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読書編①【夜と霧】ヴィクトール・E・フランクル


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本書は、みずからユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還した著者の「強制収容所における一心理学者の体験」(原題)である。
「この本は冷静な心理学者の眼でみられた、限界状況における人間の姿の記録である。そしてそこには、人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。だがまたそれは、まだ生々しい現代史の断面であり、政治や戦争の病誌である。そしてこの病誌はまた別な形で繰り返されないと誰がいえよう。」「訳者あとがき」より                    初版刊行と同時にベストセラーになり、約40年を経たいまもなお、つねに多くの新しい読者をえている、ホロコーストの記録として必読の書である。「この手記は独自の性格を持っています。読むだけでも寒気のするような悲惨な事実をつづりながら、不思議な明るさを持ち、読後感はむしろさわやかなのです」(中村光夫氏評)

今年はなるべく本を読もうと思い、一冊目に決めていた【夜と霧】。

内容が重そうで不安でしたが、想像していた内容とは違ったので驚きました。

ナチスの収容所での想像を絶する劣悪な環境と暴力の中で、こんなに『人間』としての選択が出来るなんて。。


収容所での囚人の心理状態。。。

おそらく本当に理解など出来ないほど、酷いのもだったと感じます。

その情報や映像、写真は今はしっかりと確認できると思うので聞いたり、見たりしてる方も多いと思います。

夜と霧でも解説があり、詳細に当時の状況を説明しています。凄惨さは言うまでもありません。


その後に本編のフランクルの体験が語られます。

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読みたくなくなるような悲惨な体験もありましたが、それ以上に印象的な体験がいくつかありました。


収容所では服はもちろん、あらゆる所持品も形見や結婚指輪なども、名前すら奪われて、体中の毛も剃られ、ぼろ切れのような服と靴と番号だけになり、最低限の食事だけで動ける内に使うだけ使って用がなくなればゴミを燃やすように無機質な部屋へ送られる。徐々に感情も消えていき、もはや個人でなく群集の一部になっていく。

あまりに過酷で残虐な行為が目の前で続き人の心は無感動、感覚は鈍麻、無関心となっていってしまう。しかし、それらは囚人たちの心にとって必要なことだったと。

奪われるものは全て奪われたように思えるのに、それでもまだ残っていたものがあったと。

それは、ユーモアと芸術、自然に圧倒される心の自由。その事に不思議な感動を感じました。

体験談の中で語られたある日のこと。

誰もが過酷な労働の後で疲れ切っていたのにも関わらず、1人の仲間が日没の光景を見逃させまいと外に呼び出した時のこと。

西方の暗く燃え上がる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世のならぬ色彩とをもった様々な変化する雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の堀立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜まりはまだ燃える空が映っていた。               感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。

どんな想いも分かりようのない悲惨な現実の中で見つめていたであろう、あまりに美しく荘厳な日没。とても胸に響く印象的な場面です。

ほんの一瞬、数分でも身をおく現実を遠くに感じる事ができたら。 

それはユーモアも同じ事で「ユーモアの芽」ほどにすぎないことでも、「心の武器」になり得ると。

ユーモアについてフランクルは

周知のようにユーモアは通常の人間の生活おけるのと同じに、たとえ既述の如く数秒でも距離をとり、環境の上に自らを置くのに役立つのである。

として、友人にも少しずつユーモアを言うように教え込んだそうです。


それでも過酷な労働は変わらず死はすぐそこにある状況で、さらなる苦痛や虐待から逃れられると感謝するような日々の中、現代から見ればとても悲惨としか言えない状況ですら、当時の体験した人間からすればそれは悲惨ではなかった、違うものだったと思うほどに人間の尊厳や価値がなくなっていっていたと書いてあり、そして納得できてしまう恐ろしさがありました。


そんな中でどうやって「自己を放棄」せずにいられるのか…。

読み進めるうちに、その答えが語られていくのですが、それが凄く不思議な感覚で入ってくる気がするんですね。

七・苦悩の冠 で収容所における人間の行動、態度の精神的自由、選択などについてフランクルは経験的にも理論的にも答える事ができるとし、いくつかの英雄的な実例をあげながらその行動は

人が強制収容所の人間から一切をとり得るかもしれないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできない

ということの証明力を持っているとしています。

たとえそれが1人だったとしても。

どんな態度をとるのか。自己、内的な自由、尊厳を放棄してしまうのか、想像を絶する中でも人間としての尊厳を守るのか。

そんな決断、とうてい考えられないし出来ないとも思ってしまう。 それに尊厳とか英雄的なこともそんな状態では難しいとも思ってしまう。でもきっとその判断が良い悪いとかではないんだと思う。


フランクルは何かを生み出したり、楽しみや幸せだけが意味あるものではなく、生命そのものが一つの意味を持ち、そして苦悩もまた意味を持っていると。

苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、運命も死もそうである。苦難と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。

私には言葉って、字を読んで理解するのと、言葉にして感覚的に感じる事とある気がします。

この言葉は感覚的に感じるもので、それをどう表現するのかが難しいんですが、不思議とスッと入っていった言葉でした。

そして今現代とリンクするような感覚になった体験談。

囚人たちは収容所にいつまでいなければならないのか全く分からず、先が見えない状況であったこと。 それは今コロナがいったいいつまで続いて、いつ終わるか先が見えない状況と程度は違えど似ているかもしれない。

先が見えない状況で計画も目的も見失いそこから心のバランスが崩れていってしまう。

その極端なことが収容所では起きていたそうで、未来とその拠り所を失い心身共に崩れていってしまった囚人の深刻な失望は抵抗力を急激に低下させたと。

さらに個人的に衝撃的だったのが、その例とあわせて、ある年末年始にフランクルのいる収容所で「未だかつてなかったほど」の大量の死亡者が出たことへの観察と結論。

それは過酷な労働でも悪化した栄養状態でも悪天候でも伝染病でも説明され得るのもではなく、クリスマスには家に帰れるだろうとの希望が失望と落胆に変わり囚人を打ち負かしたのだと…。

もちろん医学的に違う答えもあるのかもしれませんが、なんとも今のコロナの広がりに似て感じてしまいました…。

約一年、新しいウイルスに対して命の為にとはいえ、いろんな制限をかけられ、我慢をしていた中、GOTOトラベルなどで少しずつ人が動いて、娯楽や芸術、飲食店、宿泊施設、観光などが何とか持ち直そうとしていた矢先の中止や自粛。 それでも年末年始くらいは実家に帰って家族と過ごそうとか、孫を会わせようとか、友人、恋人と過ごそうとか考えていたのにできなくなり、さらには緊急事態宣言や時短などで、かなりの精神的な負担と落胆があった人も多かったと思うんです。

年末年始には、とか先の目的があって何とか気を張って踏ん張っていた心と体は空気が抜けていく風船みたいに気が抜けてしまったんじゃないかなって。 そこに季節的に体調崩しやすい時期ならではの不調からコロナってことにも繋がってしまったりしたのかも…と読むのを止めて思ってしまいました。

病は気からじゃないけど、きっかけとして精神的なこともあるんじゃなかろうかとか。

もちろん、あくまでそんな風に感じただけで、根拠も何もない感想です。

でもユーモアと芸術や自然を感じる事は今でも大事なことだなって思います。


そこから失望、絶望との闘いへと向かうのですが、あらゆる苦難や苦悩を受け入れたうえでの闘い。その苦難や苦悩は人毎、瞬間的にも変化し、いかなる人も運命も比較できないし誰もそれを代わることもできない。

それによって気が弱くなったり、涙を流すことがあってもそれは恥じることではないと。

最後に収容所からの解放とその後の心理について書かれているのですが、その心理の変化も複雑なものでした。

奇跡的に生きて収容所から解放されてもまだすぐに元通りとはいかなかったそうです。

その経過と、自身の回想を交えながらフランクルの体験記録は終わっていきます。


読み終わった時は、前向きとか困難に立ち向かうとか、そうゆう事ではなく、人間の心の奥底にあるナニかを揺さぶられれるような感覚でした。感動もありますが違うんです。

人としてどうあるべきかって事もあるけど、それとも違って、もっともっと自分自身の深い部分へ向き合っていくような感じというのか、不思議な感覚です。

私的に印象的な部分を感想として書いたり、引用しました。

当然ですが同じ部分を読んでも違う感覚があるでしょうし、悲惨さに不安や苦しさを感じてしまう事もあるかもしれません。実際、そのような感覚もありました。

それでも読んで良かったと思える一冊でした。


アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発

こちらは収容所側の心理についての映画でしたが、その結果も驚くべき事で、自分たちはいつどちらの側にもなる可能性があるんだろうと思いました。



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