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【予想】豊臣家が200年以上後の幕末まで生き残っていたらどうなっていたか?

豊臣家といったら多くの人は戦国の三英傑の1人豊臣秀吉を思い浮かべると思います。

身分の低いところから這い上がり、最終的には天下統一を成し遂げて全国の大名を支配する立場まで出世したストーリーは有名です。

「身分の低いところからスタートした」というのが織田信長や徳川家康とは違う秀吉最大の魅力です。

しかし、豊臣家の天下は長く続きませんでした。1590年に天下統一を成し遂げた後、1603年には家康が江戸幕府を開いたことにより、わずか10年ちょっとしか続きませんでした。江戸幕府が成立した後は、豊臣家は一般の大名に降格します。

しかも最悪なことに1615年には大坂夏の陣によって豊臣家自体が家康に滅ぼされてしまいます。この戦いは当時の豊臣家当主である秀頼が徳川家に最初から従っていれば、起こりはしない戦いだったと言われています。


今回の記事では、大坂夏の陣が起こらずそのまま豊臣家が生き残って200年以上後の幕末の世を生きていたとしたら、世の中はどうなっていたかについて自分なりに考察してみたいと思います。

歴史にIFはなしとよく言われますが、それでもIFを考えることは楽しいので自分は色々な時代に起こった歴史のIFについて良く考えます。




豊臣家の力が大きく削がれる!?

まず豊臣家が権力を握っていた時は220万石(石高は土地の生産性の単位)の土地を持っていました。

そして天下が徳川に移った後は、65万石の大名に転落しました。

転落したとはいってもそのころの豊臣家はまだ大坂城を居城としていたため、完全に力がなくなったわけではありませんでした。

当時を生きていた人は、豊臣家の天下復活がありえるかもしれないと予想していたと思います。

この背景を理解した上で、もし秀頼が徳川家に従う意志を見せたとしても、大名としての存続は許されたでしょうが、そのままの石高というわけには当然いかなかったでしょう。

そのままの力で残しておくことは家康・秀忠親子の両方が許さないでしょう。

実際、家康は秀頼に大坂城を出なさいという国替えの条件を提示しています。

秀頼がその条件を飲んだとしたらおそらく豊臣家は3万石ぐらいの小大名として生き残ることになると思います。

特に改易が多かった秀忠・家光の時代も上手く乗り切れたと仮定してその後も生き続けると考えますが、おそらく派手な加増はずっとないと思うので、小大名として幕末の世に突入することになるでしょう。

豊臣家の予想される立場

自分の考えとしては、おそらく豊臣家の人間が自ら何か行動を起こすような展開にはならなかったと推測します。それにはやはり石高の大きさが関係すると思います。

江戸時代後期になると初期の頃に比べて石高の大きさがそのまま藩の力に影響するわけではなくなったのは事実です。

しかし、幕末において最終的に倒幕運動を展開した薩摩藩や長州藩、土佐藩はそれなりの石高がありました。もちろん大規模な藩政改革によって力をつけた側面もありますが、やはり元の石高による藩の力は関係するでしょう。

幕府側の藩であった会津藩などは大きな藩政改革などはなかったのですが、やはりそれなりの石高がありました。

つまり倒幕派・佐幕派(幕府側の藩)の藩問わずやはり10万石前後からそれ以上の石高を有している所ばかりです。

なのでもし豊臣家に色々な考えがあったとしてもそれを行動に移すという展開は考えにくい気がします。

なのであくまで豊臣家は動乱の世の中で目立つことなく日和見の姿勢を取ったのではないでしょうか?

豊臣家と徳川家は仲良しの可能性が高い!?

豊臣家と徳川家は江戸時代初期に家康の孫千姫秀頼が結婚した経緯があります。徳川将軍家は江戸時代を通じて将軍の娘を有力大名の所へ嫁がせて家同士の交流を図ろうとしていました。

その対象となったのが加賀藩の藩主前田家や、薩摩藩の藩主島津家などです。

生き残った豊臣家は石高は少ないにしても元全国を支配していた家なので、大藩である加賀藩などとはまた別の怖さがあります。

そこでおそらく豊臣家の当主と徳川将軍の娘を結婚させるという習慣はその後も残った可能性が大いに高いでしょう。

そうなると豊臣家と徳川家は非常に近い親戚となり、豊臣家の間でも時代が経つにつれ反幕府という立場は薄れていき、幕末を迎えるころには反幕府という姿勢はほとんど残っていなかったと思います。

これを踏まえると、豊臣家はかなり幕府側の立場だったに違いありません。


ただこれを聞くと、
「いやいや薩摩藩と幕府は婚姻関係結んでいたけど、結局薩摩は倒幕したんだから島津は反幕府だったんでしょう」

と思う方もいるかもしれません。ただ、あくまで倒幕したのは薩摩藩の中でも藩士とよばれる大名の家臣的な立場の人が積極的に行動したことによって成し遂げられたものであり、薩摩藩のトップにあたる藩主島津家は最後まで倒幕は考えていませんでした。


豊臣家の予想される立場②

先ほど
「豊臣家は積極的に動くことはなく日和見の姿勢を取ったために幕末の世において目立つことはなかったであろう」という自分なりの意見を述べましたが、それとはかなり違う展開も考えたので話そうと思います。

それは豊臣家の当主を他の藩の人が担ぐ形で歴史の表舞台に無理やり登場させられるような展開です。

豊臣家を攘夷(外国勢力を追い払うこと)運動の筆頭にして、
豊臣家の下で攘夷に燃える人たちを集結させる展開もあり得たのではないでしょうか?

秀吉は晩年に当時の中国大陸を支配していた明という国を征服するためその足掛かりとして現代でも悪評の朝鮮出兵を行いました。
これはまさに海外遠征です。

この出兵は結局失敗し、豊臣家自体の力を落とす原因を作ってしまいました。この朝鮮出兵と幕末の攘夷にはある共通点があります。

それはともに外国を対象としたことにあります。
国自体は違くても相手が外国という点は同じです。

幕末の藩の中には、もともと戦国時代に秀吉から与えられた土地をずっと継承していた家もありました。例えば加賀藩の前田家などがそうです。

攘夷運動に燃える人たちはそんな秀吉から与えられた領地を継承している藩の大名に声をかけて攘夷に協力する体制を取ったかもしれません。

豊臣家をトップとして、そのもとに大名や攘夷に燃える藩士を集めて攘夷連合軍みたいな組織を作ったかもしれません。

豊臣家を担ぐ人の大義名分として
「豊臣家は200年以上前に朝鮮出兵で海外遠征に失敗している。しかし、豊臣家をトップとしてその下に、豊臣恩顧の大名たち同士が手を組めば攘夷はきっと成功する。あのときの悔しさをバネにするんだ!」というふうに言って攘夷の勢いを高めさせる感じになったかもしれません。

この考えだとすると幕末の世において豊臣家はかなり影響力を及ぼす存在になります。

終わりに

今回は幕末に豊臣家が生き残っていたらどうなっていたかという完全な歴史のIFについて話しました。

自分としては、最初に話した日和見姿勢で全く目立つ存在ではないであろうの方を支持しますが、②の攘夷の筆頭にさせられたであろうというのも意外となくはないかなと思いました。

ただ、歴史のIFというまったくの空想な話なので、所々話が無茶苦茶になったところもあるかもしれません。それについては申し訳ありません。

あなたはどんな歴史のIFを考えますか?

今回の記事はここまでです。

ではまた!






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