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結婚することは犬を飼うのとは違うが、それと同じくらいに気楽であって欲しい

10年近く前の話だろうか。
5歳ぐらい離れているひとと定期的に話すことがあり、そのひとの生活が自分とはまるで違うので興味を持って聞いていた。


そのひとは既婚者で、奥さんと2人で暮らしていた。ほんのちょっとだけ憧れがある。
ひとり暮らしもした事がないのに、奥さんと2人で暮らすなんてな。自分にそんな事がこれから先にできるんだろうか?なんて思っていた。



当時僕は結婚というものはものすごく難しいものだと思っていたので、いろいろとそのひとに聞いていたのだった。

食事はどうしているのか?とか、遊びに行くのもいつも一緒なのか? とか…(今考えるとまるで異星人への質問だな笑)


想像がつかないじゃない。周りにいるひとは大抵がこどもがいて、「家族」という形で生活している。「夫婦だけで家族という形」をしているは僕の周りにはその夫婦しかいなかった。しかもそんなに歳は離れていない。


この時点で僕は、夫婦はこどもを儲ける、家を建てる、車を買う、みたいに、固定観念で見ていたんのだと思うのだ。
だからその夫婦がすごく珍しかった、「こどもは作らないの?」と失礼なことも聞いたりしていた。


しかし、それゆえにいい事もあった。そうやって質問しているうちに、なんとなく「夫婦」という形というものの輪郭が見えてきた感じがした。僕の考えている夫婦よりも、もっと気楽で楽しいものだという事がわかったのだった。
僕がイメージしていた夫婦とは「お父さんとお母さんが協力してこどもを育てる」という、半ば学校みたいなものだと(ま、学校みたいなものだけど)思っていたのだ。


だけどそれって、なんかおもしろくないでしょ。こどももおもしろくない。
別に自分はこどもを作るために存在しているわけじゃないし、奥さんもこどもを作るための道具ではない。こどももペットみたいなもんじゃない。

全部何か歯車がおかしい、“そのために生きている”というひとつの「仕事」のように思っていたのだ。こどもを育てるって自分の仕事とかやるべき事というノルマとかの日課と同じにしてしまうと、途端におもしろくなくなってしまうんじゃないかと思う。


僕の思い込んでいた「夫婦」とか「家族」の形は、そのままの価値観を持ち続けていたら、かなり“おもしろくない”ことになっていたんじゃないかと思うのだ。




僕は、結婚をすると奥さんは世話してあげなきゃいけないものだと思っていた。
テレビドラマとかで見るちょっと冷めた夫婦とかを見ていたためか、以前はよくやってくれていた“世話”をしなくなって、仲が冷めてしまうものなのかと勘違いしていた。「昔はこうだったのに!」なんて泣き崩れたりね。

いやいや…現実は全くそんなことはないわけで、奥さんだって人間だからご飯を食べたらうんちだってするし、漫画も読めば映画だって観るのだ。好き嫌いだってあるわけだし、行きたいところもあるしやりたい事もたくさんある。会いたいひとだっているし、恋愛だってする、もしくはしていたことがあるのである。お酒だって呑むし、ガハハ、ギャハハって笑うこともある、性欲だってもちろんある。
それがある日のこと、とある男と結婚したからって、それを全て辞めてもらうことになって、その男と付きっきりに行動するようになったなんてことはありえない。お人形さんではないのだ。



それを説明してくれるのに、こんな話をしてくれた。


もしかすると、僕は家にお母さんがいるから、女のひとは結婚したらみんな「お母さんのようになる」と勘違いしているんじゃないだろうか?と。

ほほう…。

ああ、確かにそうかも。
友達の家に行くとお母さんがいる。親戚の家に行くと、いとこのお母さん(おばさん)がいる。どこかの職場に行くと女性がいて、なんとなく自分はお母さんだって感じのお母さんっぽい話をしている。
スーパーで買い物をしている女のひとも、こどもを2人くらい連れて、「お菓子ひとつだけ買ってあげるね」なんて言って、ああ、あのひともお母さんなんだなぁ、なんて思う。
おばあちゃんもなんとなくお母さんっぽい。どこかにいるおばあさんも、なんとなく誰かのお母さんっぽい。

みんなみんな、誰かのお母さんなのだ。


だからなんとなく結婚すると、「奥さんはお母さんっぽくなる」という謎の固定観念が生まれていたようなのだ。

でもだからと言って、「恋人」って感じでもないよ。との事。

はあ…。というと?

付き合っているとか恋人ってなると、なんとなく「嫉妬するひと」というイメージがあったのだが、そういう恋人のためにいろいろ気を揉まなくてはいけないなんてこともないのだそうな。
だから、特に別行動をしたからってムスッとなるわけでもないし、自分だけ焼肉を食べに行ったからって怒られるわけでもない。
その辺は「僕が家族に思っている感情となんら変わりはない」のだという(そりゃそうだ)。

僕だって、誰か家族が焼肉食べたとか、お寿司屋さんに行っただとかしていたら「いいなぁ」と思うのだけど、ムスッと不機嫌になって何かプレゼントしないと気持ちがおさまらないなんてこともない。それが当然なのである。


ああ。なるほどかー。家族ねー。


つまり、一緒にいても疲れないとか気を使わないというのはそういうことなのだと。

たとえば犬を飼っているとすると、犬の散歩をしていて何か不満だったり犬のために気を揉んだりすることはないし、過剰に機嫌をうかがったりすることもない。犬が好きだしかわいい、大切だし、犬なんだけど家族だって思ってる。


一緒にいても疲れないというのはそれと同じことなんだと。
いや、配偶者を動物のように例えているわけでもないけどね。


そうか、なるほどねぇ。




今となってはもっと違う観念を持ってしまっているのだけど、その当時からするとそうやって教わったのは、かなり自分にとってプラスになったし、自分の固定観念がいかにくだらないものかと思ったのだった。

自分の思っていることや経験したことで学んだこと、いろんなことからヒントを得て考えていることは、必ずしも正しいとは限らない。「自分は間違っているかもしれない」と疑うことは、新しく自分を作るヒントにもなるのだな。



何かこってりなものでも食べて元気だそかな。




自分の考えに固執しないだな、これからの僕は。

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二ノ宮金三郎
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