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産む、産まない、産めない。
というのは、2014年刊の甘粕りり子さんの小説のタイトル。書籍編集者としての仕事もしているのに、じつは小説はめったに読まない(すみません…)。この本も、当時出入りしていた出版社に転がっていたのを、タイトルにびびっときて持ち帰ってきたというのが出会い。
note2日目、ほんとうは違うことを書こうと思っていたんだけれど、FBで流れてきた朝日新聞の記者さんの「子どもがいない、という生き方」という記事を読んで、なんか、そればっかり気になる気持ちになってしまったので、書いてみることにしました。
子1(娘)がどんな経緯で誕生したかは、当時はペラペラ喋っていたのだけれど、今は彼女自身のプライバシーにかかわることなので安易には語れない。
2011年、妊娠が発覚したのは34歳。フリーランスで自立して数年経ったころだった。プライドばっかり高いのに、ライターとか編集者という肩書きとしての自分にはまるで自信がなくて、もらえる仕事をただひたすらやっていた(ま、今だってそうだけれどね)。
表参道で打ち合わせを終えたあと、駅のトイレで用を足していたときに、世界がぐわんとうねった。そう、3.11だ。わけがわからないまま「何か大変なことが起こったんだ」という気持ちだけ抱えて、とつぜん非日常の世界にへんげしてしまった渋谷をぞろぞろ歩いた。
そのとき、まだ妊娠検査薬は紙袋のなかに入ったまま、本棚の片隅に押し込まれていた。でも毎月周期どおり来るはずの生理もなかったし大好きなビールはまずいしで、「だれかが自分の腹のなかにいる」という予感が消えなかった。
当時のわたしにとって、それはものすごく“イヤな”予感だった。この惨事にまみれて、なかったことになってしまえばいい、と思っていた。本気で。
そこから、ぜんぜんハッピーじゃない妊婦生活がはじまった。
というのも、当時のわたしには「妊婦さん=“セックスしました!”と背中に張り紙つけて歩いている存在」に見えてしかたがなかった。
なんか、ひどいよね…汗。
けれど本気でそう思ってたんだな。子連れのカップルを見れば「へえ、このふたりがセックスしわたけね、どんなセックスしたんでしょうね〜」みたいな発想がまず頭をよぎる、そんな人間だった。
今でもそう思わないわけではないけれど、この当時あった邪心みたいな要素は、すっかり消えた。まだ分析しきれていないけれど、セックスに対する認識が変わったのかもしれない。
でもとにかく当時は、自分がそんな存在になることが耐えられなかった。「結婚してないのに?」とか「相手は誰なの?」ときかれるのもイヤだったし、「誰の子なの?」とかきかれた日には怒り心頭だった。誰の子って、わたしの子にきまってるんですけど…!!!
だから、ひたすら腹が大きくならないよう努力して、隠した。
そもそも昔から小さな子どもは苦手だった。
自分がいつ子どもから大人になったのかもよくわからないくせに、大人として子どもを扱うなんて、おこがましい気すらした。どう接したらいいのか、何を話したらいいのかもぜんぜんわからない存在だった。自分の人生と接点があるとは思えなかった。だから世間のひとたちが「未来の子どもたちのために」とかいうスローガンを多用するのも意味不明だった。子どもも何も、まず自分をどうにかしなきゃでしょ、ってね。
で、何が言いたいかって、こんなわたしが、どうしてか変わった。
厳密には、「産んだ」から変わったのではなく、「子どもが四六時中自分の世界にいる」から変わったのだ、と今では思う。
“産むか産まないか”も、もちろん大きめな違いだけれど、もっと大きな違いは、“子どもが暮らしのなかにいるかいないか”の違いなのかなと。
でも今の日本では、子がいる暮らしを実現させるためには、自分が産むという選択肢しかほぼないので、やっぱり「産む、産まない、産めない」というトピックになってしまうのかもしれない。
わたしの場合、「自分が母である」という自覚は、そんなにすぐにはやって来なかった(ってか、今でもあるのか謎)。
ひねくれ者だし、ひとり親だったし、子どもとの関係を“母子”に限定したくなくて、お子にはわたしを「キオ」と名前で呼ぶように仕向けた。だからいまだにお子は「ママ」じゃなくて「キオ」と呼ぶ。
ただ、おっぱいは信じらんないくらい痛いし、ぜんぜん寝れないし、自分のご飯なんて立ち食いだし、あかちゃんと暮らすってまじこんなに大変なんだあと、はじめて知った。
そして、その大変さにはいつも「こんなに愛おしいんだあ」が同居するということも。
母になったというよりは、この世界をともに生きるバディを得た!みたいな気持ちのほうが大きかった。そしてこのバディは救世主だった。それまで、どうやっても自虐的になってしまう自分に、まっとうな存在理由が生まれた(ような気がした)。
でも、べつの側面もあらたに出現した。
子どもをもつ人になった瞬間に、“子どもがいる人”との共感軸が一気にひろがった。言葉で説明しなくても「あ、子どもいるんですね」だけで、その人の世界と自分の世界が大きくシンクロするみたいに感じられるマジック。バックグラウンドを何も知らなくても、暗黙のうちにわりと膨大なトピックを共有できちゃうみたいに錯覚する、妙な感覚だ。
逆にいえば、その感覚は「あ、子どもいないんですね」と誰かを切り捨てる要素になる。これまでの人生でもっとも嫌悪してきたはずの「排他性」が、自分のなかにごわんと大きな音を立てて構築されたのを感じた。
そして残念なことに、この感覚を消し去るのは、けっこうむずかしい。
わたし自身は、“産んでいない人”にはもう戻れないから、そうでない視点で語ることもまた、できなくなってしまった。そして、どんなに困難な境遇にあっても、もし妊娠できるなら産んだほうがいい、とおすすめしたくなってしまう自分がいるのも否定できない。自分が本当に本当に、お子に救われているから。
お子2が逝ってしまったあと、すごく迷ったけれど、やっぱり相方さんとの子どもがほしい、と思った。それでまた妊娠したけれど、流れて落ち込んでいるとき、保育園のママ友に「不妊治療もひとつの選択肢だよ」と言われて、それまで考えたこともなかった不妊治療をやってみることにした。あんなに妊娠するのが嫌いだったのにね。
でも不妊治療の診療は、産院のそれとはわけが違った。
下半身をあらわにして股を開かなきゃいけないのは同じだけれど、そこでムニュッと突っ込まれる目的が、あかちゃんに出会うためか、空っぽの子宮をのぞかれるためかでは天と地も差がある。
ああ、不妊治療って、こんなにも屈辱的なんだ。と、思った。
「自分が産めない女だ」ということを、無言で突きつけられるような。
産院で股を開く経験をしているわたしは、よろこびも知っている。でも不妊治療しか経験していない女性は、この感じしか知らないんだって思ったら、苦しくなった。みんなこんなのに耐えてるのかーって。
けっきょく、不妊治療はわたしの身体にまったくフィットしなかったようで、大金払ったのに卵子はぜんぜんとれなくて、ホルモン注射で怒りが爆発する初体験だけが新鮮だった(あんなに自己制御不能な怒りを感じたのははじめてだったよ)。
まだ未練がないわけではないけれど、不妊治療はもういいかな。その間に4回自然妊娠して、でもけっきょくすべて流れてしまって、45歳まではあきめないほうがいいのかなと思いつつ、でも妊娠ばかりを意識しているとちっとも前に進めないから、もう8割がたあきらめている。のが今。
しかもさ、不妊治療って、未婚の女性は受けられないんだよ。なんて差別的なんだ。シングル女性で子育てできるキャパシティを持っている人なんて、たんといるのにさ。フェアじゃない。
産む、産まない、産めない。それは経験値の違いでしかなくって、どれも、ありだ。
ただ経験値が違うから、わかり合えなかったり噛み合わなかったりすることも、きっとある。
でも、じゃあママだという共通項があるからって、わかり合えるわけでもない。さっき書いたマジックはたしかに存在するけれど、じっさいに掘ってみると、経験値が似ていても価値観や考え方がぜんぜんちがって噛み合わないことは、正直いっぱいある。
でも考えてみりゃあたりまえだ。みんな違うんだもん。
大好きな友だちのなかにも、子を産んでいないアラフォーアラフィフ女子たちがいる。みんなそれぞれに輝いていて、わたしから見たら、いつだって眩しい存在だ。
お子2が逝ってしまったときも、飛んできてわんわん一緒に泣いてくれた。それぞれの方法でぎゅうっと想いを伝えてくれた。たしかに「産むか産まないか」についてしみじみ語り合ってみたことはないけれど、子連れでも子連れじゃなくても、パートナーがいてもいなくても、同じ場でわいわいやって癒やし癒やされる、わたしにとってかけがえのない人たちだなって思う。
個々の人生のディテールについては、互いにとやかく言わない。だって誰に言われなくたって、みんな自分の道を懸命に歩んでいるに決まっているもの。そんな暗黙の了解があるような気もする。
だから母であるかないかなんて、みんな個体が一人ひとり違うというレベルと同じ次元の違いでしかない。と、いう結論にたどり着きました。
でも、社会(世間かな)はそう見ないんだな。だから、とても苦しい。
誰もが堂々とひるまず、自分の生きざまをシェアしちゃえばいい。
みんな唯一無二の存在なんだもの。誇るべきはそこだよね。
ね。
また長くなったので、今日はこのへんで。