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昭和のgifted - 90 1+1=2でなくても良い
前回のお話しはこちら
きちんと私の話を理解してくれて、賛同してくれる人が周りにできると、これまで投げつけられていたような嫉妬ややっかみからくるだろう理由のない言葉を言われても全然自分を責めないでいられるようになった。
それは私を応援してくれる人の数と、それに応えるために行ってきたことを「正しかった」と思える自信を自覚できて、さらにそのこれまで行ってきたことの評価をしてくれる人と出会えることでようやく折り合いをつけれるようになってきたというところ。
自分が悪いのかもとくよくよ悩んで無駄な時間を過ごすこともなく「私はそうは思わないけどそれだとダメなの?」と言い返せるようになった。
それがダメなんだったら別のところへ行けばいい。
そうしてこれまで様々なコミュニティや人たちを切り捨ててきた訳だが、そういう人たちにはそれなりの対応で距離を置く。わざわざ切り捨てなくても良いとバランス調整ができるようになってきた今日この頃。
理由をきちんと説明してもらえたら「そういうことね。それは勘違いしてたかも」とスタンスを変える柔軟さもできてきた。
柔軟さもできてきたと言うか、本来理由がわかって納得できれば合わせることはできたけれども、納得できない理由で折れさせられることが多かったせいで不満が溜まりがちだった。
「人をバカなしているような話し方をするから心配」とか言われることもあって、自分自身はそんなつもりなくてただ折衷案を模索するために知りたいだけなのに被害妄想が強い上に多少多様性とかには理解があると自負している人が特にそう言いがちなんだろうな。と把握できるまでにはそれなりの時間とエビデンス収集の時間を要した。
だから切り捨ててきた。ただそういう人たちって私ほどに“なぜそうなったか”のディテールを覚えていないから「いやぁ〜なんかあの頃なんやかあった直後に忙しくなってご無沙汰になっちゃってたけどふと思い出してさぁ〜」とこっちからアクションすると「超久しぶり〜!覚えててくれて嬉しい〜」とか「確かにそんなことあったね〜」と返ってくることがほとんどで、いじめっ子はいじめたことを覚えていないどころか自分が被害を被りたくないからいじめっ子側についた風のムーブを取った人たちはさらに覚えてないからそういう輩にはこちらも適当に利用するくらいのスタンスで良いのだと思う。
そう考えると昔よりはただ一般に右ならえをするのではなく、拙いながらもロジカルに話そうという分母が増えてきているような気もする。そうだったら良いことだ。良いことというか私的には非常に助かるシーンが増えた。
どうして人は自分の意思以外の思想や意見を受け入れるとこに抵抗を持つんだろう。
1+1=2
は数字的な話でそう決めておいた方が良いというルールをどこかの誰かが作って現状そうなっているというものだけどギフテッドの感性からすると
1+0.99999…≒2
は納得できないことが多い気がする。
だから許せないこととかちょっとしたズレが気になってしまう訳だけど、単純な数字じゃなくてエネルギー的な話になったらギフテッドの頭の中では
1+1=3000万!
みたいになることだってあるんだからそんな端数以下のズレでくよくよしてても良いことないよ。
ただ、どうしても大多数の人は1+1=2にしたがる。それが正しく間違ってないことだと思っているから。
私の中では前提条件や「1」の過程値が変われば1+1の応えは千差万別だから「別に2じゃなくて良くね?」と思う。
1+1を2にするのか3000万にするのかは答えを出そうとしている人のモチベーション次第で変えていい。めちゃくちゃ厳密な話をしてしまったら確実に「2」ではないことは明白なんだ。
一般論や常識は疑っても構わない。ただそれらをそういうものと思い込んでいる人たちの方が大多数だから疑念を言葉にしてしまうと必要以上にエネルギーを使わないといけなくなることもある。
それを覚悟できているのか、できないなら「とりあえず2でいいや」くらいのゆるさを持てると案外物事はスムーズに行く気がする。