【血縁関係シリーズ⑨】藤原道長は中大兄皇子の子孫でもあった
藤原道長と中大兄皇子はどちらも小学校の歴史の教科書に登場するほど有名な人物です。
中大兄皇子(626~672)は飛鳥時代の人物であり藤原道長(966~1028)は平安時代中期の人物です。
中大兄皇子は父にあたる舒明天皇と母である皇極天皇の子供としてうまれました。
父母両方天皇というかなり高貴な身分の生まれです。中大兄皇子が生まれた時の世の中は、蘇我本家が権勢をふるっておりその力は天皇をもしのぐほどだったといわれています。そして色々な悪事を働いていたといわれています。
ただし本当に蘇我本家が悪さをしていたのかどうかはわかりません。
なぜならよくいわれるように歴史とは勝者が作るものだからです。
蘇我本家は敗者なので事実が捻じ曲げられていて、悪く言われている面もあると思います。しかも今から1400年前ぐらいの大昔の出来事のためなおさら伝えられていることが事実ではない可能性が高いです。
話を戻すと、
蘇我本家に対して危機感を抱いた中大兄皇子は蹴鞠を通じて仲が良くなった中臣鎌足と一緒に蘇我本家を倒す計画を立てました。
そして645年に中大兄皇子と中臣鎌足は結託して蘇我入鹿を倒すことに成功しました。(乙巳の変)これを受けて、入鹿の父である蘇我蝦夷は自〇しました。
これにより蘇我本家は滅びました。
この後、有名な大化の改新とよばれる改革が実施され公地公民制などの新たな制度が作られたりしました。
※余談ですがこのときにはじめて日本でも元号が使われてました。
日本で最初の元号は大化の改新の名前で有名な大化という元号です。
晩年には中大兄皇子は即位して天智天皇になります。
天皇に即位した次の年に、中臣鎌足が亡くなってしまいます。
この直前に中大兄皇子は中臣鎌足に藤原という姓を与えます。
これが藤原氏の始まりです。
そこから藤原氏は繁栄し、藤原氏が誕生してから約350年後の藤原道長の時代に最盛期を迎えます。
藤原道長は自分の娘を天皇に嫁がせて生まれた子供が次の天皇になることでその天皇の外祖父となって実権を握りました。
藤原道長が中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫であるのは割と有名だと思いますが、実は中大兄皇子の子孫でもあったことはあまり知られていません。
今から本やウィキペディアを参考にして系図に表してみようと思います。
まず先に中臣鎌足と藤原道長の血縁関係を系図に表してみます。
※同じ姓が連続する場合には姓を書くのを省きます。
中臣鎌足(藤原鎌足)
↓
藤原不比等
↓
房前(藤原北家の祖)
↓
真楯
↓
内麻呂
↓
冬嗣
↓
長良
↓
基経(叔父の良房に養子に入る)
↓
忠平
↓
師輔
↓
兼家
↓
道長
系図を見ると藤原道長は中臣鎌足の11代後の子孫であることがわかります。
藤原氏には藤原四家と呼ばれる家がありました。
・藤原武智麻呂を祖とする家⇒南家
・藤原房前を祖とする家⇒北家
・藤原宇合を祖とする家⇒式家
・藤原麻呂を祖とする家⇒京家
四家の祖は4人兄弟でありみな藤原不比等の息子たちでした。
藤原道長は藤原房前を祖とする北家に生まれました。
北家は最終的に藤原四家の中で一番発展した家であり、だいたい藤原冬嗣の時代あたりから力をつけた家です。
今度は中大兄皇子と藤原道長の血縁関係について見ていきます。
中大兄皇子(天智天皇)
↓
志貴皇子
↓
光仁天皇
↓
桓武天皇
↓
嵯峨天皇
↓
仁明天皇
↓
人康親王(さねやすしんのう)
↓
人康親王の娘
↓
藤原忠平
↓
師輔
↓
兼家
↓
道長
藤原道長は中大兄皇子の11代後の子孫です。
仁明天皇の孫娘にあたる人が、藤原基経に嫁いで藤原忠平を産んでいます。
なんと藤原道長は大化の改新を成し遂げた中臣鎌足と中大兄皇子両方の子孫だったのです。
このことを藤原道長が意識していたかどうかはわかりませんが、有名人物同士が実は血縁関係があったと知ったときには個人的に嬉しくなります。
またこういった意外な人物同士の血縁関係について暇があれば、今後も取り上げていきたいと思います。
ではまた!
参考にしたもの
・藤原氏 権力中枢の一族 倉本一宏著
・平安時代と藤原氏一族の謎99 渡邊大門監修
かみゆ歴史編集部 編
・Wikipedia
・歴代天皇大全 不二龍彦著
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