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才能が眠ったままでも

文章って学んだり能力を磨けばいつかはなんとかおもしろい文章が書けるだろうと思っていたのだが、残念ながらそうではないようだ。僕の場合。


僕が考えるに、ある程度文章力を磨くことができるのだと実感はした。
だがしかし、やはりそこはある程度書けるようになってくると、自分の気持ちや感じた事を、自分ではなくて他のひとが見ておもしろいと思わせなければならない。そこが難しいところだ。

難しいというか…なんと言うか。
例えばそれは絵を描くようなもので、ドラゴンボールが好きだからといって、こどもの頃にマネして描きまくったから、じゃあ自分の感性だけでドラクエの絵も描けるだろうとなるかというと、そんなことはないわけだ。(見ながらだったら描けるだろうが、そういうことが言いたいわけでなくって)

やはりそこは作者のセンスだったりデザインするチカラだったりするのだろう。
マネすることはできるし、絵のタッチも完全に把握して、そっくりな絵をつらつらと描けるようななったとしても、作者の頭の中にあるストーリーや今までやってきた絵を描く経験は完全にマネすることなど不可能だ。やはりそれはマネごとなのである。

僕が今から誰かの文章を読み漁ったところで、才能が突然と開花するかといったらそんなことはないと思ったのだ。


今から誰かの文章を読み漁ったという時点で既に、そのひとの影響をモロに受けているし、頭の中で知らないうちに文章の作り方のパターンを刷り込まれている可能性だってある。
誰かから言わせたら、「これはマネごとであって、単なるレプリカに過ぎない」と言われてしまうかもしれない。


そう考えて、無性に切なくも悔しい気持ちに襲われてしまった。襲われた?いや、滲み出てきた。


そう思って、じゃあ逆に「僕には何の才能があるんだろうか?」と思った。

いや、どうだろう?


たくさんのひとに注目されるから才能なんだろうか?
いや、そうじゃないだろ。

『多くのひとが「いいね」と言うから才能』ではないはずだ。
たくさんのひとが注目していなくても、とんでもない能力を持っているひとというのはゴロゴロと生息しているものだ。

開花した才能を持ったまま、不特定多数の誰かに披露することもなく友人だけに披露するだけで満足だっていうひともいるのだ。


いいんじゃないかな、それでいいと思うんだ。


誰の目にも止まるような場所に咲いている花なのか、自分のお庭かベランダにポツリと咲いている小さい花なのか、その違いかと思うのだ。



盆栽なんていう趣味がある。

その美しさに僕は、長年気づくことはなかったのだが美しく素晴らしいものだと、最近感じるようになった。

そのほとんどがみんな家の中、庭に置いていて、誰かの目にはなかなか止まらない。だけど、ちょっと遊びに来た友人とかに、ふと見られたりして喜ばれたりする。
お庭にポツリとあるだけでもそれだけでカッコいいなら、それでもいいんじゃないかなと、そんな風にも思ったのだった。


才能の開花は小さくでいい。近くのひとがそっと喜んでくれるくらいでちょうどいいんだと思うのだ。




地味な開花具合を見て元気にでもなろうかな。




ジミー・ヒラークさんだよ、これからの僕は。

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二ノ宮金三郎
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