”にフォーカスするよう、生き方を切り替えていったような気がする(と言うとなんかカッコいいけれど、現実的にそれしかできなかったってことね)。
もちろんお財布具合はとっても大事で、苦しかったこともあるけれど、今しか並走できないお子との関係性をないがしろにしないように、仕事でも、“できること”と“できないこと”をはっきり伝えるようにした。
フリーランスだから、“できない”ことを伝えるには、正直けっこう勇気が必要だった。オファー自体を失ってしまうかもしれないからね。
でも、「できないこと」を受け入れてみると、不思議なことに、じぶんだけでなんとかできる、何とかしなきゃと思っていた頃よりずっと、しぜんに誰かの助けを得られるようになった。
もしかしたら、単に図々しくなっただけなのかもしれないけれどw
相方さんが加わった今の生活も大好きだけれど、お子①とふたりぼっち(+犬2匹)の暮らしは、やっぱりとても貴重で、とくべつだったなと思う。大変だったけれど(半分忘れちゃっているけれど)、毎瞬のスペシャル度が半端なかったという感触は、今でもわずかにある。
そして、お子①の前では、あんなに甘え下手だったじぶんも、片意地張らずに素直になれるというのが、わりと大きな発見だった。
オトナの男子相手だと、ぜんぜん甘えられなくて可愛い声のひとつも出せないくせに、お子①には、何の恐れもなく弱さを見せられるし、頼れるし甘えられる。庇護を必要としているのは相手のはずなのに、目の前の小さな、でも輝きで溢れている存在は、素のわたしを受け入れてくれて、ただひたすら愛してくれて、求めてくれて、わたしの生を居心地のよいものに変えてくれた。
そうやって5年ほど過ごした頃、もうオトナ男子はいらないから、こんどは猫ちゃんでもいっしょに…と思っていた矢先に現れたのが、相方さんだった(猫の代わりかw)。
ひとり子育てに慣れてしまっていたから、誤解を恐れずに言えば、何でもわたしひとりでできてしまう(言語の壁もあるし、じぶんでやったほうが手っ取り早いことも多かったりもする)。でも、そこでひと呼吸おいて、相手を頼る。
甘えるのも頼るのも、まだとうてい上手とは言えないけれど、全部じぶんでやってしまわずに相手にやってもらう余白を、できるだけ意識してつくるように。
そうすると、相手の反応がぜんぜん違うのがわかる。
全部じぶんでこなして、あとで「わたしばっかりこんなにがんばったのにー」とクサクサした気持ちを抱くより、はじめからお願いしちゃえばいい。
じぶんが相手を頼れれば、相手は助けてくれる。そして助けになったことを、純粋によろこんでくれる。
こんなに単純な図式なのに、稼働させるまでにずいぶん時間がかかってしまった。この図式がすんなりはたらいてくれると、人間関係におけるよけいな肩の力が、ふっとぬけていく気がするんだな。
「おねがい」「いいよ」「ありがとう」「どういたしまして」
ひとりで生きて死ぬのがサガだけれど、それでもひとは誰かに甘えて、頼って、感謝し合えるとここちいい。
それがもしかしたら、愛。